停電と猛暑で災難に遭われてる人が多いが、
濡らしたタオルをプロペラみたいに、思い切りブン回してみろ。
もちろん迷惑にならない場所でな。
気化熱って凄いぞ。
現役中、クソ暑い演習場で半ばヤケで試した結果だ。
昭和8年8月1日「陸軍習志野学校」が創立された。
地名だけの学校名は、この学校が化学戦の教育、訓練を行う学校であることを秘匿したもので、
学校の幹事はのちにラバウルで名を馳せる、今村均大佐であった。
当時の日本陸軍が試作、保有していた毒ガスを実際に散布し、
ガスマスク、防毒衣を着用した兵が化学戦訓練を行ったが、毒ガスによる負傷者が出ない。
これが逆に、試作毒ガスに外国のものほどの威力があるのか疑わしい、という疑問を抱かせ、
昭和9年5月中旬、群馬県相馬が原で、より実戦的な演習が行われた。
敵がイペリットとルイサイトの混合ガスを散布した地帯を、消毒する時間的余裕がないため、
攻撃部隊は汚染地帯を強行通過して敵陣に突撃、追撃戦ののち消毒作業を行う、という想定で、
攻撃を行う中隊150名は、厚いゴム製の防毒装置で全身を覆う完全防護の第1小隊50名、
薄いゴム製のもので覆う半防護の第2小隊50名、防毒面と防毒手袋だけの第3小隊50名に分けられていた。
演習が始まると、30名の兵が毒ガスに侵され負傷、演習翌朝には東京の第1陸軍病院に移されたが、
演習後6日目に上等兵1人が死亡。
幹事、今村大佐も足に自力で歩けないほどの傷を負い、第1陸軍病院に移されていた。
国産化学兵器に充分な威力があることが、犠牲者まで出した演習によって確認された形となったが、
こののち、昭和11年、2・26事件の折に習志野学校に出動要請があり、
「あか1号」催涙ガスを携行した246名の将兵が鎮圧軍に参加している。
風向きによっては皇居に催涙ガスが流れる可能性があり、気象観測が念入りに行われたが、
使用する前に反乱軍は降伏、催涙ガスの”実戦投入”はされずに終わっている。
>>4
その昔の鉄道旅豆知識本には、
缶入り飲料に濡らしたタオルや手ぬぐいを巻き付け、列車の窓を開けて、
開いた窓際に置いておくとよく冷える、なんて記述があったけど、
走行中の列車に当たる風を利用した気化熱うんぬんより、窓の開かない列車が多くなった今じゃ試す機会も少ないよなあ。
元・陸上自衛隊戦車乗りに話を聞く機会があったんだが、
「真夏の炎天下で演習のとき、戦車の外に出たらクーラーが効いてるみたいに感じたもんです」とか。 意外と思われるかも知れないが、九七式中戦車こと
チハ車に、クーラーが装備される事になってたらしい。
クーラーに使う冷媒が、戦場では入手困難になる可能性がある
って理由で取りやめになったんだけどさ。
屋外用に水冷クーラー出ないかな?打ち水よりは効率いいだろうし
旧ソ連の原潜が日本製の民生用クーラーを艦内に据えてた、って話は既出?
器用な技術者なら日本製のエアコンを潜水艦の中に取り込むことも可能なのではないかな?
問題点は、冷媒管をどうやって圧力隔壁に通したかだが。
>>10
在郷軍人症候群
循環させてる水は、どうしても外気に曝される。雑菌を取り込み、放熱の段階で水飛沫となり拡がる。
身体の弱った人とか免疫が出来上がってない幼児とかが、日和見感染症を患う。
克服する技術もあるが、とにかく水を消費するもんで
地下水汲み上げで地盤沈下とか、水不足の地域とかから廃れていった。 1950年7月、朝鮮戦争開戦初頭のこと。
米空軍第19爆撃航空軍に下った命令は、
「ソウルに入る、ある鉄道橋を爆撃で落とし、鉄道を遮断せよ」。
しかし、B29が1か月に渡り、1000ポンド、2000ポンド、
果ては4000ポンド爆弾で繰り返し爆撃しても、
橋床部分は何度も吹き飛ばすことができたが、橋そのものは落ちなかった。
日本統治時代にこの鉄橋を架けた日本の建設会社が橋の設計図を提供し、
基礎が丈夫に出来ていることを知った第19爆撃航空軍は、
基礎の破壊は無理でも上部構造に被害を与えられれば、と、爆弾の信管調定を変更。
この苦戦を知ったマッカーサー元帥は、
「この橋を破壊したクルーは称賛に値する」と言明、
それを受けたストラトメイヤー将軍は、
破壊を成し遂げたクルーにスコッチ1箱をプレゼントすると約束。
8月19日、ついにこの橋は落ちたのだが、
この日、橋に爆弾を命中させたのは第19爆撃航空軍のB29のほか、
海軍の攻撃機部隊も急降下爆撃により8発を命中させており、
直後に海軍機が橋の損害を確認したところ、まだ落ちてはおらず、
8月20日、第19爆撃航空軍が攻撃をかけようとしたところ、
夜中に落ちたのか、橋桁が水中に落ちていることを確認、
残っていた橋桁の一部を落とすことに成功。
第19爆撃航空軍と海軍第11飛行隊はどちらもマッカーサー元帥からトロフィーを贈られ、
ストラトメイヤー将軍は、双方にスコッチ1箱ずつを進呈したという。
>>15
橋ってのは、航空攻撃では意外と落としにくいって話だね。
ベトナム戦争でも、米軍が橋を落とすのに苦闘してたって話だし。
まして、その周囲に対空陣地があった日には、ねぇ・・・
英国空軍みたいに巨大な爆弾を落として、基礎ごと掘り返す
様な事しなきゃならんのかも知れんのかな。 橋を空爆で破壊するって難しいでしょ
自然の豪水に耐えられるように出来てるから、工兵が手作業で要所に発破を仕掛けなきゃね。
戦場にかける橋で有名なクワイ川の鉄道橋は、繰り返し連合軍の空襲を受けていたんだが、
空襲が終わればすぐに応急修理して、鉄道を通せるようになるんで、
結局、最後まで交通は途絶しなかったってのを何かの戦記で読んだなあ。
そのうち、日本軍も応急修理のコツを掴んで、
最後の頃は釘も打たずに木を組んで架橋していたとか。
(釘を打つと、爆撃を受けたときにそこから裂けて、その材木は使えなくなるけど、
釘を打たなければ再利用できるからだそうです)
つまらん話かもしれんが
その昔、都内の大使館に出入りする業者の依頼で仕事してたことがあんのよ。
中東の産油国で宗教戒律にとりわけ厳しい国の大使館でね、日本人職員と一緒にエレベーターに乗った。職員はどっかのおばさんにしか見えない。
おばさんの手が俺が抱えてる荷物に当たり、落ちた。
唐突におばさんの口から出た台詞が『御免あそばせ』いったい何処のお嬢様かよと。
しかしながら、決してお嬢様育ちでもない。男尊女卑の国の書記官様を尻に敷いてた。
その書記官様の個室水回りを診させられたのだが、本場モノのウォッカが一瓶、シンクの中にデンと座っていたな。
反米時代にソ連駐在だった人かもしれん。
>>15
まあ実際に奴隷労働させられて橋を作っていたのは朝鮮人労務者たちだけどね >>21
自力でそうしたインフラ作れる様になってからそうした戯言ほざけよ植民地民
日本の技術が無ければ満足に鉄道も道路も整備出来なかった国未満の未開地が今偉そうに先進国面しているんだから笑わせる 橋は水平爆撃で落とすのが難しいだけで、急降下爆撃ならそこそこ落とせるんじゃないか?
二次大戦でスツーカさんが結構の数の橋を落としていた記憶がある。
それともソ連の橋は脆いんかな?
昭和15年英人のスパイが日本海軍の巡洋艦の建造を調べたとして検挙された。
>>20
そのウオッカの瓶、封が切ってあったかどうかがポイントだね。
高野秀行「イスラム飲酒紀行」やエマミ・シュン・サラミ「イラン人は面白すぎる!」など、
肩の凝らないイスラム文化本を読んでると、
ムスリムも人の子(と、いうべきか)あの手この手で酒を飲んでいるように思う。
「イラン人は面白すぎる!」によれば、エマミ・シュン・サラミ氏の近所に住んでいたおじさんも、
年間10万件を超えるという、飲酒のご法度に背いた検挙者のひとりと相成り、
5年近い禁固刑を食らったのだが、
当のご本人は「家に帰ったらワインが寝かされてちょうどいい感じになってたよ」と、あっけらかんとしていたとか。 >>16
タンホア橋攻防戦だね。
北爆でさんざん米軍が空爆をかけても、なかなか落ちなかった難攻不落の橋、
1972年、スマート爆弾の初の実戦投入でやっとこさ橋が落ちたとき、
ベトナム派遣米空軍の間では「タンホア橋落ちた」(『ロンドン橋落ちた』の替え歌)が流行ったとか。 米軍替え歌ネタでひとつ。
湾岸戦争のとき、米軍将兵が歌っていたもの。
oh,when the SCUD go firing in,
oh,when the SCUD go firing in,
I wanna be in that bunker,
oh,when the SCUD go firing in
「聖者が町にやってくる」の替え歌なんだが「スカッドが掩体壕に降ってくる」ってところか。
でもあれ、壊すのに難儀したのはタンホア橋だけで、
同時に攻撃目標にした他の26の橋はわりとあっさり
落ちてるんだよね。
「戦場にかける橋」の舞台になった川の名は、実はメクロン川で、クワイ川はその支流
映画の公開後、世界各地から観光客が訪れるようになったため、タイ当局は、
橋がかかる一帯をクワイ川、本来のクワイ川を小クワイ川と、それぞれ改名した
>>29
1980年代初頭、タイ政府はクワイ川、小クワイ川の2水系に、
発電と水源確保を目的にしたダム湖建設プロジェクトを計画。
10年の歳月をかけ、完成にこぎつけている。
とりわけクワイ川カオレームダムは、旧泰緬鉄道ナムチョンヤイ駅跡地に位置し、
ナムチョンヤイ駅跡地からニーケ駅跡地までの泰緬鉄道、51・92kmの区間は、
現在、ダム湖に水没し、旧泰緬鉄道線の面影をたどることはできない。
このダム湖建設にあたって、精密、かつ、有力な資料となったのが、
日本陸軍が泰緬鉄道敷設にあたって作成した「線路勾配断面図」で、あった・・・が、
泰緬鉄道建設にあたって捕虜を労役に使った事実が明るみに出ることを恐れた泰緬鉄道隊司令部は、
敗戦時、命令書や各種記録、機密書類を全て焼却処分しており、
さかのぼれば戦時、日本とタイは一応、友好国の関係にあり、
泰緬鉄道の建設にあたってもタイ国の了解を得ており、
友好関係中、泰緬鉄道隊司令部がタイ国鉄に引き渡した図面であったのか、
または敗戦後、英国軍が接収ののちタイ政府に売り渡した、残った資料の一部であったのか、
戦後、タイ政府が参考とした「線路勾配断面図」は、
原図ではなく、タイ語と英語に翻訳された、かつ、不完全なものではあった。
なお、完全なものを目指して敗戦まで手をゆるめることがなかったのが、
泰緬鉄道隊司令部の一角にあった「特設鉄道隊」全員が国鉄からの徴用職員部隊で、
そのOBいわく「戦に敗れるということは何もかも失うということではありますが、せめて自分がやった図面は持ち帰ろうとさえ思いました」。 >>23
ノモンハンの戦記を読むと、当時のソ連軍は、床版が水面下にある水中橋を多用していて、
砲爆撃による破壊どころか、発見すら困難だったとのこと。
なので、粛清とかでそのノウハウが失われていたんじゃなければ、
同時期の他国に比べて脆いって事はないと思います。
水平爆撃や砲撃で破壊するのは難しくても、ピンポイントで橋脚とかを狙えれば、
案外あっさり落とせる物なのかなあ。
あと、条件が良ければ、工兵さんたちの必死の努力で、短時間で復旧できるらしいので、
「一時的に橋を使用不能にすること」と、「長期間にわたって橋を使用不能にすること」が、
ごた混ぜにされている可能性もあるかも。 ピエール・ブールは、2次大戦中、自由フランス軍の一員として戦い、日本軍の捕虜になった経験がある
そのときの体験を直接小説にしたのが、戦場にかける橋で、日本人を猿として描き、
人類(≒白人)が猿(日本人・黄色人種)に支配される未来を書いたのが、猿の惑星
猿の惑星シリーズって、とことん救いが無いから、観る気にならない。
21世紀の新作も徹底的に灰色。
救いがないほうが面白くね?
現実だって救いなんかないんだから
彡⌒ ミ
(´・ω・`)
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● モーネバカカアホカト
>>32
まあこの当時は日本人猿が他国の人間を奴隷狩りしていたからな
ひとりの個人として自由を謳歌していた大韓国民を無理やり併合して人権を奪い、
罪も無い朝鮮人たちを強制連行して奴隷・性奴隷にしてたもんな
他国から見れば「このままなら地球が猿の惑星になってしまう」という危機感を抱くのも当然なこと >>36
ウンコ酒飲む自由を謳歌していた辺境の蛮族を列強の一員たる帝国に編入し教育をもたらし、本国の民より柔らかな条件で雇用しただけですが? 韓国人の大半は両班の奴隷で、両班だけ自由を謳歌していたの間違いだろう。
>>33
旧シリーズのいっちばん最後は、猿と人間が仲良く森の中で暮らしてなかったっけ? >>38
尚韓国人のかなりの数(七割とも八割とも)が「自分は両班の子孫だから先祖の特権奪った日本死ね」と思っているとか >>34
バック・トゥ・ザー・フューチャーのビフ・タンネン >>31
野戦架橋ネタで。
1812年、モスクワから敗走し、ベレジナ川沿いまでたどり着いた、ナポレオンの遠征軍。
ベレジナ川沿いの町に、遠征に参加しなかった予備軍が待機しており、
これと遠征軍の残存兵力を合わせると、戦闘能力のある兵力は3万人に達したが、
そこに戦闘能力のない4万人の落伍兵がすがりついており、
これを追うロシア軍の軍勢は総合計で18万人、
渡河撤退作戦が成功する公算は極めて低かった。
ベレジナ川の橋は全てロシア軍によって破壊されており、
ナポレオンは浅瀬を見つけ、仮設橋を架ける作戦に出た。
11月25日から26日にかけて、工兵400名が仮設橋の架橋にかかる。
材料は近所の農家の木組みを分解した木材、
道具は工具や釘を収めた箱6箱分、ふいご2台、
石炭が馬車2台分、と、お粗末なものではあったが、
26日午後3時、歩兵用の第1架橋が完成、兵9300名と砲2門が渡河。
続いて車両用の第2架橋が午後4時半に完成。
高いところでも水面上60センチしかない粗末な橋の架橋作業を、
ロシア軍は渡河地点をごまかすための陽動作戦と思い込み、
その気になれば橋を吹き飛ばすことなど容易な砲兵隊を付近から引き揚げており、
ひとまず、橋は架かったのである。 だが、落伍兵4万人は、明日になれば近衛軍が渡る、ロシア軍も迫っている、
早く渡れ、という伝令に耳を貸そうとしなかった。
予備軍との合流で久しぶりの食料にありつき、農家を壊しての焚火にあたり、
その腰はあまりにも重く、
26日夜間から27日早朝にかけては、20名ほどが橋を渡っただけだった。
27日朝、近衛軍が渡りにかかると、落伍兵は大挙して橋に殺到する。
女子供を突き飛ばし、歩みの遅い者は零下20度の川に突き落とされ、
大混乱の中でも近衛軍はナポレオンの馬車を守り、ナポレオンを渡すことに成功した。
27日夜間から28日朝にかけては、また、橋を誰も渡ろうとしなかったが、
28日朝から、ロシア軍の追撃が始まる。
午前10時、第2架橋が砲車の重みで潰れ、橋の上にいた者がほとんど落水、死を迎えると、
こちら岸にいた者は第1架橋に殺到、
午後4時、野砲の射程距離内に第1架橋を収めたロシア軍は砲撃を開始。
砲撃に倒れるか、落水して流されるか、岸に泳ぎついても湿地に足を取られて凍死するか、
くずれ落ちかけた橋の、工兵による決死の修復作業も空しく、
橋の上にもベレジナ川にも、死屍累々となった29日午前7時、
ナポレオンは橋の焼却を命令。
命令を受けたエブレ将軍は、まだ橋を渡っていなかった1万5千人の落伍兵のため、
独断で午前9時まで命令の実行を伸ばすが、
それでも橋に火が放たれたとき、8千人の落伍兵が橋を渡っておらず、
落伍兵を守る兵力など一兵たりとも残置されていないところに、
コサック兵が襲いかかっていった、
落伍兵には川に飛び込むか、燃え盛る橋の中に突っ込むか、
雪の上に座ってコサック兵を待つか、いずれにせよ死に方の選択しか残されていなかった・・・。
進軍ならともかく撤退でさぼっちゃだめだろ人として…
戦列歩兵って、究極の根性論と将校の鬼悪魔ぶりで統率するから、支配する者が欠けたら大衆化してしまうんだろ。
つか、ロシア侵攻の頃のナポレオン軍は、被占領地の住民や、無理矢理同盟軍に参加させられた国の軍人が多数混じっていて、
フランス出身者も、長年の戦役で厭戦思想の持ち主が増えていて、士気の低下が酷かったらしいぞ
ロシア領内に入る以前に、万単位の脱走兵が出ていたとか
>>49
加えて、入営以前、徴兵逃れの逃亡、脱走もひどかった。
戦役が続き、取り締まりに当たる憲兵の数が減少し、逃げやすくなったことがそれに拍車をかけ、
集団で徴兵官に反抗し山に隠れ、住民がかくまった例もあれば、
入営直前、兵営の門前から公然と逃亡する者さえ、召集者の1割にも達していた。
244名の召集に対して25名しか出頭しなかった記録もあり、
応召者と竜騎兵が衝突、死者20名、負傷者50名を出す騒ぎもあれば、
憲兵3名が召集兵に殺害される事件まであり、
1813年には徴兵忌避者が16万人を数えるほどになっていた。
それでも入隊する者はよほど運がなかったか、入隊しか生きるすべがなかった貧しい者で、
人目もはばからず泣きながら兵営に入った新兵を待っていたものは、
牢獄のような生活、古参兵のいじめだった・・・。 終戦直後の食糧難の時代にはあまり犬食の習慣の無かった地域でも、貴重な蛋白源として
多くの犬が捕食されましたが、その中にはかの有名な忠犬ハチ公の子孫もいたりした。
薩摩って、犬食文化が有ったらしいが、西郷さんの連れてる犬って、もしかして食用?
>>52
一応、猟犬。
メスの秋田犬で”ツン”というなまえだったか、とどこかで聞いた。