「巨大な風船をつくり、火薬を入れた袋をぶら下げて飛ばす」。
高崎市にあった東京第二陸軍造兵廠(しょう)岩鼻製造所。
県立高崎高等女学校(高崎高女、現高崎女子高)の当時三年生だった川野堂子さん(87)
=東京都江東区=は将校からこんな説明を受けた。
「成功すればすごい兵器なんだよ」。そんなつぶやきも耳にした。
川野さんが上級生と四、五人で、学校工場で風船爆弾を作るために講習を受けに行った時のことだ。
学校で、風船爆弾を作る作業が始まった。重ね合わせた和紙を型紙に合わせて裁断し、
気球の下三分の一を仕上げた。川野さんは講堂で球にまとめる天頂の
部分をこんにゃく糊(のり)で貼り合わせた。
「もっとしっかりやらないと球にならない。裂けないようにしっかりやれ」。
そう叱られた記憶もある。講堂の隅に仕上げたものを置いておくと、
翌朝にはなかった。「岩鼻製造所に運ばれたのだろうか」と思っていた。
火薬を詰めたり、羽二重でドーナツ形をした袋の縫い目にシンナー系の接着剤を塗ったりもした。
詰めたものは黒い粒子状で、なめたら甘かったという。
風船爆弾の研究主任だった草場季喜陸軍少将は、自身の論文「風船爆弾による米本土攻撃」で
「火薬、火具類は東二造(東京第二陸軍造兵廠)で製造された」と証言。
一九四五年ごろの岩鼻製造所について、ハルビン師範大専任講師の菊池実さん(62)は
「火薬原料の調達は非常に困難になっており、本土決戦の方針で完全防空工場への
地下移設が進み、本来の火薬生産は大幅に減っていた。
こうした状況下で、学徒の手を借りて風船爆弾の製造にかかわるようになったのでは」と推測する。
(略)
<風船爆弾の記憶>(2)黒い火薬 「なめたら甘かった」
2017年10月26日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/gunma/list/201710/CK2017102602000167.html