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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://2chb.net/r/history/1566053951/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2~8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
(本項 続く)
◆3ー2
(承前)
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期~中期・弥生終末~古墳前期・古墳後期~奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
◆6-1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
(承前)
◆6-2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
◆7-1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
(本項 続く)
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期~2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0~3)
2世紀第3四半期中頃~3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0~1)
3世紀中頃~4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2~3中・新段階)
4世紀第2四半期前半~4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232~TK216)
4世紀第4四半期~5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0~1 ー 河内庄内I~II
IB期ー 大和庄内2~3 ー 河内庄内II ~III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相~布留1古 ー河内庄内IV~V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相~布留1新 ー河内庄内IV~布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末~第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
◆FAQ 3-1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
(承前)
◆FAQ3-2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方~現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内~布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半~中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179~122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山~豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50~150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、郡県内では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245~620年である。
もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23-1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代)
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1~4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
(承前)
◆FAQ 23-2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛
・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総
・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵
・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬
・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆
・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨~摂津~河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
◆FAQ 36
Q:弥生中~後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百~千人日×十~五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2~3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II~III(久住IB~ IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII~IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII-1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。
(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300~2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562~864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300~2,000里を日程合計60日で除すると約22~33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭~精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
◆FAQ 65-1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国~王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初~魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝~隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦~両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
(承前)
◆FAQ 65-2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230~250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期~終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末~南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀)
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6-1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。 ◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生~古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝で各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末~孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。 ◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215~282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰) ◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2~3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】 なし
495
>>830 >いや、狗邪韓国以後すでに30°~40°くらいおかしくて、
奴国までずっとぞの傾向続いてるから。<
いや、「おかしく」なっていない。
東西南北方向記載は、ほぼ合っている。
「おかしくて」というこの大和説男の方が、
倭人伝の読み方もおかしいし、
おそらく、「大和説という結論先にありき」の読み方で、脳がおかしくなった・・・・。
>>71 >いや、「おかしく」なっていない。
理由も言わずに言い張ってもダメだろう
495
>>832 >畿内は日本海ルートだろ?裴せいせいのときも難波に御苑拵える位なんだから、津に忌部に造らしてるよ。また、会稽東治東は確かその道理がついてたから長い年月を経てここにだよ。<
南≠東だから×だし、
隋書の俀國は、倭奴國や卑弥呼や倭の五王らの歴史を書いているから、
九州倭国の事であり、
だから、難波論も×。
ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「倭国(女王之所都)=計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。
1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる!
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳朱崖に似ている。
そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪韓国(伽耶)の南から儋耳朱崖(南越の北)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む「南北に」長大な2つの列島であるように思わせるテクニック。
まず、正解の【奴国①】と、「當在会稽【東冶】之東」となる【奴国②(幻)】を設定。
「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国①】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」←2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を南に引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行(徒歩)一月」を転用して幻の【奴国②】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。
前スレ>991
>船行一年とかの時点でもうそんな概念基に作ってないよな?
又有「裸國」、「黒齒國」復在其東南、船行一年可至
これ、倭国とはまったく関係ない淮南子からの引用だぞw
淮南子:墬形訓
自西南至東南方,結胸民、羽民、歡頭國民、「裸國民」、三苗民、交股民、不死民、穿胸民、反舌民、豕喙民、鑿齒民、三頭民、修臂民;
自東南至東北方,有大人國、君子國、「黒齒民」、玄股民、毛民、勞民;
実際には誰も行った人のいない想像上の伝説の国だ
この部分はまさに淮南子の世界観が下敷きにあることの証拠なんだよ
これがなければ、萬二千里だけで淮南子の「東方之極・萬二千里」の引用だなんて言わないさ
魏志倭人伝の流し読みと邪馬台国の会のウェブとか九州説の内輪の人が
書いた二次資料しか読んでないから、>991はもの知らずでトンチンカンなんだよw
495
>>834 >>当時すでに正弦関数はあったから。<
>理論があっても、測定ができなければ無意味
その当時、50キロ程度の緯度差を太陽の位置で測れる精度の分度器はない<
一寸千里で、ほぼ計測出来る。
その事を伏せて隠して、国民を騙そうとしているこの大和説男も、・・・・詐欺師。
畿内説石野船長「南→東と読み替えて、不弥国から東に進み投馬国(出雲)を目指そう!次は女王卑弥呼の纏向だw全速前進!」
畿内説寺澤機関長「順風満帆!やはりこちらが正しかったですねw天も我々を祝福しているかのようですw九州説の警告なんて無視して良かったw」
畿内説橋本航海士「我々の進行方向&左右両舷をすっぽり取り囲むような三日月形の巨大な氷山脈発見!!!→)」
畿内説石野船長「エンジン逆回転!!!全速後退!!!←)」
畿内説寺澤機関長「なんで方角を読み替えたんだよ!!!船長のくせに!!!このハゲェ~ッ!!!(豊田真由子元衆院議員)」
畿内説橋本航海士「フル回転中の逆回転でギア全損!!!エンジン大爆発!!!間に合いません!!!!!」
(フルスピード→ノーブレーキで氷山に正面衝突して、乗り上げ、反対側で再び着水する畿内説タイタニック号)ガツン!ドカン!ザブン!
(船側&船底外板を船首から船尾まで横一直線に切り裂く音)ギギギギギギギ!!!
ザァアアアアアアア!!!(全隔壁に一気に浸水、瞬時に沈む畿内説タイタニック号)
畿内説石野・寺澤・橋本「ぎゃあああああああああああああああ!!」(ごく僅かな庄内式土器と大量の布留式土器と三角縁神獣「銅鏡五百枚」と共に海底に引き摺りこまれ、海の藻屑と化す畿内説タイタニック号)
ダウンロード&関連動画>> 一方、九州説オリンピック号でゎ…
九州説A「畿内説タイタニック号から遭難信号SOS傍受!!」
九州説B「あれほど警告したのに、なんで東(大物主→饒速日の纏向宮殿→神武東征→倭迹迹日百襲姫の祭殿)に向かったんだろう?直ちに救助に向かおう!」
九州説C「纏向の大型建物ABCDは2世紀末には遡れないのに!!!」
不弥国の東の海上に到着した九州説オリンピック号が見た光景は…
因幡の白兎同様、サメの餌食となった畿内説タイタニック号の乗客乗員の遺体の一部と思しき夥しい肉片&骨片が散乱…血で真っ赤に染まった波間に石野船長と寺澤機関長のものと思しきメッキ縁眼鏡がキラキラ&プカプカ浮かんでいる…
茫然自失の九州説ABC「だから船乗りの方角間違え(南→東)は漂流しちゃうからあり得ない、纏向は「本州」島の毛人王権ってあれほど言ったのに...orz」
こんな荒らしして
「九州説は邪馬台国論争に負けたんです」
と宣伝してるのと同じだろ
なにを考えてんだ九州
495
>>836 なに?、「南→東」などの嘘付き騙しの大和説の夢みてんの?
7万戸、5万戸、2万戸の国を含む連合なら、
それ、九州付近で十分だよ。
脳死んだ?
>>74の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
┏━━┓帯方郡 ┏┛~~~日本海~~~~
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)~~東→✖畿内説沈没地点(†乗客乗員>>77)
洛陽┃~~~↓↓~~~~~~~↗~~┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃~対馬▲↓南「水行十日」↗~~~┃「女王国東渡海千余里 複有国 皆倭種」
↓ ┃「瀚海」↓↓~玄界灘~↗_~~~~┗━━━━━━━━━━━┓
┃~壱岐▲↓~~~~┌南「水行十日」┐関門海峡~瀬戸内海▲┃
v✖s┃~~┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓~~~~┏━━━┓~┃
┃~~┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓~~~~┃侏儒国┃~┗━━━┛
↑ ┃~~┃▲↘_陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長三四尺(少彦名)
【呉】┃~~┃★奴国①【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道~~~~~去女王四千余里」@阿波
建業┃~~┃狗奴国▲▲▲▲▲▲投馬国←┘宮崎平野=南「水行二十日」
会稽┃~~┗━━女王国島━━┛↙~~~~~~~~
東治┃~東シナ海~┌南「水行十日」~~~~~~
┃~~┌┌←←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド)↓
↓ ┃~~│↓「陸行一月」(幻)│←「自女王國以北其戸数道里可得略載※」(北部九州30カ国)
┃~~│↓~▲~~~~~│亶州(沖縄)~↓「自郡至女王国 万二千余里」
東冶┃~~│☆奴国②(幻)~~│←『【女王之所都】計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃~~│▲狗奴国(幻)~~│夷州(台湾)~↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃~~└┐~~~~~~~│←「※其余旁国(幻)遠絶 不可得詳」
┏▲海南島~└邪馬台国島(幻)┘~~~~~~~~~~~~~~
┃↖儋耳朱崖~南シナ海~~~「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)~~~~~↘▲裸国フィリピン~~~~~~~~~~
~~~~~~~↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(☆奴国②)東南 船行一年」 495
>>839 >つまり女王國は、投馬国と邪馬台国しかないんだな?
斬新だねww <
いや、お前も・・・・アホ詐欺師かね?。
女王國の全域なら、共立29国全体だ。
>結局、投馬国は邪馬台国以北の国にしかならないんじゃないのか?ww<
邪馬壹國女王之所都付近から南へ水行二十日の位置にあるから、
「自女王國以南」にしかならんよ。
>>74 >>81 卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、蜀への牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様、呉への牽制として東の「親魏倭王」号を取得し、帯方郡が管轄する「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権を確保すること(郡宛ての書簡封泥用の金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援(後に援軍)要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置であることに留意されたい。
そこで主要3説(九州説・四国説・畿内説)における狗奴国を検討すると、以下のようになる。
-女王国「A東渡海」千里「複有国B」皆倭種(〇九州説…A関門海峡B本州、〇四国説…A紀伊水道B本州、✖畿内説…A鈴鹿山脈B北海道)
-其南有狗奴國 不属女王(〇九州説…熊本もしくは薩摩、△四国説…南阿波、✖畿内説…仲良し東海)
畿内説はいずれも当てはまらない上「複有国(東)」と「狗奴国(南⤴東)」が重複し混乱が生じる。鉄製武器も文字も駅伝制(早馬)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を支配下に置くのは物理的に不可能。
また3世紀の四国に十四万戸(邪馬台国+狗奴国)比定は無理がある(後述)。消去法によって、九州説が正しい。
次に、狗奴国が熊本平野か鹿児島川内(せんだい)平野かだが、邪馬台国七万戸を統治している女王卑弥呼をして、魏の明帝曹叡に援軍要請させるほど窮地に陥れる(狗奴)国の国力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)と想定。
面積から見て、狗奴国が川内(せんだい)平野でゎ3世紀の開墾能力では限界があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智比狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、吉野ヶ里遺跡を始め弥生拠点集落の宝庫「筑後川の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮は扇状地の最高所・甘木朝倉と確定。
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳(リンク参照)を比定。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3 >>82 >邪馬壹國女王之所都付近から南へ水行二十日の位置にあるから、
そんなこと
倭人伝のどこにも
書いてないだろ
捏造はダメだ
495
>>841 >で? 1里が何メートルでどう回る気? <
狗邪韓国から、侏儒國付近まで、参問した。
>壱岐対馬はなぜ除外?<
除外しない。
「南→東」などの嘘付き騙しの・・・・アホの大和説がまた破綻したよ
前スレ>991
>最後の陸行だけ書くのも無意味だろ?
あれ?九州説では最初だけ書くのが大事で最後を書くのは大事じゃないって言うんだww
本当にこの人は面白いなww
前スレ>949「まず水行始める時点での方角ぐらいは書くだろう一番大事だろ 」
http://2chb.net/r/history/1566053951/949 マジでザラゴキの同類
http://2chb.net/r/history/1566053951/979 「「東南」は、出発時点での出発方向であり、
それ以外も、方向を間違える筈もなく、 」
>しかも陸行もくるくる回るだろ
>整備された道路のうえを行ってるんではない
陸行は足の下に地面があるし、見通しのきくところで進行方向の見当が付けられる
陸行では方向転換は自分の意思で自分の足で行うが、船は勝手に回るからね
それに魏使が大陸人で水上移動の経験がほぼないことも>991は無視している
>木簡も上に数字1つふればいいだけ
数字じゃなくて文字だろ?ってのは置いておいて、方角の文字一つで済むと思ってるのか?
一日に木簡何本書く気だ?
船の上で方向転換するたびに木簡に東、南、東南東って書くのか?
船の上で墨を摺って?ww
一日の終わりに陸に上がってから「何月何日水行海岸沿いに進んだ」って書くのがせいぜいだよ
そして、行きには銅鏡100枚その他も運んでいる
ドンドン記録の木簡が増えていったら収拾つかないぞww
具体論の考えられない人はどこまでもトンチンカンだw
>>84の続き
すると、欽明(現・皇室の開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家=狗奴国・卑弥弓呼の子孫/八代淡海→「近江」)も判明!!!
古代史は以下のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を派遣し、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向を征服させ、奥津城(王家の谷)として隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋>【宋>斉>梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」に任官(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交=日出処「天子」607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教伝来による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&厩戸…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、大和へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝~応神朝~継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名を移植。朝倉&阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京)
>>88の続き
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神朝「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が邪馬台国女王「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。
ここに武内宿彌の正体も明らかになるのである!
崇神朝(伊都国系)の①景行②成務③仲哀、続く④応神(息子)⑤仁徳(孫)の5人の大王に仕えた彼は、筑紫邪馬台国女王・卑弥呼の男弟の末裔なのである!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0 その応神朝@筑紫(邪馬台国系の♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。
この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。その妹推古が仏教の国教化に成功。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での惨敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、〔倭国独自(九州)元号を創設した継体朝の、「天子」を名乗ってしまったため、記紀に消された〕多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津京に東遷。
ここに倭王権は史上初めて九州島を出て、近江大津京→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の古墳時代の畿内には、記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治以降設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。
495
>>843 >前方後円墳が卑弥呼と同時代に広範囲で一斉に作られ始めている<
「卑弥呼と同時代」ではない。
卑弥呼は3世紀前半末。
筑紫の前方後円墳は、那珂八幡などの3世紀後半半ば過ぎは最も古い。
大和の前方後円墳は、石塚などの3世紀末以後。
>この考古学的状況を、玄界灘沿岸だけの倭国ではまったく説明不能になるから<
倭国の主要部は、ほぼ九州島付近だから、「まったく説明不能」にならない。
この大和説男も、いずれ絶望して、京都アニメ何人のような殺人をする男。
>>77 名前:日本@名無史さん 2019/08/20(火) 08:09:15
畿内説石野船長「南→東と読み替えて、不弥国から東に進み投馬国(出雲)を目指そう!次は女王卑弥呼の纏向だw全速前進!」
畿内説寺澤機関長「順風満帆!やはりこちらが正しかったですねw天も我々を祝福しているかのようですw九州説の警告なんて無視して良かったw」
畿内説橋本航海士「我々の進行方向&左右両舷をすっぽり取り囲むような三日月形の巨大な氷山脈発見!!!→)」
畿内砦のSANAKUNIN、、、
かわゆいモモソちゃんを、糸島中学代用教員如きの原田大六に取られてなるものか、
と喘息前進した結果がこの始末。
今「畿内の考古学者だけに通用する」から畿内説という・・・。
>>89の続き
ダイワとしか読めない大倭(後漢書東夷伝からの借用)を「ヤマト」と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、唐帝国に対し、新益藤原京を新設した畿内に筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆があったと思わせたかったからなのである!
白村江海戦惨敗で九州本家の天智が東遷した後、大和分家の天武が(確実に唐を刺激する、継体創設の倭国独自年号&「天子」多利思比孤を抹消するための)歴史改ざん書である記紀を書かせ、
九州の地名をそっくり移植し、畿内を記紀の歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!
漢~魏晋南北朝~隋唐まで、倭国は九州島のみと認識されていた。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だった(九州から見て日が昇る)日辺にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭と言う名前が優雅でないから日本と改名した」と言い、また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭国の地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。
事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が大和分家(近江大津京)に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた記紀の歴史テーマパークにするため大倭(後に大和)と書かせ、
発音だけ九州時代の都であった筑紫邪馬台~阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を繰り下げて生まれた畿内説(他人の褌)、ならびに教科書に載っている古墳時代にあったとされるヤマト王権(定説)は、
超大国・唐(アメリカ・トランプ大統領)との連携外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として実行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた電波(幻想)で、
特に前者は、記紀(定説・ヤマト王権)というゴール地点から、考古学と魏志倭人伝という他人の褌で、どこまで史実(スタート地点)歪曲を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである!
なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか?
近年になるまで、九州には温泉が無かったのだろうか?
なんで九州の風土記に天皇の行幸記事がないのだろうか?
九州各国の風土記編纂時に、九州には温泉が無かったのだろうか?
あとは、推して知るべし。 @阿波
495
>>845 >投馬国、長い長い海岸を経た後の海沿い、大人口
邪馬台国、長い海岸を経た後の、内陸部、大人口
ここだけ里数が書かれていないのはおかしいよね<
おかしくない。おかしいのはこの男の脳。
投馬國は側副傍線国であり、魏使らは行っておらず、
倭人からの伝聞情報だから、里数が書かれていない。
また邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
邪馬壹國女王之所都の里数は、
「不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている」記載に書かれ終わっている。
>>91の続き
まとめると、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し(動画リンク参照)、
ダウンロード&関連動画>> その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国沿岸に来襲し、天智の首都太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、
A.史上初めて九州島を脱出し、近江大津京に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝~応神朝~継体朝)が北部九州(筑紫邪馬台~阿蘇邪靡堆~天智の都・太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの畿内にあったことにした(歴史テーマパーク「大倭」→「大和」>聖徳太子「以和為貴」より)。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!
①(武寧王の百済を完全属国化した)継体@阿蘇邪靡堆が創設した(世界の支配者=中国皇帝からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号の創設
→天智以降の倭京(太宰府)・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長以前は全て抹消!
②新羅からの朝貢で調子に乗って、世界の支配者「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条(以和為貴)「聖徳太子」を捏造&抹消!
③白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に恐れ慄いた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草w)
→舒明♂皇極♀の長男&斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極斉明重祚・天智天武兄弟の秘密)
-継体朝による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・倭京・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html -熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho122/kai12204.html なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか?
近年になるまで、九州には温泉が無かったのだろうか?
なんで九州の風土記に天皇の行幸記事がないのだろうか?
九州各国の風土記編纂時に、九州には温泉が無かったのだろうか?
あとは、推して知るべし。 @阿波
今城塚古墳に眠る大王の、ピンクの石は、なぜ遠路遥々運ばれてきたのだろう。。。
495
>>847 >ひとの話まったく聞かない思い込みの人かw
博多から千四百里あれば畿内に着くぞ<
帯方郡から九州までの「記載里」の距離では、「千四百里」では大和に着かない。
勿論、博多では「萬二千里」がほぼ終わっているから「千四百里」そのものが存在しないし、
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
この大和説男も、いずれは絶望して、
京都アニメ犯人や、朝日記者銃殺テロ犯人のように、
殺人鬼になる男。
(転載書き直し)
畿内厨によれば、「 (偽りの)陳寿の行程記事の通りに進めば、東南陸行500里にあった伊都国は、
(今は何もない)佐賀川上だった」という。 ・・・そう、たとえ偽りであってもそれでいいんだよ。。。
>>852 この大和説男も、知能、ひくい<・・・人間?
>実際に倭人伝記載の方位は間違っていた 実際に距離もおかしかった
だから、そう主張してきた畿内説だけが生存する とうぜんだろ? <
普通の正常な成人人類は、実際に、
東西南北位の方位は間違えないし、
距離も、一寸千里や簡易三角測量や記里車や歩測や目測や日数測も出来るから、
おかしくなかった。
勿論畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であった。
だから、そんな嘘つき騙しばかり主張してきた大和説だけが絶滅する
とうぜんだろ?
>>84 金印が卑弥呼→帯方郡への書簡封泥用なら、鉄と書簡の硯や案・削刀が多く出土するところに卑弥呼がいたということだね!
3世紀の倭国なら、どこなんだろう?www
>>102 桃の種とカエルの骨、農耕用の鍬を再利用した木製仮面じゃダメなんですか!?(レンポー議員)
変な時間にスレ立てするから、テンプレ邪魔できなかった…
>>1 03:18:15.91
>>70 04:10:31.66
米青 ネ申 禾斗 ιこ 彳テ ιナ !!
495
>>868 >>都合のいいときだけ縮尺を急に変えるいつもの畿内説<
>そのような事実はないな 縮尺は用いない
魏の正しい里がを用いるだけだ<
ダメだ。
魏や郡の役人たちが使った「里」記載が、魏朝の「正しい里」だ。
そして、陳寿の魏志も、原則として魏朝の「正しい里」を使って書かれた。
真夜中にスレ立てしたりして昼夜逆転してんのかw
やっぱりアルバイトなんだろうな
スレ立てでいくら金もらえるのか知らんけど
畿内説はようわからん
行程は無視といいながら
水行とか陸業は採用する
方位や里数もすべて否定してるわけではないし
キナイコシは木簡や金印の使い方を知らないらしい。
前スレで、木簡は順番が狂うから銅鏡より運びにくいと言い出した。
卑弥呼が初めて魏に国書を送るとき、それが倭王からの国書であることを証明するのは後漢の発行した印による封泥となる。
魏は後漢の禅譲を受けて外交プロトコルを継承しているから、魏に対しても後漢の金印は国璽として通用する。
文書は官僚による代筆でもいいが、印をするのは王の仕事だ。
そしてその印は福岡県にあった。
漢委奴国王印を最後に使ったのは卑弥呼であるはずだ。
その返信とともに卑弥呼は新しい金印を受け取っていて、それを携えた使いは福岡県までやってきた。
495
>>884 >>対馬海峡の半分もない。<
>そんな魏の里はない <
魏や郡の役人らが記録した「里」が、魏朝の里。
495
>>886 >>魏の正しい里がを用いるだけだ<
>対馬海峡が明らかにそれでは事実と合わない。<
魏や郡の役人たちが記録に残した「里」数記載が、「正しい里」であり、
事実とほぼ合う里数記載。
495
>>887 >>じゃあ女王国は伊都国の南ってことやね?<
>陳寿の得た間違った情報では、ね <
陳寿の得た情報は、魏や郡の役人らの記録であるから、ほぼ間違っていない。
>間違った情報だったから陳寿は日本列島上にある邪馬台国を
実際より遥かに南と誤解したわけだ <
間違った情報ではなかったから、陳寿は、
九州島上にある女王國を、
実際に「会稽東治之東」だと、正解を言い当てたわけだ
なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか?
近年になるまで、九州には温泉が無かったのだろうか?
なんで九州の風土記に天皇の行幸記事がないのだろうか?
九州各国の風土記編纂時に、九州には温泉が無かったのだろうか?
あとは、推して知るべし。 @阿波
なんで四国の道後温泉へ一番最初に景行天皇(12代)が行幸したのだろうか?
なんで近場の畿内に在る有馬温泉や白浜温泉への天皇行幸が、遠くて危険な渡海を要する四国の道後温泉より、ずっと遅れたのだろうか?
近場で安全な畿内に温泉が無かったのだろうか?
あとは、推して知るべし。 @阿波
495
>>888 >何度もいっているけれど、萬二千里は淮南子にも見られる中華での
世界観の世界の果てを示す観念的な数字
それが現実の地理とは無関係に採用されて設定値として置かれているだけの数字<
何度も言っているけれど、
魏志には「余」が付いているから、「実地に計測した数値の近似」であり、
観念的に設定された数字ではない。
>短里なんてないんだから、千四百里で十分畿内まで届くよ<
魏や郡役人たちが使って来た里距離では、千四百里でも大和には全く着かないし、
そもそも千四百里も畿内も存在もしていなかった嘘つき騙し文言であるし、
「魏や郡役人たちが使って来た里距離」は、1里≒434mの長里では全く合わない。
「南→東」などの嘘付き騙しだけでなく、
長里を前提にしているから大和説はボロボロなんだよ
495
>>889 >末盧国の東南に伊都国があるはずだが 実際はほくとうにあ?<
「東南陸行五百里到伊都国」の「東南」は、
末盧國からの出発時点での出発方向記載であるし、
末盧國からの出発時点でも途中でも、伊都國は全く見えないから、
「方向」記録そのものが出来ない。
なんで四国の道後温泉へ一番最初に景行天皇(12代)が行幸したのだろうか?
なんで近場の畿内に在る有馬温泉や白浜温泉への天皇行幸が、遠くて危険な渡海を要する四国の道後温泉より、ずっと遅れたのだろうか?
近場で安全な畿内に温泉が無かったのだろうか?
あとは、推して知るべし。 @阿波
>>102 >案・削刀が多く出土するところ
削り刀と文机が九州で出土したと言うなら、
具体的に「どこで出た」「どれなのか」教えてくれ
495
>>891 >>投馬国は肝心の里数がない。<
>まさにFAQ78だわww キウスさんや、こういう御仁が存在するからFAQ78は必要なんだよww
分かったかな そして、道里は日数で示せる<
ダメだ。
九章算術は、道里記載と日数記載を混乱した「言葉の書き分けが判らないアホ」。
陳寿は、道里と日数とをはっきり書き分けている賢い人。
>投馬国は女王國より以北の国、で
>>838式の九州説は確実に死亡ww<
陳寿の記載では、投馬國は、(魏役人らの里数記載ではなく)、
倭人からの伝聞の日数記載にして、両者を区別している。
いずれにしても、「自女王國以北」は×であって「自女王國以南」であり、
類スレ主らの大和説は、死亡。
>>109
>言い訳じみてて、惨め
「具体的な反論一つできなくて」惨めだな
↑
具体的な根拠ww >>102 >硯や案・削刀が多く出土するところ
奈良藤原京より先の時代、7世紀中頃の阿波の役人は木簡に習字をしていた。
阿波国国府町の観音寺・敷地遺跡から出土した7世紀中頃の論語木簡は、日本で一番古い出土木簡である。
ちなみに、同遺跡から円面硯・風字硯・須恵器蓋転用硯、上級貴族が使用する油杯(燈明)など官衙有数の資料が重要文化財に指定されている。
ではなぜ、奈良藤原京より先の時代に、阿波の地にそれらが存在したのか。
それは、7世紀終末頃に阿波から奈良へ遷都(藤原京)する直前まで、阿波に倭の王権・王都があった証である。
阿波国府推定地に隣接する観音寺・敷地遺跡出土品(重要文化財指定)
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/213354 >>110 >前スレで、木簡は順番が狂うから銅鏡より運びにくいと言い出した。
魏使さんは、倭国にどれくらいの期間滞在して、何本くらい木簡も持って帰ったと思う?
具体的に考えてみてごらんww
>>110の人が「邪馬台国の会の中の人」と呼ばれている人だと思うけれど、
この人は具体的なことを一切言えない人ww
>>124
無理無理。 具体的な事が言えるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 495
>>895 >でも、その縮尺が定義できず、区間によって4倍も伸び縮みする <
魏の役人らの実地の計測の単位長さが4倍も違う事など、起こり得る筈がない。
つまり、これも類スレ主らの「計測起点や終点」の決め方の間違いや詐術があったため。
>つまり、測定値ではありえないし、測定していない数値をもとに
比定地を求めようとするのはただの無謀であり無望ww<
つまり、大和説者という人種は、「南→東」などの嘘付き騙しと同じように、
距離記載の計測地点の解釈においてでも、インチキ騙しをする、という、
無謀であり無望であり、・・・・詐欺師である、
という事の証拠。
485
>>899 >>(投馬國への水行二十日)ここだけ里数が書かれていないのはおかしい<
>でも道里は略載されてるよw <
日数は道里ではない。
>北部九州までは漢委奴國王や、倭面土國王帥升等の交流のときの情報が不正確ながら里で
書かれていて、卑弥呼の遣使のときの記録が水行が多かったこともあって日数表記になっていた
それだけのことだ <
漢委奴國王や帥升等の時に、「漢の使節がやって来た」という記録はないし、
夷人は里を知らないのだから、倭人が「里」計測が出来た筈もなく、
だから、漢委奴國王や帥升等の時の計測があったとしても、
倭人の「日数」報告位だ。
>>127 >間違いを認めろよ。
どこが間違いなのか「具体的に」「間違いだと判断するに足る根拠」をつけて指摘してよ
そうしたら、答えられると思うよw
>>87 木簡がバラバラになるのは通し番号振れば防げるのはわかった?
一々方向転換の度に方角記せなんて誰も言ってないよ?
妄想で人の意見を決めつけるのはやめよう
出発時にどこの方角に進むかぐらいわかるでしょ?船頭に聞くこともできる
それをせずに陸行だけ書くなんてアホの考え
本当にかさばるなら露布のように布に書いてもいいかもね
というかさっさと邪馬台国=奈良とした論文見せてくれよ
論文書いた学者の多数決できめるんだろ?
なら邪馬台国=奈良とした論文出してる学者の数も教えてくれよ
畿内厨によれば、
「 (偽りの)陳寿の行程記事の通りに進めば、東南陸行500里にあった伊都国は、(今は何もない)佐賀川上だった」、という。
・・そう、たとえ偽りであっても それはそれでいいんだよ。。。
>>127 反論できなくなると、一言コメントに逃げるんだよな
そして、間違いを認めずに消えるww
>>131 >木簡がバラバラになるのは通し番号振れば防げるのはわかった?
これまでに通し番号をつけた木簡が一つでも見つかっているなら教えてくれ
冊という字が何の象形だか理解してないだろ
>一々方向転換の度に方角記せなんて誰も言ってないよ?
方向転換の方角が記してなかったら、起点と終点の位置関係は分からなくなるよね?
ザラゴキがいつも言っている「出発方向が東南だから方角は間違っていない」という詭弁以下が
正しいという判断なのかな?
末盧国から伊都国は北東方向なんだが?ww
>出発時にどこの方角に進むかぐらいわかるでしょ?船頭に聞くこともできる
船頭さんの言われるままに方角を書いたというなら、その場にいた魏使が方角を
間違うはずがないという九州説のお気に入りのフレーズも完全に無効だ
倭人に正しい方角を聞いたというなら、末盧国から伊都国も、伊都国から奴国も
方角は間違えないはずだよなw
でも実際に現実の地理とは合わない
合わないという事実を前提に考えなきゃいけないのに「こうすれば合っているはず」を
「根拠はぼくがそう考えたから」でいくら言い募っても無意味
繰り返すが、出発方向だけ書いてあっても無駄
北部九州から出発して、そのときに東の国へ行くと言われて関門海峡沖合いを
進んでからしばらくはほぼ北向きになる
そのときに、東へ行くと言われたのをそのまま書くか、海岸沿いに進んだと書くかww
いつ覗いても、邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人が、論破されているね。。。
頭の悪い者が、頭の悪い者が考え付く意見を、発表しているのではないのかな。。。
134日本@名無史さん2019/08/20(火) 12:38:07.79
>>131 >木簡がバラバラになるのは通し番号振れば防げるのはわかった?
これまでに通し番号をつけた木簡が一つでも見つかっているなら教えてくれ
冊という字が何の象形だか理解してないだろ
>一々方向転換の度に方角記せなんて誰も言ってないよ?
方向転換の方角が記してなかったら、起点と終点の位置関係は分からなくなるよね?
ザラゴキがいつも言っている「出発方向が東南だから方角は間違っていない」という詭弁以下が
正しいという判断なのかな?
末盧国から伊都国は北東方向なんだが?ww
>出発時にどこの方角に進むかぐらいわかるでしょ?船頭に聞くこともできる
船頭さんの言われるままに方角を書いたというなら、その場にいた魏使が方角を
間違うはずがないという九州説のお気に入りのフレーズも完全に無効だ
倭人に正しい方角を聞いたというなら、末盧国から伊都国も、伊都国から奴国も
方角は間違えないはずだよなw
でも実際に現実の地理とは合わない
合わないという事実を前提に考えなきゃいけないのに「こうすれば合っているはず」を
「根拠はぼくがそう考えたから」でいくら言い募っても無意味
繰り返すが、出発方向だけ書いてあっても無駄
北部九州から出発して、そのときに東の国へ行くと言われて関門海峡沖合いを
進んでからしばらくはほぼ北向きになる
そのときに、東へ行くと言われたのをそのまま書くか、海岸沿いに進んだと書くかww
>>136 頭の悪い者が考え付く意見を、発表している頭の悪い者は、小学率ではないのかな。。。
>>137 魏志倭人伝は、何十人もの生口が送られた中国の首都で、書かれた可能性が高いな。。。
>>138 生口は中国の言葉を覚えたので、邪馬台国が帯方郡の南にあることを、魏志倭人伝時代の魏の都の人民に伝えたのだったな。。
3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290 解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割~8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://2chb.net/r/history/1556294803/303 邪馬台国畿内説のスレッドに、嘘だらけのテンプレートを、貼り付けている、3つの独立の根拠があれば、そこが邪馬台国だという、自称ベイジアンの発表した意見のどこがおかしいか発表します。。。
真実のロシアのルーレットの思考の実験を読めば、普通の頭の者なら、理解できます。。。
架空の世界に、12丁の、色の違う、4発発射できる、回転式の架空の拳銃を使ってルーレットをする架空の会場が、開場しました、、
赤の拳銃、緑の拳銃、青の拳銃、そして、その他の9色の拳銃が用意され、どちらが運が良いか決定しようとしている、架空の奥山氏と、架空の類奥山氏が、入場しました、、
緑と青、そして、その他の赤以外の9色の架空の拳銃の専用の弾は、的を死体にはしないで、本体と同じ色をつける、絵の具の弾です、
赤の架空の拳銃は、的を死体にする専用の弾を、発射します、、
ルールがありますが、不公平です、、
架空の奥山氏は、どの色の拳銃を使用するときにも、空にしたあと弾を3発込めて、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
架空の類奥山氏は、奥山氏の頭に色が付かなかった時は、その色の拳銃を使用するときには、弾を4発込めて、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
架空の類奥山氏は、架空の奥山氏の頭に色が付いた時は、空にしたあと、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
拳銃は、奥山氏から初めて互いに交互に、緑、青、その他の赤以外の9色、最後に赤と撃ちます。
最後に生きている方には、架空の睡眠銃で睡眠弾が発射されます。。
架空の生物にはクマモンという着ぐるみを、死体には、、巻きぴょん、、という着ぐるみを装着させます。。。
拳銃の数を知らない、奈良の小汚い自称考古学者が出現し、巻きぴょんの中身だけを調べました。。。
巻きぴょんの頭部が、緑と青と赤だけで着色されていたら、それが奥山氏の確率は、ベジタリアンとベジタリアンでは無い者では、それぞれ、どのような、計算結果になるでしょうか、、、
架空のロシアの会場の巻きぴょんの頭部が、緑と青と赤だけで着色されていることで、奥山氏かどうかを判定することは、、、
つまり、着色の可能性の全体を無視して、緑と青と赤という要素だけで、全体を予想する、、、
という、破綻した要素還元主義が前提になっているのだったな。。。
>>131 キナイコシは本当に教養がないな。
金印をどのように使ったか考えたことがあるか?
ねえねえ、なんで畿内倭国は、天皇さんに危険な渡海までさせて、四国の道後に湯治養生に行かせたの? 畿内の近場に温泉がなかったの? @阿波
>>134 今日はどっちの方角に進みましたか?と案内人に聞くだけでいいだろ?
出発点と終着点の方角聞くだけで良い
お前の言う水行なんか北東に言ってるわけだしな
目的地の奈良も九州からみた位置は東だし
そして通し番号ないなら、なくても問題なく管理できてたということ
書くべき事由を書かなかった理由にはならない
だから方角は日の出の位置かなんかできめてたんだろ?
方位磁針もない当時ならそれが正しい方角なんだよ
済州島も南西から西になってるしな
南東の対馬や壱岐も南扱い
>>144 >そして通し番号ないなら、なくても問題なく管理できてたということ
>書くべき事由を書かなかった理由にはならない
管理できていたという根拠は?
自分の思い付きが簡単に否定されて、さらにまた何一つ根拠のないことを
思いつきで言い始めるww
繰り返すが、末盧国から伊都国も、伊都国から奴国も魏志倭人伝の方角記述は
現実の方角とは異なる
合わないという事実を前提に考えなきゃいけないのに「こうすれば合っているはず」を
「根拠はぼくがそう考えたから」でいくら言い募っても無意味
まあ、九州説では畿内説に対する反論が
「南って書いてあるもん! 東じゃないもん!」しかないから、これにこだわるんだけどね
ああ、
>>144は九州説じゃないんだっけ?ww
そしてご都合主義が気に入らない人だよね?wwwwwww
ザラゴキと、自分の書き込みが一番気に入らないはずなんだけど、不思議だね!w
いつ覗いても、邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人が、論破されているね。。。
>>145 管理できてたから今に歴史書として残ってるんでしょ?
それすら否定するの?
現実の方角とは異なるということは当時こういう風に方角を計ったからこうなったということだろ?
嘘やデタラメを書いたわけでもないだろう
それを嘘だからそのままというのは方法論として間違っている
推論に推論を重ねるだけになるからだ
ところで、邪馬台国=奈良の論文は?
邪馬台国頭が悪いことがバレるだけの結果になるので、邪馬台国=奈良の論文は、発表しない方が良いのではないのかな。。。
>>148 邪馬台国頭が悪いことがバレるだけの結果になるので、邪馬台国=奈良の論文は、発表しない方が良いのではないのかな。。。
という文章は、、
頭が悪いことがバレるだけの結果になるので、邪馬台国=奈良の論文は、発表しない方が良いのではないのかな。。。
とタイピングしたかったのではないのかな。。。
間違っているからそのままというのは
結論が既にあるから途中の過程はどうでもいいと言ってるのと一緒だ
途中の過程はどう考えても畿内説に不利になる
風俗、墓制、産物、兵器すべて不利
だからどうでもいいの一言で済ますんだろう
つまり過程から結論を導くのではなく、結論から過程を決めつけるのだ
そして不利な過程は嘘だから考えないと思考を停止する
>>151 またも九州説
具体的な内容ゼロ
出所不明の不利判定
これって、いわゆる思考停止?
キナイコシが金印の使い方を知らないらしい。
木簡に通し番号?
前々から勝手論理を繰り広げているとは思っていたが、ここまで常識がないとはな。
頭の悪い奥山の、時給を0円に設定したのは、やはり正しい判断だったので、あるな。。。
495
>>903 >陳寿の認識の中の方角と現実の方角は一致しないって言ってるんだよ
大雑把には、帯方郡から離れる方向が、南として記載されてると思えばいい <
また、類スレ主は変な事を言ってるな?。
陳寿は、倭地までは来ていないんだから、「方角の認識」なんて事を持ちようが無く、
陳寿は(魏略も)、出来る事は、魏使らの役人たちの記録を見て紹介するだけであったんだよ。
>>155 だから、その紹介が間違ってるって証明したろ
「俺様の読み方が正解ダヨ
陳寿の書いたとおり進んだら邪馬台国に着いた
俺様パイオニアー」
って
そんな九州説が、全員死んだ
そういうこと
495
>>904 >>(1400里問題)対馬海峡の半分もない。そんな魏の里はない <
>魏の里ではないという証明だよw<
倭人伝の「里」記載は、魏の役人らの記録だから、「魏朝の里」だ。
495
>>905 >>対馬海峡が明らかにそれでは事実と合わない。<
>つまり対馬海峡について倭人伝に書いてある渡海千余里は事実と合わない<
倭人伝の海峡の各「千余里」も、魏の役人らの計測記録だから、事実と合わない筈がない。
東大の理系大学院の博士?を自称する類スレ主は、
どうやら。精神が異常な・・・・だな。
>>158
帯方郡(平壌)
↓【南】海岸水行7000里(500km)1里=71m
狗邪韓国(順天)
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(対馬上対馬か)
↓海渡1000里 (50キロ)(50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐郷ノ浦か)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦)
↓【東南】陸行500里 (25キロ)1里50m 福津市→八木山峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15キロ)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25キロ)1里250m
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(宿毛)
↓【南】水行10日又は陸行1月(旧土佐街道)
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)
↓【東】海渡1000里(50km)1里=50m
女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里渡海→奈良周辺)
帯方郡→女王国(阿波)万二千里(直線距離 900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。 @阿波
狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。 >>159 >倭人伝の海峡の各「千余里」も、魏の役人らの計測記録だから、事実と合わない筈がない。
魏の役人らの計測記録だって
あんたが勝手に言い張ってるだけじゃね?
なーんの理由も無しにさ
>>160 平壌から500kmで順天に着くって
無理じゃね?
いつ覗いても、邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人が、論破されているね。。。
495
>>914 >存在するのは魏晋里だけ<
倭人伝に書かれた「里」記録は、全て魏の役人たちの計測し記録したものであり、
当然魏朝が認めたもの。
邪馬台国畿内説が前提にしていた、唯物論や要素還元主義が、他の多くの分野で破綻してしまい、
魏志倭人伝時代についての討論をするまでもなく、 邪馬台国畿内説も自動的に破綻してしまったので、
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する、朝鮮人の奥山氏は、、、
邪馬台国畿内説が破綻した唯物論や破綻した要素還元主義反論を前提にしていた、、、
という真実の指摘への反論を完全に諦め、スレッドに出現しても、意味がよくわからないことや嘘しか発表しなくなったことが、
このレベルの低いスレッドの、益々の低レベル化を進行させてしまっているのではないのかな。。
>>162
もちろん、直線距離で500kmだよ。 @阿波 僕達が笑いリラックスするためにアプローチしている、このレベルの低い、5ちゃんねるのサクラのプロ固定が作製したスレッドとは全く異次元の、 たくさんの分野のレベルの高い学者達が集う、
魏志倭人伝時代の真実について、僕達か僕達の論敵のどちらの頭がカラフルになるかを賭けて、
お互いに、不敵な笑みを浮かべながら、 闘っている討論会では、
破綻した非科学的な唯物論や破綻した非科学的な要素還元主義を、お互いに掲げることなしに、正々堂々の討論を闘っているので、
魏志倭人伝に全く記録はされていない土器や時代の異なる前方後円墳ではなく、
鉄鏃や、人民の住居や、ベンガラや、空気シャワーの効果や、方角や、距離や、夏の時代の考古学的に判明している会稽の位置や、魏志倭人伝時代の倭人の太い骨や、
萬二千里の事で奥山氏も頼みにしている淮南子を規定している一寸千里の法を材料にして、討論が進行し、
卑弥呼の城が日本の何処にあったかの討論から、卑弥呼の城が九州の何処にあったかの討論に、話題が移り変わってきたのだったな。。。
>>164
>つか、なんで狗邪韓國がなんで順天
対馬海流を利用して、対馬に着岸するためには、順天あたりからじゃないと、無理。
狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。 @阿波 満州まで侵攻した清正公は、朝鮮のどの港から退却したのだろうか、、、
それにしても、5ちゃんねるのサクラとして雇用されているキナイコシは、頭が悪いな。。。
>>174
釜山じゃないから。
狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。 @阿波 495
>>926 >(前方後円墳)北部九州最大国の奴国のど真ん中にあるんだが?<
北部九州最大国は奴國ではない。邪馬壹國が最大。
>その時点で、九州も前方後円墳体制の秩序に参画しているのが確実<
大和の前方後円墳よりも、
邪馬壹國の那珂八幡などの前方後円墳の方が早かったから、
「九州も前方後円墳体制の秩序に参画していた」事にならず、×。
>>158
帯方郡(平壌)
↓【南】海岸水行7000里(500km)1里=71m
狗邪韓国(順天)
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(対馬上対馬か)
↓海渡1000里 (50キロ)(50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐郷ノ浦か)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦)
↓【東南】陸行500里 (25キロ)1里50m 福津市→八木山峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15キロ)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25キロ)1里250m
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(宿毛)
↓【南】水行10日又は陸行1月(旧土佐街道)
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)
↓【東】海渡1000里(50km)1里=50m
女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里渡海→奈良周辺)
帯方郡→女王国(阿波)万二千里(直線距離 900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。 @阿波 495
>>942 >海峡渡海は測定せずに、一回千里って書いてあるだけなんだから、
縮尺も何もないだろう?ww <
いや「余」の有無で書き分けてあるから、魏の役人たちは実際に計測した。
また魏の役人らが、計測もせず、ズボラしてでっち上げた事が皇帝や重臣たちにバレれば、
首が危ないから、魏使たちはそんな事はしない。
東大理系大学院博士号であっても、そりゃ首が危ない。
畿内厨によれば、
(偽りの)陳寿の行程記事どおりに進めば、末盧国の東南500里にあった伊都国は、
(今は何もない)佐賀川上だったという。
・・そう、たとえ偽りでも それはそれでいいんだよ。。。
>>144 >だから方角は日の出の位置かなんかできめてたんだろ?
日が少し高くなってから出発したら、偉い人は船頭に方角を聞いて、そらをそのまま書きつけただろう。
>>153 >木簡に通し番号?
これを言ってるやつは九州説だぞww
つ
>>131「木簡がバラバラになるのは通し番号振れば防げるのはわかった? 」
ああごめん、九州説じゃないけれど畿内説の御都合主義が気に入らないと言いつつ
九州説の御都合三昧はオールスルーで、自分も御都合主義の権化の人だwww
495
>>944 3世紀の九州には遺跡や前方後円墳が一杯あるが、大和は3世紀末以後にしかない。
だから彼らは「行程記事パズル」と「南→東」などの嘘付き騙しに縋るしかない。
「南≠東」であっただけで、砂上の楼閣のように全部崩れるからね、大和説は。
恐ろしい恐ろしい。
彼らがそんな徒労に人生の時間をどれだけ無駄に費やしたか想像すると、
可哀想で、目眩がするようだ。
橿考研や桜井教育委員会などは、解散した方がいいんじゃないかね?
スレ主や類スレ主らのように、人生を棒に振る人間を、これ以上増やしてよいものか?
495
>>953 >短里なんてないし、大陸史書の方角は必ずしも正しくないww<
倭人伝の記録は、魏の役人たちが実地に見聞計測したもの。
>>147 >管理できてたから今に歴史書として残ってるんでしょ?
>それすら否定するの?
管理できてたとしたら、こんなにいい加減なのはどうしてだ?
北部九州の末盧国、伊都国、奴国だって、魏志倭人伝の地誌記述とは合わない場所に
地名と遺跡で比定地を置いてるんだぞ?
そのいい加減さを認めるところから始めないと!
九州説の連中は、魏志倭人伝原理主義に陥りやすい
というか、魏志倭人伝を正しいと言い張った上でのインチキ読みだけが頼りという状態
歴史書として残っているのは、前王朝を簒奪した唐が、自らの正当性を謳うために
国家事業として前王朝の正史を編纂して、そのときにそれまでの王朝の史書も
正史として選ぶなどして整えたからだ
三国志はこの唐朝のときに正史認定されるまで、ただの私撰史書でしかないし
国家事業として編纂されてものではない
>>144 >目的地の奈良も九州からみた位置は東だし
これ、地図のない時代に船頭が正しい方位を認識してたと思うのか?
こういうところが、具体論を避け続ける九州説の常識のなさだよなw
495
>>955 >この時点で、投馬国は女王國より以北の国で確定<
ここまでの時点で、投馬国は女王國より以南の国で確定
大和説は壊滅
そして、萬二千里は女王国までの距離だから、
女王之所都は不彌國のすぐ南にある事になる。
495
>>959 >萬二千里は観念的な値だから、具体的な距離に直す必要は最初からない<
いや、「余」がある事を隠して、世間の人々を騙してはいけないよ、
東大理系大学院の博士号を称する詐欺師さん。
「余」があるから、魏の役人らの計測値から「近似値」に簡略化された事を示す。
495
>>969 >・・・3つの設定値が現実の地理とは無関係に置かれていて、あとは適当<
魏の役人たちは、「適当」に書いて、部下や後続の使節や難升米らの「率善中郎將」らにバレて、
皇帝や重臣たちに知られたら、当然首が飛ぶから、
「適当」に書く、というようなインチキはしない。
他のスレ(本や書籍)も同じ、
もれ(仮名)が書き込みをするまで何もわからなかった?とか
>>77 名前:日本@名無史さん 2019/08/20(火) 08:09:15
>畿内説石野船長「南→東と読み替えて、不弥国から東に進み投馬国(出雲)を目指そう! 次は女王卑弥呼の纏向だw 全速前進!」
>畿内説寺澤機関長「順風満帆! やはりこちらが正しかったですねw 天も我々を祝福しているかのようですw 九州説の警告なんて無視して良かったw」
>畿内説橋本航海士「我々の進行方向&左右両舷をすっぽり取り囲むような三日月形の巨大な氷山脈発見!!!→→→)」
という次第で、かわゆいモモソちゃんを糸島中学代用教員如きの原田大六に取られてなるものか、
と喘息前進した結果がこの始末。。。
今、畿内の考古学者だけに通用するから「畿内説」という・・・。
3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290 解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割~8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://2chb.net/r/history/1556294803/303 いつ覗いても、邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人が、論破されているね。。。
龍宮~寒いな~?
ほとんど、この人物が考えたんだよと言っている人がいたでしょ、
日本の神話などもそうだとか
数年前のとあるスレ
(一緒に)温泉に行きたい、かき氷、アイス、
何やら~と言っている人がいたり
湯山主?の話『デスラー』とか
山の上のほうに住んでいたという話でしょ、
『湯山主』
『龍宮 輿 寒いな~』
名前の読み方も何やらとか
何やら、何やら~、モンハンというゲーム・・・その他?
なぜか家の話のような気がするんだけど
>>188 余がついてるから逆に測ってないという事がわかる
連続句点って、いま「頭わるい」と言われ続けてきた暗い人生の終末なの?
そんな哀しい業を感じた
魏志倭人伝に書いてる距離は一寸千里で正確に測ったものという九州説の主張は
単位の区切りが100、500、1000里である事と
余というアバウトさを示す単語が使用されてるという事で真理ではないね
つまり邪馬台国までの距離と書いてある帯方より南1万2千里は測ったものではないという事
>>202
>つまり邪馬台国までの距離と書いてある帯方より南1万2千里は測ったものではないという事
帯方郡(平壌)
↓【南】海岸水行7000里(500km)1里=71m
狗邪韓国(順天)
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(対馬上対馬か)
↓海渡1000里 (50キロ)(50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐郷ノ浦か)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦)
↓【東南】陸行500里 (25キロ)1里50m 福津市→八木山峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15キロ)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25キロ)1里250m
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(宿毛)
↓【南】水行10日又は陸行1月(旧土佐街道)
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)
↓【東】海渡1000里(50km)1里=50m
女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里渡海→奈良周辺)
帯方郡→女王国(阿波)万二千里(直線距離 900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。 @阿波
狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。
因みに、釜山は対馬海流を利用して渡った、対馬からの着岸地である。 @阿波 なぜ誤差という単語が出てくるのか
九州説の思考は理解不能
>>204 魏志倭人伝にある邪馬台国の位置は沖縄か台湾の会稽東治の東
ソウル辺りになる帯方から南1万2千里をそこに当てはめて1里を換算すると
1里約140m
1里≒70mは妥当じゃないね
>>140 邪馬台国畿内説のスレッドに、嘘だらけのテンプレートを、貼り付けている、3つの独立の根拠があれば、そこが邪馬台国だという、自称ベイジアンの発表した意見のどこがおかしいか発表します。。。
真実のロシアのルーレットの思考の実験を読めば、普通の頭の者なら、理解できます。。。
架空の世界に、12丁の、色の違う、4発発射できる、回転式の架空の拳銃を使ってルーレットをする架空の会場が、開場しました、、
赤の拳銃、緑の拳銃、青の拳銃、そして、その他の9色の拳銃が用意され、どちらが運が良いか決定しようとしている、架空の奥山氏と、架空の類奥山氏が、入場しました、、
緑と青、そして、その他の赤以外の9色の架空の拳銃の専用の弾は、的を死体にはしないで、本体と同じ色をつける、絵の具の弾です、
赤の架空の拳銃は、的を死体にする専用の弾を、発射します、、
ルールがありますが、不公平です、、
架空の奥山氏は、どの色の拳銃を使用するときにも、空にしたあと弾を3発込めて、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
架空の類奥山氏は、奥山氏の頭に色が付かなかった時は、その色の拳銃を使用するときには、弾を4発込めて、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
架空の類奥山氏は、架空の奥山氏の頭に色が付いた時は、空にしたあと、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
拳銃は、奥山氏から初めて互いに交互に、緑、青、その他の赤以外の9色、最後に赤と撃ちます。
最後に生きている方には、架空の睡眠銃で睡眠弾が発射されます。。
架空の生物にはクマモンという着ぐるみを、死体には、、巻きぴょん、、という着ぐるみを装着させます。。。
拳銃の数を知らない、奈良の小汚い自称考古学者が出現し、巻きぴょんの中身だけを調べました。。。
巻きぴょんの頭部が、緑と青と赤だけで着色されていたら、それが奥山氏の確率は、ベジタリアンとベジタリアンでは無い者では、それぞれ、どのような、計算結果になるでしょうか、、、
架空のロシアの会場の巻きぴょんの頭部が、緑と青と赤だけで着色されていることで、奥山氏かどうかを判定することは、つまり、着色の可能性の全体を無視して、緑と青と赤という要素だけで、全体を予想する、、、
という、破綻した要素還元主義が前提になっているのだったな。。。
邪馬台国畿内説が前提にしていた、唯物論や要素還元主義が、他の多くの分野で破綻してしまい、
魏志倭人伝時代についての討論をするまでもなく、 邪馬台国畿内説も自動的に破綻してしまったので、
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する、朝鮮人の奥山氏は、、、
邪馬台国畿内説が破綻した唯物論や破綻した要素還元主義反論を前提にしていた、、、
という真実の指摘への反論を完全に諦め、スレッドに出現しても、意味がよくわからないことや嘘しか発表しなくなったことが、
このレベルの低いスレッドの、益々の低レベル化を進行させてしまっているのではないのかな。。
>>206
>魏志倭人伝にある邪馬台国の位置は沖縄か台湾
「丹」の採れないに沖縄や台湾に、邪馬台国など在る訳がない。 以上御終い。 @阿波 僕達が笑いリラックスするためにアプローチしている、このレベルの低い、5ちゃんねるのサクラのプロ固定が作製したスレッドとは全く異次元の、 たくさんの分野のレベルの高い学者達が集う、
魏志倭人伝時代の真実について、僕達か僕達の論敵のどちらの頭がカラフルになるかを賭けて、
お互いに、不敵な笑みを浮かべながら、 闘っている討論会では、
破綻した非科学的な唯物論や破綻した非科学的な要素還元主義を、お互いに掲げることなしに、正々堂々の討論を闘っているので、
魏志倭人伝に全く記録はされていない土器や時代の異なる前方後円墳ではなく、
鉄鏃や、人民の住居や、ベンガラや、空気シャワーの効果や、方角や、距離や、夏の時代の考古学的に判明している会稽の位置や、魏志倭人伝時代の倭人の太い骨や、
萬二千里の事で奥山氏も頼みにしている淮南子を規定している一寸千里の法を材料にして、討論が進行し、
卑弥呼の城が日本の何処にあったかの討論から、卑弥呼の城が九州の何処にあったかの討論に、話題が移り変わってきたのだったな。。。
自称T大卒の畿内厨によれば、
(偽りの)陳寿の行程記事のとおりに進めば、末盧国の東南500里にあった伊都国は、
(今は何もない)佐賀川上だったという。
・・そう、たとえ偽りでも それはそれでいいんだよ。。。
>>210 そこは邪馬台国じゃないから
魏志倭人伝に書いてる邪馬台国の位置は間違いであって
考古学的証拠で見れば邪馬台国は畿内で決まる
>>131 >本当にかさばるなら露布のように布に書いてもいいかもね
それこそ記録メディアとしては適さないだろう
ぐちゃぐちゃになって終わりだよ
行き帰りに年単位の時間がかかるんだから
もう少し具体的に考える習慣を付けなよ
その場その場で思い付きをさももっともらしく書いて、即座に否定されて
さらに思い付きを重ねて自滅していくばかりじゃないかww
それでよく「畿内説のご都合主義が気に入らない」とか書けるよなww
>>213
>考古学的証拠で見れば邪馬台国は畿内で決まる
考古学的に見れば、「丹採掘遺跡」のない畿内に、邪馬台国など在る訳がない。 以上御終い。 @阿波 邪馬台国畿内説を宣伝するキナイコシは、T大学付属病院の精神病治療センターを卒院したことを、自慢していたな。。。
>>215 そんなの無くても邪馬台国は畿内としても問題なし
>>217
>そんなの無くても邪馬台国は畿内としても問題なし
おっと、開き直ったか? 考古学的証拠で見れば、そりゃヤバイだろ。 わははははは @阿波 それにしても、5ちゃんねるのサクラとして雇用されているキナイコシは、頭が悪いな。。。
だから言っているでしょ、突然このようなもの(広告)が出てきたり
『詐欺師と一緒にされるのも嫌なので』
『湯山主』
上の名前の読み方が何やらとか、そういう話でしょ、
騙している、誤魔化しているとか?
>>218 畿内には三角縁神獣鏡や前方後円墳があるからそんなのは要らねえ
>>206 一里が140メートルの短里であることを認めたか。
めでたい。
>>213 >魏志倭人伝に書いてる邪馬台国の位置は間違いであって
>考古学的証拠で見れば邪馬台国は畿内で決まる
それは邪馬台国ではない別の国だよ。
>>222 残念だが認めんな
1魏里は約430m
1里140mになってるのは何かの間違いだろ
>>223 イイエ畿内の邪馬台国です
湯山主?『モンハン 温泉』
むかーし、山の上のほうに住んでいたんだよ、
(『老婆談』)と言っていたしな・・・・・・・・・・・・。
漫画、アニメ、ゲーム・・・(その他も同じ?)など、
どういう仕組みで制作されているんだろう
家に収入があるわけでもないし
899日本@名無史さん2019/08/19(月) 20:39:35
>>868 >>北部九州説は福岡県までがしっかりとしているのに、どうしてそこから先(の畿内)はそんなにあやふやなんだい?
>(福岡までも)しっかりなんてしていないww
>循海岸七千里もただの引き算
>海峡渡海は距離に関わらず一律で一回千里
>末盧国からの東南陸行五百里が正しければ、それこそ佐賀県のほうに抜けるはず
> 結局、北部九州説(は福岡県内)の時点でも、地名と遺跡から比定地を推定しているだけなんだよ
>>221
>畿内には三角縁神獣鏡や前方後円墳があるからそんなのは要らねえ
それ、両方とも、倭国(阿波)の専売特許 だと、何度言えばw わははははは
それと、碌な集落遺跡の無い畿内に、邪馬台国など在る訳がない。 以上御終い。 @阿波 >>229 三角縁神獣鏡は中国の鏡だから中国の専売特許
前方後円墳は畿内が1番多いから畿内の専売特許
集落遺跡は今の住宅街が重なっている
>>230
>三角縁神獣鏡は中国の鏡だから中国の専売特許
三角縁神獣鏡 は、魏の水銀朱が使われた天河別神社古墳群出土の「斜縁二神二獣鏡」をぼう製したものだろう。 @阿波 >>230
>前方後円墳は畿内が1番多いから畿内の専売特許
「萩原2号墓:弥生末期の三重構造埋葬施設を確認」 徳島
全国で珍しい「積石木槨」構造が確認された萩原2号墓=徳島県鳴門市大麻町萩原
徳島県鳴門市大麻町萩原の萩原2号墓で、板材でつくった墓室・木槨(もっかく)を積石(つみいし)で囲んだ三重構造の埋葬施設が確認された。
県教委と県埋蔵文化財センターによると、築造は弥生時代終末期の2世紀末~3世紀初頭で、邪馬台国の女王、卑弥呼が活躍した時期に一致する。
石で木槨を囲う例は、他には弥生墳丘墓と前方後円墳の過渡期的存在とされるホケノ山古墳(奈良県桜井市、3世紀前半)だけで、同古墳の構造に影響を与えたのは確実。
前方後円墳の成立に阿波地域が大きな影響を与えたことを示す貴重な資料となる。
墳丘は直径20メートルの円丘に、方形の突出部が付いた形態。円丘の中心に棺を納め、15~20センチの砂岩を積み重ねた壁で囲ったうえ、その外側に40~60センチの砂岩を積んで、全体を覆っていた。埋葬施設は東西6.5メートル、南北4.1メートル。朱を内側に塗った木槨を、砂岩を積み上げた壁2層で覆った構造だったとみられる。
一方、ホケノ山古墳には中間に石の壁はなく、木槨を石で囲う二重構造。
徳島、香川両県には石清尾山(いわせおやま)古墳群(高松市)など、石を積み上げた古墳時代前期の積石塚が点在。「画文帯(がもんたい)神獣鏡(しんじゅうきょう)」などの中国鏡も出土、瀬戸内で勢力を広げた有力豪族がいたらしい。県教委は「阿波や讃岐の墳丘墓が奈良盆地東南部での前方後円墳の発生に大きな影響を与えたことが確実になった」としている。(毎日新聞)
http://www2.odn.ne.jp/kofun/hagiwara.htm >>231 中国でも同じものが見つかり
使われている銅は中国のもの
漢字と魏の年号が入っている
>>233
碌な集落遺跡の無い畿内に、中国鏡など在る訳がない。 以上御終い。 @阿波 >>223 別の国とする根拠がない
魏志倭人伝によると、奴国は女王国連合参加国で、
かつ、奴国は畿内中心の前方後円墳祭祀連合に参加している
外周突線
長方形鈕孔
ちゃんと字として書かれている銘文
ちゃんと神や獣として描かれている文様
同笵
多種多様な鏡からの引用
どれも国産ではムリぽ
>>234 畿内からは方格や画紋帯や内行花文鏡も出てるから
ロクな集落遺跡があったって事だ
>>235
その元祖だよ。 倭国(阿波)が本家本元ってこと。 わははははは @阿波 畿内厨がいうことには、
(偽りの)陳寿の行程記事のとおりに進めば、末盧国の東南500里にあった伊都国は、
(今は何もない)佐賀川上だったそうだ。
・・そう、たとえ偽りの行程でも それはそれでいいんだよ。。。
老婆が嫁に来る前の話w
何かの家(あの写真、書き込みをしている家)の人みたいだよと言われたことがあったとか
もしかして、かみたま?
江戸時代の国学者とお前らに共通してる間違いは、邪馬台国が奴国だと勘違いしてしまってること
「卑」弥呼は「狗」奴国の女王なんだよ
>>238
>ロクな集落遺跡があったって事だ
それは、全部倭国(阿波)の「忌部はん」 のお墓の中から! お墓は集落遺跡とは言わないんだよ。 以後、よく覚えておくように! わははははは @阿波 >>239 畿内には推定でホケノ山よりもっと古い前方後円墳もあるから
元祖は阿波とは言えないな
>>246 象鼻山にはもっと古いのがあって連続性もあるの
巻向には東海からの土器の流入比率も高いし
>>244 古墳は大王のちの天皇はん一族の墓だぞ
>>243 魏志倭人伝に女王の住まう所が邪馬台国で
女王は卑弥呼と書いてあるんだが
>>247 古いから何か
三世紀卑弥呼の時代に畿内にある事が重要
>>246
>畿内には推定でホケノ山よりもっと古い前方後円墳もあるから
ということは、、前方後円墳の原型はないってことだよね? いきなり、前方後円墳の出現ってことだ。 わははははは @阿波 >>248 だから、邪馬台国とは呉が書き記した記録では狗奴国でその女王は卑弥呼と書き残されてた国だと陳寿は同定してる、ってことだよ
>>251 ホタテ貝前方後円墳の原型は千葉の神門古墳群にある
>>253
>ホタテ貝前方後円墳の原型は千葉の神門古墳群にある
千葉と言えば、関東忌部! @阿波 連句点ねえ、
思えばすっかり年月が経過した。これは、実は伊作譲りなんだよ、そしてオレは佐賀クン、又は性(さが)クンと呼ばれてた・・・。
>>251 いきなりって事はない
円墳とかも畿内には沢山ある
>>252 魏が書き記した記録では女王は卑弥呼で邪馬台国に居て
邪馬台国は大和国である事は後の文献や考古学的な裏づけがあるよ
陳寿は邪馬台国が帯方より南1万2千里で倭の極南界の会稽東治の東
場所で言えば沖縄か台湾の辺りと魏志倭人伝に書いているけど
これは漢の時代に朝貢した倭奴国があったとされる場所に
魏と晋の政治的な事情で邪馬台国の位置をそこに当てはめて書いたもの
>>256
思えばすっかり、斜陽になったんだね。 阿波の登場で! @阿波 前方後円墳って畿内説は必死になって古いものだとしようとしてるけど、実はもっと新しいものなんじゃないのか?
だって邪馬台国ってのは濃尾で、そのあと大和が新首都として開拓されて遷都されたわけだから
>>231 >「斜縁二神二獣鏡」をぼう製したものだろう。
天河別神社5号墳出土の斜縁神獣鏡は径16.5センチのもの
三角縁神獣鏡は20センチ以上が普通
コピー鏡ってことはないなww
それから天河別神社1号墳の水銀朱はイオウ同位体比分析から
三重県丹生鉱山の朱が使われていたようだと分かっているww
>>257
>円墳とかも畿内には沢山ある
もういいから。 よくいままで頑張った。 もう楽にすればいい。 @阿波 斜縁は津堂城山にあることから
古墳時代前期末くらいに舶載されてるぽい
>>262 円墳と方形周溝墓が併存してた時代ってあるよね
イザナミが嫁いだことによって融合されて前方後円墳になったんだよね
>>260 畿内ホケノ山古墳が年輪年代測定法や木棺サンプル5つを
炭素14c年代測定法で測定した結果がAD120~240年
それと収められていた副葬品の年代観から三世紀中葉とされている
九州説は必死に三世紀後半や4世紀以降にしたがってるけど
『カッパ 相撲』
>河童の 別称で ある 「ひ ょ うずべ 」の 関係を中心と して
→『ひ ょ うずべ 』
そのままコピーしてググってみて、日本の話ではない?
文章自体も 伊作に似てて、区別がつきにくいとからかわれたものだ・・・。
良くも悪くも 似てしまったのかもしれぬ、ガハハ、、。
>>262 前方後円墳どころか円墳も畿内の専売特許
阿波には何もない
>>265 象鼻山の土器が巻向から影響を受けたなんて言われてる時点で全く信憑性は無いわけなんだがw
なんせ象鼻山には古くから権力が有って、巻向は新興都市なわけだから
>>261
>三重県丹生鉱山の朱が使われていたようだと分かっているww
却下!
すくなくとも、卑弥呼の時代に辰砂を採掘していたのは、天河別神社1号墳の倭国(阿波)のみ! 問答無用! わははははは @阿波 >>269 畿内は3世紀の大都市だから色んなとこから土器が入って来ても不思議ではないだろ
>>271
もういいから。 よくいままで頑張った。 もう楽にすればいい。 @阿波 まだ時代は邪馬台国濃尾説の俺に追い付いて来てないな
俺がもう何年も前に結論出してることに、いつになったら時代が追い付いてくることやら
天動説の時代に地動説を唱えたガリレオの気持ちがものすごくよく理解できるw
>>272 ヤダね
阿波説を地上から消し去ってくれるわ
方形周溝墓
円形周溝墓
前方後方形周溝墓
前方後円形周溝墓
方形台状墓
四隅突出形墳丘墓
双方中円形墳丘墓
双方中方形墳丘墓
前方後方形墳丘墓
前方後円形墳丘墓
495
>>971 >末盧国上陸後から、方位はズレてるし、距離もアバウト。<
魏の役人たちの業務上の計測だから、
方位は殆どズレていないし、距離もアバウトいないではない。
阿波説は畿内文化圏の中心地は実は阿波だったという説だから
畿内説が消えない限り阿波説も消えない
九州説は表面上は余裕ぶってるがその実はあっさりバラされる嘘をつくしか手が残っていない
畿内説は構築された文献や考古学的証拠で圧倒的有利
状況はすでに強者が弱者を一方的に刈る非対称戦争なのだよ
>>270 >卑弥呼の時代に辰砂を採掘していたのは、
阿波は掘った穴の位置が分かっているだけで、鉱山としては三重の丹生鉱山や
大和水銀鉱山の方が古いよ
495
>>985 >なんかわけのわからん解説しはじめた
バカなの?この子<
何やら、東大理系大学院で博士号を取った、と自慢していた子だよ。
ちょっと脳がおかしいいようで、ごめんね。
>>283
トンデモ同士、もうそろそろ、お仕舞にしたら? もう、面白くなくなっちゃっただろ? @阿波 大韓航空は20日、日本と韓国を結ぶ路線を大幅に見直すと発表した。
9月16日から釜山―関西、11月以降に済州―成田、済州―関西をそれぞれ運航休止とする
⤴
韓国はもう少し、大人になれないかな?
>>279 近江や象鼻山を消し去らないと、永遠に阿波の時代は来ないけど、近江や象鼻山は畿内ではない!
九州説もいくら嘘ついても論破されるから
最近はめっきり勢いが無くなってしまったのう
九州説はもういくら嘘を重ねても無駄
わかったら撤収
>>289 勘違い 例の件で
大韓航空は被害者・・客が減ったからしょうがない措置
>>260 前方後円墳は邪馬台国と関係ないから、畿内説の好きにさせればいい
畿内説は論破されまくっているがゴキブリのように湧いてくるなw
いちおう前方後円墳が邪馬台国と関係ない理由・・・時代もおかしいが削除
其死有棺無槨 封土作冢
卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
畿内説が主張する狗奴国にも前方後円墳がある?
いちおう前方後円墳が邪馬台国と関係ない理由・・・時代もおかしいが削除
其死有棺無槨 封土作冢
卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
畿内説が主張する狗奴国にも前方後円墳がある?
>>293 >前方後円墳は邪馬台国と関係ないから、畿内説の好きにさせればいい
最近の九州説のトレンドは、この手の根拠のない言いっ放しww
「纒向遺跡は3世紀じゃない」が否定され、
「畿内と北部九州は交流なし」も否定され、
もう根拠一つないのにただの強がりとして書き続けるww
魏志倭人伝によると、奴国は女王国連合参加国で、
かつ、奴国は畿内中心の前方後円墳祭祀連合に参加している
前方後円墳より前方後法墳の方が古いのは何故なんだろうね?w
>>206 ようやくキナイコシが、一里が140メートルの短里であることを認めたか。
めでたい。
複数の勢力(漢、呉、公孫氏、魏)が書き残した里程を陳寿がごっちゃ混ぜにして編纂したってことにいつになったら気づくんだろうか?w
>>297 >其死有棺無槨 封土作冢
>卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
これ、「徇葬者奴婢百餘人 」が日本のどこにも確認できない以外は
畿内の古墳文化と一致してるよ
槨というのは、追葬ができるように作られた人の出入りができる大きさの空間を作る構造物
日本の近代の考古学者が粘土槨とか礫槨とかの用語を本来の槨と異なる構造に
使ったことに引きずられて誤解している人がいるだけ
西京雑記巻六 魏襄王の冢の記事
皆以文石為槨髙八尺許廣狹容四十人
皆文石を以て槨と為し、高さ八尺ばかりなり。広狭は四十人を容る。
>>302 >ようやくキナイコシが、一里が140メートルの短里であることを認めたか。
またデタラメ捏造を書いてるw
九州説の言う「1里=70メートルの短里」なんてないって言ってるんだよ
あるのは魏晋里437メートル前後のみ
>>303 >複数の勢力(漢、呉、公孫氏、魏)が書き残した里程を陳寿がごっちゃ混ぜにして
>編纂したってことにいつになったら気づくんだろうか?w
いずれにしても、秦漢尺あるいは魏尺だから大差ないけどな
短里などないww
魏志倭人伝の旅程記事に混乱があるのは確かだ
1.淮南子の世界の東の果てまで萬二千里という概念
2.漢委奴國王、倭国王帥升等の朝献の時の北部九州までの「里」程
3.卑弥呼の遣使の時の邪馬台国までの「日」程
これらが、陳寿の手元にあって、これを総合して旅程を書いたのだろう
また、2.の時の里程には別の目的地(倭面土国)行きが紛れている可能性が高いし、
魏志倭人伝の地誌情報と実際の魏使の使った邪馬台国までの経路は一致しない可能性が高い
地誌記事は、中国の研究者の読み方でも、「放射読み」も最後の「邪馬台国までの日程を
総距離と見る」のも、漢文の文法からいって明らかな誤読
北部九州=邪馬台国というのは、誤読の上に成り立っているだけで、普通に
漢文として読めば、伊都国、奴国と邪馬台国が別であるのは誰が読んでも明らか
この時点で、伊都国にある平原1号墓が卑弥呼の墓というのは、ありえない
>>302 そもそも九州説のいう短里は1里75mだかだろ
1里140mは名づけるなら中里
>>184 全然いい加減じゃないでしょ?
前後がバラバラな箇所あるの?
方角ずれてるのは当時の計り方ではそれが正しい方角だったの
今が正確すぎるだけ
>>185 古代人って星やらで方位ちゃんと認識してたりするよね
>>265 小枝資料の測定結果は280~400年
INTCAL13は地域により実際より古い結果が出る
布留式土器の出土
年輪年代法は検証していない
年輪年代法は生えてから100年間の年輪では使えない
陳寿の最大の功績は、元は九州に上陸して東へ進んだところに倭国の都があると書かれてたものを、奴国の南に狗奴国があるという記述を見つけて、南へ進むと改竄したこと
これに依って後の時代の元寇の時に、元軍は路頭に迷って、そのうちに野分が来て退散することになって日本は救われたw
実際には瀬戸内海を挟んで奴国と狗奴国は争ってた訳で、奴国の南に狗奴国は有るわけだけど、狗奴国の都であり倭国大乱前の倭の奴国の都である邪馬台国は九州に上陸してから東へ行ったところにあったわけだけどw
但しそこは大和ではない。大和はまだ未開拓だったからwww
>>308 魏志倭人伝と実際の地理を比較するわけだから、140メートルでもいいと言える。
それでも帯方郡から一万二千里の邪馬台国の場所は九州北部に収まる。
>>310 小枝www
ホケノ山の木棺のサンプル5つはAD120~240年
棺内の副葬品はAD240年三角縁神獣鏡が伝わる前の画紋帯神獣鏡と内行花文鏡が数点
卑弥呼の魏への遣使前で鏡が枯渇していた時期と年代観が合う
小枝は後年天井が崩落した時の混入物と見られている
>>312 帯方より南1万2千里が1里140メートルじゃ
邪馬台国は沖縄か台湾のあたり
九州上陸から二千里しかない。
九州を出る必要はない。
>>314 台湾も沖縄も会稽の東ではないな
はい、論破完了w
>>316 沖縄や台湾は会稽東治の東
嘘をついた九州説の負け
>>319 少なくとも
福建省福州市でその東は沖縄や台湾にあたる会稽東治の東を
九州という九州説は明確な嘘をついている
>>321 支那人か朝鮮人かわからないけど無理して日本語使おうとしなくてもいいよw
>>322 へえ九州説は
>>321が中国語や朝鮮語に見えるんだ
街宣右翼の成り済まして馬鹿なこと言ってネガキャンする手法か
議論でも負け煽りあいでも負けどうやっても勝てない九州説
頭が悪いから
根拠にならないことを客観的な理由になっていると思い込んでいるキナイコシw
老婆談w
相撲の話もしていたり、
土俵?相撲を取るところがあって・・・とか、
なぜか山の上のほうの話
>>330 会稽東治は現在では福建省福州市
その東は沖縄か台湾になるという話を何語に翻訳すればいいの
朝鮮語とかスワヒリ語でなければ読めないの
九州説にちょっとぐらい悪口言われても痛くも痒くもねえ
余裕余裕
九州説は畿内説に必ず負ける
それは畿内説が真で九州説が偽だから
>>309 >全然いい加減じゃないでしょ?
>前後がバラバラな箇所あるの?
壱岐から唐津経由でしかも陸行で糸島に向かうのは、前後バラバラ以前の話
唐津から東南陸行五百里のところに伊都国はない
これをいい加減と言わずして何とするw
>方角ずれてるのは当時の計り方ではそれが正しい方角だったの
また適当な思いつきだww
八方位で書いてあるときに90度ずれてて正しいなんてのは通らない
>>312 >魏志倭人伝と実際の地理を比較するわけだから、140メートルでもいいと言える。
また手のひら返しでその場の思いつきで「これでいいんだ」って言いだしたぞww
これまでの短里はあるんだ!一里は70メートルだ!って言ってたのと整合性はどうつけるんだ?
>それでも帯方郡から一万二千里の邪馬台国の場所は九州北部に収まる。
収まらないよww
唐津上陸までが一万里残り二千里が一里140メートルなら280キロになる
九州島の南北が約300キロだからそのうちの9割を使っちゃうぞw
どうやっても九州北部じゃないだろ?ww
不彌國からでも1300里で182キロ
300キロの6割以上だから九州の半分より南だなww
本当にその場の出任せ思いつきをしたり顔で書いてはすぐに否定されるww
九州説ってバカしかいないんだなw
>>309 >方角ずれてるのは当時の計り方ではそれが正しい方角だったの
>今が正確すぎるだけ
んじゃ、南と書いてあるのが東でもいいですよね?
実際、呉を攻めるのが征南将軍だったり征東将軍だったりするし
会稽は「雒陽『東』三千八百里」だし
南北朝で南朝側が『東』晋だったりするもの
のちに『東』冶と呼ばれる地域で浙江・福建省にあった国が
『東』越とか『東』甌とかですしね
「南至」は実際には東でいいです
当時の計り方ではそれが正しい方角だった
とあるスレ
むかーしの何かの家の人なんだろう?
と言っている人がいたり
伊達郡川俣町?
>>342 巨大な集落跡と言う根拠は?
古墳造営のために人が多くいたでも成り立つのでは?
>>343 >古墳造営のために人が多くいたでも成り立つのでは?
その多くの人の生活を支えられるだけの食糧供給や
生活インフラを賄えるだけの大集落だったってことにしかならないよ
大墳丘墓のような見る人に権力誇示する巨大モニュメントは、見る人の多いところにしか作られない
つまり首都・王都周辺、あるいは王を訪れる人の通る街道沿いがその立地として選ばれる
纒向古墳群はまさに王都周辺であり、のちの古市古墳群・百舌鳥古墳群、五色塚古墳は
王都への街道沿いになる
僕ちゃんは認めないぞと叫んでも
「奈良県桜井市の纒向遺跡では、2009(平成21)年に3世紀前半頃の整然と配置された大型建物跡が発見され、邪馬台国との関係で注目されている。」山川
「奈良県の纒向遺跡で魏志倭人伝にいう『宮室』にあたるとも考えられる遺構が出土するなど、この問題に関する新たな発見が続いている。」清水書院
などと書かれた教科書を使って
全国の高校生が日本史を学んでいるよ
>>344
>生活インフラを賄えるだけの大集落だったってことにしかならないよ
大和・柳本古墳群造営が終了するまでの、「忌部はん」 の「古墳造営前線基地」だよ。 言わば、土方が住むドヤ街。 @阿波 >>338 地球の自転軸が30°もズレるなんてことはないとは思うが、
当時の北極星が、現在僕らが指定してる北極星と同じ天体だったかどうかを、
誰か過去の文献等から調べといてくれんかな?
方角は弥生時代初期か中期に定まってて、
終末期にもそのまま使われてた可能性も考慮しとかなあかんかな。
過去文献をすべてデジタルデータでインプットして、AIを使って検索するかな。
>>343 現地を調査した責任者は「巨大な集落跡」と判断した
監督官庁はそれを認定した
>>350 何戸あろうと関係ないな
巨大な集落跡なことに変わりない
>>351 >監督官庁はそれを認定した
ただ認定しただけ、つまり係官が「そのようですねえ、、、」といっただけのことさ
なあんだ、夜通し酔っ払いの与太話だったのか。
つまらん、、、、
>>353 常識で考えろ
係官が「そのようですねえ、、、」と言っただけでは認定は下りない
>>357
大和・柳本古墳群造営が終了するまでの、「忌部はん」 の「古墳造営前線基地」だよ。 言わば、土方が住むドヤ街。 @阿波 >>347 >当時の北極星が、現在僕らが指定してる北極星と同じ天体だったかどうかを、
>誰か過去の文献等から調べといてくれんかな?
過去の文献より現代天文学の方が早いだろ
2000年くらいではそれほど大きくはずれないよ
>地球の自転軸が30°もズレるなんてことはないとは思うが、
そういう話じゃなくて、中国史書に書いてある方角はそんなに正確な表記ではないし
字義通りに読んだらバカを見るだけ、という話
「実際、呉を攻めるのが征南将軍だったり征東将軍だったりするし
会稽は「雒陽『東』三千八百里」だし
南北朝で南朝側が『東』晋だったりするもの
のちに『東』冶と呼ばれる地域で浙江・福建省にあった国が
『東』越とか『東』甌とかですしね
「南至」は実際には東でいいです
当時の計り方ではそれが正しい方角だった」
>>357 名前:日本@名無史さん 2019/08/21(水)
>常識で考えろ
政治家に格別おいしい話でもないこの手のことは、
係官が「そのようですねえ、、、」と言いさえすれば、あとはトントンと認定が下りる。
それがお役所というものだ。常識で考えろ。
>>354 >言い張るだけかよ
そうだねえ、泡も連続句読点も、
根拠なしに「古墳造営基地だったに決まってるにだ」って言い張るだけだねぇ
いつ覗いても、邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人が、論破されているね。。。
>>360 >当時の北極星が、現在僕らが指定してる北極星と同じ天体だったかどうかを、
>誰か過去の文献等から調べといてくれんかな?
有史以来の北極星のずれは、およそ満月の大きさの範囲内のズレと思えばよい。
萬天の夜空の大きさからすれば微々たるもの。
>>361 >係官が「そのようですねえ、、、」と言いさえすれば、あとはトントンと認定が下りる。
ウソ
文化財保護審議会への諮問と文部科学大臣への答申が必要
>>77 名前:日本@名無史さん 2019/08/20(火) 08:09:15
>畿内説石野船長「南→東と読み替えて、不弥国から東に進み投馬国(出雲)を目指そう! 次は女王卑弥呼の纏向だw 全速前進!」
>畿内説寺澤機関長「順風満帆!やはりこちらが正しかったですねw 天も我々を祝福しているかのようですw 九州説の警告なんて無視して良かったw」
>畿内説橋本航海士「我々の進行方向&左右両舷をすっぽり取り囲むような三日月形の巨大な氷山脈発見!!!→)」
うちの可愛ゆいモモソちゃんを、糸島中学校代用教員上がりの原田大六如きに取られてなるものか、
と喘息前進した結果がこの始末。
今、畿内の凡考古学者だけに通用するから「畿内説」という・・・。
>>365 >ウソ
>文化財保護審議会への諮問と文部科学大臣への答申が必要
だから、その手順は、結婚式や葬式のように決まりきった形式というものだ。
>>360 これって2000年前で10°以上、3000年前なら15℃以上ズレてたってことでええんかな?
どっち向きにズレてたんかが次の興味やな。
現代天文学ってことはたぶん演繹的に求められたもんなんやろな。
まだ、アインシュタインが特殊相対性理論発表したばかりの頃の状況と同じだと思うから、
過去文献等とも一致すれば一応証明されたことになるかな。
360°を24等分してるから、1本当り15°のはずかな。
>>313 三角縁神獣境の年号をそのまま信じる者は畿内説派にすら少ない
基本的に画紋帯神獣境は三角縁神獣境より後の古墳に見られる
しかも4世紀が中心で、5世紀からも出土する
考古学の大原則として遺跡の年代の比定は一番新しい遺物の年代により決定される
それは布留式土器であり、画紋帯神獣境であり、小枝試料である
>>368 2万6000年で元に戻るので、其の半分の1万3000年では、
場所は少しずれるが、およそ北斗七星の右端星(一番)から左端星(七番)まで行くくらいの移動量になる。
>>360 それは暴論
90度もずらして良い道理はない
ただ四方位で表現する時は東南や北西などの微妙な角度の時に、方位の計測方法により、東と表現するか南と表現するかがズレるということ
夏至日の出位置なら30度、時計回りにずれる
2000年前の北極星基準なら27度、反時計回りにずれる
Googleearthやケータイのマップアプリで30度地図を回してみたら良い
時計回りに30度ずらした場合
韓国南岸から、対馬壱岐は南になり、済州島は西になる
唐津から糸は東南になる
会稽山から東は日本列島になる
>>336 壱岐から伊都に移動するのが最短ルートであろう
但し壱岐から唐津経由で伊都に行った魏使もおり地理説明的につなぎ合わせただけの話
倭人伝の行程記事は目的地、方角、里数の書き順から複数の報告をまとめたものであるのは有力であり有名な話
90度ずれるなんて言ってない
30度ずれりゃ十分
それよりも『旧広瀬座』なんだよな・・・、
なぜ保存されているんだと思う?
よく、そこ(旧広瀬座)に行き、芝居などを観ていたと言っていたり、
どういう事なんだろう、疎開したときも・・・とか
>>376 三角縁神獣境の年号は広く信用されてる
画紋帯の新しいものはだいたい踏み返し
ホケノ山から布留式土器など出ていない
副葬品でもない小枝など墓室に入っている方がおかしいと誰もが考えている
おかしな話ばかりでしょ、
家は軍人、警官でもないとか
でも何かの制服を着ていたり、
あの子供の話
謎の民家園
行事というところを読んでみて、
ほとんど老婆談と同じ
蚕を飼い、機織りをしている人があり、
七夕でしょ?
あと稲(いなり?)を祀っていたとか
>>373 魏志倭人伝は科学的にも興味深い話だよね。
仮に当時方位磁石があったとして、
現代の地磁気北極は自転軸から10°西経の方にズレて
グリーンランドとカナダの間くらいにあるみたいだけど、
ひょっとすると2000~3000年前にモスクワの方に30°くらいズレてたんかもしれないし。
あと、おつきみw
『かっぱっぱー』と同じ、なぜだと思う?
『龍宮 輿 寒いな~』
つーちゃんの話ではないんだけど、
寒いな~・・・は「むかーしの中国の人なんだろうと言っている人がいたり、
なぜか、いまの福島県
キュウリのような葉、葱の華・・・・・・・・・w
稲(田)が保存されている、その家の写真なんだけど、
本当に、おかしな話ばかりでしょ
上の名前の読み方も何やら~言っていたり、親戚の家なのかな
桃の何やら(節句)~もあるでしょ、
もしかして先生のような人がいたのかな、
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~東北地方のほうまで行ったとか
>>364 >有史以来の北極星のずれは、およそ満月の大きさの範囲内のズレと思えばよい。
>萬天の夜空の大きさからすれば微々たるもの。
それはちょっと嘘に入るな
「北極星と天の北極との距離が満月の直径くらい」というのは現代での話
有史以来とすると、エジプトなんかだと紀元前3000年くらいになるから
現在の天の北極から26度くらいずれてる
月の視直径が30秒=0.5度くらいだから、それと比べればかなり大きい
2000年前で、10度ちょっとのずれ
まあ、これくらいだと今の北極星が、北極星として役に立つけどね
496
>>145 >女王の都するところ=邪馬台国」の産物
そうだよ、その女王の都が保津、都村のある大和の田原本の事だけどね。
鏡作神社に勾玉作りの場所もこの近所だよw <
「南≠東」などに拠って×。
496
>>147 >はっきり言ってしまうと、マクワシ姫は台与。
崇神の后になる人物だが百襲とは別人。
百襲はあくまで大物主と神婚した人物で後ろ盾 な存在、卑弥呼の事。<
「南≠東」などに拠って、×。
>>368 >どっち向きにズレてたんかが次の興味やな。
>現代天文学ってことはたぶん演繹的に求められたもんなんやろな。
ちょっと誤解してるんじゃないかな?
これは、地軸の際差運動によって地軸の延長線が
天球上で指す位置がずれるってことであって、
「地上の東西南北は一切変化しない」よ?
北極星が10度ずれたからといって、地上の北が10度ずれるなんてことはない
>>368 >過去文献等とも一致すれば一応証明されたことになるかな。
>>387の「現在の天の北極から26度くらいずれてる」のところにある星が
りゅう座のトゥバーンという星なんだが、メソポタミアの記録ではこの星が
北極星とされている
証明もくそもなく、現代科学の計算はこの手のことはきちんと正確だよ
>>373 そんなことは言ってない
>>390を参照のこと
これ、前も言ってる人がいたけど、
夏至の日の出で東が30度ずれるって言うが、
夏至の日の入で西も30度ずれるんだぞww
夜明けと日暮れで、60度ずれるってことになるぞw
南北の向きが夏と冬で変わってたまるかよww
>>387 まあ、
>>347 に示した天の北極の移動は
Wikipediaによると歳差運動によるものらしいからな。
この歳差運動をどうやって求めたのかは知らないが、
この図に示す天の北極から実際の天の北極がズレてれば、
たぶんそれが自転軸のズレということになるんだろうけど。
>>390 ごめん。ちょっととぼけたレスが続いてたから、こっちもちょっととぼけただけ。
>>375 >但し壱岐から唐津経由で伊都に行った魏使もおり地理説明的につなぎ合わせただけの話
いないよww
その時代、入国管理は伊都国の一大率が行うんだから、唐津に行く用事はない
唐津上陸から東南陸行五百里は、吉野ヶ里方面に抜けるルートとしては合理的だ
目的地の異なる地誌情報が、ごっちゃになって混同したままつながれてしまう程度に
陳寿の倭国に対する知識は貧弱で乏しかったということだよ
あと、とあるスレで『座敷童子』の話をしている人がいたんだけど、
ほとんど同じでしょ?関係している家とか
>>390 >>347 までレス遡って、要はそれ以後は無視してくれればいいんだよ。
>>394 それはそれとしてだ
問題は、
>>390が言うように、地上から見た時の天の北極と北極星のズレの角度の26000年間の変化なんだが。
>>399 >>393 を読んどいてくれればいい。
ただ、思い付きで書いただけで、深く科学的に吟味したわけじゃないけど。
謎の写真
葱の華のほうに写っている子供、
おかっぱ頭じゃなかった?母親だという人に抱かれている子供、
老婆が言うには2、3歳くらい?だと言っていたし
龍宮~寒いな~?の写真なのかな、
その家の子供、一人は、おかっぱ頭
このスレではないところに、
貼り付けたことがあるんだけど
抱かれているほうの子供は、おかっぱ頭、
葱の華のほうに写っている
『葱の華』が写っていたでしょw
母親だという人に抱かれている子供・・・・・・『おかっぱ頭』
母親だけ、椅子に座っている
何かの制服を着ているのは兄だと言っているし、
龍宮~寒いな~・・・の家、ホンモノなのかな?
科学的な正しい知識・認識があれば、どこがおかしいか具体的に指摘して修正ができる
自然科学だけでなく、人文科学においても科学的な正しい知識・認識があれば、
どこがおかしいか具体的に指摘できるんだよなww
九州説に「どこがどうおかしいのか」「具体的に指摘してくれ」と言っても
返事は返ってこないww
wiki『座敷童』?ではないと思うんだけど、
ほとんど合致しているような気がする
>>392 https://katekyo.mynavi.jp/juken/6722 頭悪いんか?
理解できた?
>>395 吉野ヶ里に行く用事も不明だし、吉野ヶ里に行ったとすることも根拠不明だよな
普通に緯度が30度ずれてるから唐津伊都が南東
天候不順か倭地の調査か何らかの理由で唐津によっただけ
それを言い出したら伊都国以外に寄る必要もない
畿内説は経由した国もろくに書いてないしな
>>407 妄想炸裂させるだけでろくな根拠を示さないキナイコシにそんなこと言われてもwww
>>407 指摘すると返事が返ってこないか話そらして逃げるよな?
『福島民家園 年中行事』
人形なども飾られていたり、座敷わらし?ではないと思うんだけど
>>409 >頭悪いんか?
>理解できた?
頭悪くて理解できてないのは
>>409だよ?ww
なぜ夏至の「夜明け」で東を決めて、それを基準に西南北までずらすんだ?
夏至の「夕日」で西を判断する方が楽だろ?
それを基準にしたら、
>>409の想定と真逆に30度回るんだぞ?
理解できるか?ww
>吉野ヶ里に行く用事も不明だし、吉野ヶ里に行ったとすることも根拠不明だよな
考古学的に唐津平野の遺跡が栄えている期間と吉野ヶ里遺跡の盛期がほぼ重なる
これまでにも何度か言及されているけれど、吉野ヶ里遺跡近くに米多郷の地名があり
先代旧事本紀にも筑紫米多国造も記されている
米多の読みは「メタ」
この「米多・メタ」が、倭面土国王の「面土」の読みと通底するとみなせば
西暦107年の倭面土国王帥升は吉野ヶ里の王ということになり、そこに行く用事は
当然に倭面土国王との修交となる
そして、この西暦107年というのは唐津の弥生王墓、吉野ヶ里遺跡の盛時とも一致する
十分だろ
>>409 >天候不順か倭地の調査か何らかの理由で唐津によっただけ
>それを言い出したら伊都国以外に寄る必要もない
実際寄ってるのは、伊都国、奴国、投馬国、邪馬台国だろ
末盧国は官名が書かれていないし、
不彌国は奴国から東に行くとあるよと書いてあるだけ
天候不順だったら、わざわざ海の上に長くいる唐津まで行く必要がないww
少しはものを具体的に考えなさいww
>>410、
>>411 ミラーリング乙ww
こういう「根拠も理由もない一言コメント」が九州説の典型だよなw
>>409 >普通に緯度が30度ずれてるから唐津伊都が南東
ひとつ聞いていいか
「正気なのか」と
奥山氏は、頭が悪いな。。。
3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290 解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割~8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://2chb.net/r/history/1556294803/303 >>409 >畿内説は経由した国もろくに書いてないしな
意味不明
畿内説の本を読んだり
畿内説の人の話を聞いたり
したこと、ある?
邪馬台国畿内説のスレッドに、嘘だらけのテンプレートを、貼り付けている、3つの独立の根拠があれば、そこが邪馬台国だという、自称ベイジアンの発表した意見のどこがおかしいか発表します。。。
真実のロシアのルーレットの思考の実験を読めば、普通の頭の者なら、理解できます。。。
架空の世界に、12丁の、色の違う、4発発射できる、回転式の架空の拳銃を使ってルーレットをする架空の会場が、開場しました、、
赤の拳銃、緑の拳銃、青の拳銃、そして、その他の9色の拳銃が用意され、どちらが運が良いか決定しようとしている、架空の奥山氏と、架空の類奥山氏が、入場しました、、
緑と青、そして、その他の赤以外の9色の架空の拳銃の専用の弾は、的を死体にはしないで、本体と同じ色をつける、絵の具の弾です、
赤の架空の拳銃は、的を死体にする専用の弾を、発射します、、
ルールがありますが、不公平です、、
架空の奥山氏は、どの色の拳銃を使用するときにも、空にしたあと弾を3発込めて、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
架空の類奥山氏は、奥山氏の頭に色が付かなかった時は、その色の拳銃を使用するときには、弾を4発込めて、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
架空の類奥山氏は、架空の奥山氏の頭に色が付いた時は、空にしたあと、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
拳銃は、奥山氏から初めて互いに交互に、緑、青、その他の赤以外の9色、最後に赤と撃ちます。
最後に生きている方には、架空の睡眠銃で睡眠弾が発射されます。。
架空の生物にはクマモンという着ぐるみを、死体には、、巻きぴょん、、という着ぐるみを装着させます。。。
拳銃の数を知らない、奈良の小汚い自称考古学者が出現し、巻きぴょんの中身だけを調べました。。。
巻きぴょんの頭部が、緑と青と赤だけで着色されていたら、それが奥山氏の確率は、ベジタリアンとベジタリアンでは無い者では、それぞれ、どのような、計算結果になるでしょうか、、、
架空のロシアの会場の巻きぴょんの頭部が、緑と青と赤だけで着色されていることで、奥山氏かどうかを判定することは、つまり、着色の可能性の全体を無視して、緑と青と赤という要素だけで、全体を予想する、、、
という、破綻した要素還元主義が前提になっているのだったな。。。
>>415 呼子も末盧国の範囲だろう
箱式石棺もあるし3世紀前半の遺跡がある
ここに仕方なく上陸した可能性は十二分にある
>>413 対馬海峡は夏の日が長い時期にしか渡るのは難しいというのは知ってるな
1日の始まりに方角を見て海を渡るのは当然、ゆえにそこで方角が決定される
実際に夕日で判断していないから30度反時計回りにずれてないのだ
馬鹿だからわからないんだろうが方法が逆なんだよねえ
草生やして必死なところがまた恥ずかしい
>>419 あるよ
隋書にあれだけ細かく書かれてる秦王国から"東"の経由国が書かれてないことが畿内説は理解できてないよね?
投馬国から大和まで国ないの?
8世紀の郡や国でももっとあるよ?
邪馬台国畿内説が前提にしていた、唯物論や要素還元主義が、他の多くの分野で破綻してしまい、
魏志倭人伝時代についての討論をするまでもなく、 邪馬台国畿内説も自動的に破綻してしまったので、
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する、朝鮮人の奥山氏は、、、
邪馬台国畿内説が破綻した唯物論や破綻した要素還元主義反論を前提にしていた、、、
という真実の指摘への反論を完全に諦め、スレッドに出現しても、意味がよくわからないことや嘘しか発表しなくなったことが、
このレベルの低いスレッドの、益々の低レベル化を進行させてしまっているのではないのかな。。
僕達が笑いリラックスするためにアプローチしている、このレベルの低い、5ちゃんねるのサクラのプロ固定が作製したスレッドとは全く異次元の、 たくさんの分野のレベルの高い学者達が集う、
魏志倭人伝時代の真実について、僕達か僕達の論敵のどちらの頭がカラフルになるかを賭けて、
お互いに、不敵な笑みを浮かべながら、 闘っている討論会では、
破綻した非科学的な唯物論や破綻した非科学的な要素還元主義を、お互いに掲げることなしに、正々堂々の討論を闘っているので、
魏志倭人伝に全く記録はされていない土器や時代の異なる前方後円墳ではなく、
鉄鏃や、人民の住居や、ベンガラや、空気シャワーの効果や、方角や、距離や、夏の時代の考古学的に判明している会稽の位置や、魏志倭人伝時代の倭人の太い骨や、
萬二千里の事で奥山氏も頼みにしている淮南子を規定している一寸千里の法を材料にして、討論が進行し、
卑弥呼の城が日本の何処にあったかの討論から、卑弥呼の城が九州の何処にあったかの討論に、話題が移り変わってきたのだったな。。。
>>421 >箱式石棺もあるし3世紀前半の遺跡がある
なんという遺跡?
>>409 行くときだけしか考えない典型的な片道切符あたま
東が北方向に30度ずれていたというのなら、その時は西も北方向に30度ずれてる。
つまり行きと帰りの方角が180度反対でなく、西は東の120度反対方向になる。
まやかしというより、基礎が理解できていない落第生。
>>427 バカだなあ
だから基準を日の出にしたんだろ?
当時の人間ももちろんそれは理解しているから、基準は統一する
少なくとも同じ人間ならそうする
そうじゃなければどうやって方位計るんだと
同じ人が同じ旅で基準を2つも設けるアホおるの?
君ぐらいちゃう?
>>421 >1日の始まりに方角を見て海を渡るのは当然、ゆえにそこで方角が決定される
そんな必要ないよ
壹岐から呼子は28キロしかないから
僕達が笑いリラックスするためにアプローチしている、このレベルの低い、5ちゃんねるのサクラのプロ固定が作製したスレッドでは、今、方角についての討論が進行している可能性が高いな。。。
>>421 畿内説が行程論に横車介入を始めたか、、。
日之出を見て渡るのではなく、潮を見て渡るのだ。
帯方郡の役人も地元の倭住民も何度となく渡海往復しているのに、毎回同じように方角を間違えるものか、アホくさー。、
wiki『座敷わらし』と民家園の写真、なぜか合致しているでしょ?
臼、小豆?、土間・・・、何かの人形、お盆・・・、・・・、・・・、
芸能関係・・・、・・・、屋敷神・・・、・・・。
海の上を1日ではなく、何十日も移動するときには、方角は間違われないのではないのかな。。。
>>407 >九州説に「どこがどうおかしいのか」「具体的に指摘してくれ」と言っても
>返事は返ってこない
キナイコシも返事してないレス結構あるけどな
あと普通の人はキナイコシと違って5chへのスレ立てと書き込みで生計立てているわけじゃないから、
ずっとスレに張り付いているのは無理なんだが
お前みたいにバイト料もらって書き込みしているわけじゃない
>>409
>普通に緯度が30度ずれてるから唐津伊都が南東
緯度ってww
方角と緯度の区別もつかないのか? このスカポンタンは?ww
たとえば札幌から緯度が30度ずれるとちょうどグアム島ぐらいだな
札幌 43° 3′ 43.5″ N
グアム島13° 27′ 0″ N >>434 何十日も、東に向かっていれば、南とは認識しないな。。。
>>435 >キナイコシも返事してないレス結構あるけどな
訊かれたことには大体答えてるよ
キナイコシじゃないけどww
でも、九州説は一切答えないだろ?
特に「具体的に答えてね」にはほぼ絶対に答えないww
>>429 よしよし、
畿内説大事の余り、3世紀を見てきたようなことを云うのはそのくらいにしておけ。
渡海していたのは魏の遣いだけではない。地元住民も日常から南北に航海するほど、方角には長けていたのだ。
>>421 >対馬海峡は夏の日が長い時期にしか渡るのは難しいというのは知ってるな
>1日の始まりに方角を見て海を渡るのは当然、ゆえにそこで方角が決定される
>実際に夕日で判断していないから30度反時計回りにずれてないのだ
でも、その対馬で暮らす人にとっては、一年中住んでるんだから、
南の向きは夏の日の出に拘束されないだろ?
いつも、「案内人に方角を聞いた」とか九州説は言ってるくせにww
夏至の日の出理論は、夏至の日の入で否定されるんだよ
伊都国の人は、夏至の日の入を意識していたのは確実
平原遺跡は、三雲南小路遺跡から見て夏至の日の入方向にある
さらにその先には伊都富士、可也山がある
これだけ暦と方角をきちんと把握しているのに、夏の間は方角が30度回るとか大笑い
遅刻の下っ端バイトが必死カキコ
おい、もっと派手なトンデモを書かないと、相手にしてもらえないぞwwww
>>436 揚げ足とりだけは流石だな
そこでしか勝てないからといって張り切るところをまちがえてるぞ
>>421 >呼子も末盧国の範囲だろう
>箱式石棺もあるし3世紀前半の遺跡がある
>ここに仕方なく上陸した可能性は十二分にある
現代の面積を持った行政区とは違うんだからさww
弥生時代の国は利水治水の共同体だから、飛び地なんてないよ
>>422 >あるよ
そうは見えないが
誰の本とかよんだ?
>隋書にあれだけ細かく書かれてる秦王国から"東"の経由国が書かれてないことが畿内説は理解できてないよね?
また意味不明なこと言ってるが、自分の考えがまとめられないの?
>投馬国から大和まで国ないの?
なくて何か問題があるの?
ないよね
>>421 >ここに仕方なく上陸した可能性は十二分にある
天候が悪い時にたまたま上陸したような場所で
末盧国を代表させる必要はどこにもないよな?ww
少しはものごとを具体的に考えなよww
>>429 >当時の人間ももちろんそれは理解しているから、基準は統一する
だよな?
だから、その土地の人が一年を通して使っている方角に統一するのが当然だよな?ww
どうして、夏の一時期の日の出方向で統一しなきゃいけないんだ?ww
>>432 >畿内説が行程論に横車介入を始めたか、、。
>日之出を見て渡るのではなく、潮を見て渡るのだ。
日の出を見て渡るって言ってるのは九州説だよ?ww
つ
>>421 「1日の始まりに方角を見て海を渡るのは当然、ゆえにそこで方角が決定される」
「、、。 」を使うのは、佐賀川上バカでいいのかな?
部屋に凄い刀が飾ってあったという話でしょ?
それで・・・畳、床下の土まで掘り起こされていたという話とか
何の話なんだろう
>>440 対馬は目視できるんだから船頭に聞くまでもない
まあ南南東ぐらいだし30度ずらさなくても南だ
問題は計測したのは誰かと言うこと
隋書では対馬の東に壱岐がある
春三月に百済南部を経由して日本に渡っている
現在でいうところの一月ぐらいか、冬至とは離れるが反時計回りに25度ずらすと東と言ってもいいだろう
史書の方位の間違いを方法論の違い以外にどう説明するのかと
まあこいつは方位がむちゃくちゃな方がいいんだから探りたくもないだろう
いい加減で思考停止して終わり
南が東にずれようが、南が北にずれることはないのだ
>>442 >揚げ足とりだけは流石だな
揚げ足取りってwww(愕然)
緯度と方角って、まったく異なる概念だから、
ついうっかりで書き間違うなんてことは、まともな知性のある人間ならまずないぞww
間違うのは、キウス・ザラゴキ級のうっかりさんだww
>>443 呼子にも唐津にも遺跡はあるな?
じゃあ呼子は何国か?
糸島周辺には数十もの遺跡があるのは知ってるな?
>>450 >問題は計測したのは誰かと言うこと
「案内人に聞くから間違えない」って言ってるのは九州説だよww
まさか・・・(親戚の某)頭が良いんじゃないのか?
となるでしょ
wikiなどの話と、ほとんど同じ
>>448 >日の出を見て渡るって言ってるのは九州説だよ?ww
そう
明らかにオツム足んない奴
庶民でもそこそこ天文知識のある古代中国人が
夏の日の出を真東ではないと知らないとか
おかしな妄想してる
>>452 >呼子にも唐津にも遺跡はあるな?
唐津には弥生王墓とされるクラスの厚葬墓がある
また、千々賀遺跡等の集落遺跡もある
ただ、墓があったというのとは異なる
>じゃあ呼子は何国か?
特に国扱いされていない場所だよ
国境線ですべての土地が仕切られているような時代じゃないんだから
>>450 >隋書では対馬の東に壱岐がある
隋書あたりの時代が下った史書でも、この程度に方角はいい加減
これを「魏志倭人伝の方角は絶対に正しいにだ 邪馬台国は南で東じゃないんだ」って
意味もなく言い張ってるのが九州説ww
>>444 石野博信、寺澤薫、春成秀爾、小林行雄
あと共著の本も読んだが、他の著者の名前は覚えていない
長い距離移動すると当然経由する国が多くなる
隋の時代でも下関から大和まで数カ国経由している
使役通じる国だけでも三十国もあった魏史倭人伝の時代ですらそれがないのはおかしい
>>447 その土地の人って経由した国で基準変わるよな?
アホなんか?
ぐるぐる回ったりしてどうしてもわからないなら聞くしかないが、自分らで計れるなら自分らで計るわ
いつ覗いても、邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人が、論破されているね。。。
>>457 なぜいい加減で片付けるのか?
別になんとなくで決めてるわけでもないだろう
ところで邪馬台国=奈良の論文は?
弥生時代開始は紀元前1000年前にさかのぼるの?
卑弥呼はモモソヒメなの?
崇神天皇は?トヨは?
邪馬台国と大和朝廷との関係は?
>>450 >史書の方位の間違いを方法論の違い以外にどう説明するのかと
無能者特有の決め付けだな
思い込みばかりが強く、知識がない
説明などいくらでもあるだろう
>>461 では説明してみろ
それを放棄していい加減ですます
当時道間違えたら遭難して死ぬ可能性すらあるのにいい加減に方位決めるかよ
頭が悪いことがバレるだけの結果になるので、邪馬台国=奈良の論文は、発表しない方が良いのではないのかな。。。
>>450 >南が東にずれようが、南が北にずれることはないのだ
これが根拠ないよね?ww
出発前のばたばたしているときよりも、到着して余裕のあるときの方が
むしろ方角を確認しやすいだろ?ww
>史書の方位の間違いを方法論の違い以外にどう説明するのかと
前に説明しただろ?
水行部分は、海岸沿いに進んだ(船がくるくるするから)とだけ書いてあって
方角の記載はなかった
それを陳寿が、
「倭地を南北に長い列島だと認識していたから長距離移動は南向きだ」と合理的に判断した
プラス
「最後の陸行が南向きだから同じ目的地に向かう水行も南とされた」
くらいで説明としては十分だろう
>>458 >その土地の人って経由した国で基準変わるよな?
はあ?
福岡の北と、下関の北は、基準が異なるって言うのか?
少し前で北極星の話が出ていたが、その土地に住んでいる人は
夜ごとに北極星を自分の家から見られるんだぞ?
どうやったら土地ごとに違う基準の方角っていう発想が出てくるんだ
>>464 それはお前の感想だ
実際に30度時計回りにずれてるという結果から導き出した過程だ
反時計回りにずれてたら日の入りで確認したと俺は言うだろう
こいつは順序が逆なんだよねえ
30度時計回りにずれてることの説明なんだからさ
お前は感想しかないからなあ
だからいつも負けるんだよ
陳寿がそう判断したと根拠もないけど思ってますしかない
だから俺は遺物や統計で判断しようと言っても、畿内説学者が多いからーで逃げるからな
そこでここ最近で邪馬台国=奈良の論文書いた学者は誰か聞いても教えてくれない
>>465 お前方角ってどうやって計るの?
方位磁針と地図アプリはなしね
北極星は古代の日本では北指してないよ?
>>460 >ところで邪馬台国=奈良の論文は?
そんな論文ではオリジナリティがないから論文として通らないって何度も教えてるだろ?
過去30年くらいの古代史の論文はどの分野でも邪馬台国・畿内は当然の前提として書かれている
論文中の図も、こんな感じがデフォルト
>>466 >実際に30度時計回りにずれてるという結果から導き出した過程だ
これが根拠がないww
「30度すれてる」で済ませられるのは、3海峡渡海の部分だけ
でも、その部分に関しては、
>>450で自ら書いているように
「対馬は目視できるんだから船頭に聞くまでもない」し、
夏至の夜明けに拘束されず一年中見えているんだから、30度すれる理由はない
もちろん対馬ー壱岐間、壱岐ー東松浦半島間も、目視できる
そして、三海峡渡海を除くと、現実の地理と魏志倭人伝の方角が
「30度ずれている部分は一箇所もない」んだよww
こうして具体論に入ると常にその瞬間に否定されてしまうのが九州説の戯言ww
>>467 >北極星は古代の日本では北指してないよ?
指してるよ
どこまでバカなんだ?
>>460 >ところで邪馬台国=奈良の論文は?
逆に、邪馬台国・畿内説以外の立ち位置で書かれている査読付き専門誌の論文を
過去30年で1報でいいから紹介してくれよ
あることを示すのは悪魔の証明じゃないから、一つ実例を挙げれば済むぞ
さあ、がんばれ!
銀□という親戚もいて~・・・歌舞伎が何やらと言っていたし、
その人なのかな?本当は頭が良いとか
どういうことなんだろう
いつ覗いても、邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人が、論破されているね。。。
龍宮~?・・・・・・・・髪の毛が『浦島太郎』(仮名)
>>467 >お前方角ってどうやって計るの?
九州説の大好きな周髀算経に丁寧に書いてあるよ
立正勾定之。以日始出,立表而識其晷。日入,復識其晷。
晷之兩端相直者,正東西也。中折之指表者,正南北也。
これは、夏至に限らずいつでもできる
まあ、丸一日かかるけどね
どうして九州説の人は、けちょんけちょんにされるのが決まっているのに
畿内説スレにでたらめを書きに来るんだろう?
今日も、頭の悪い朝鮮人が宣伝している邪馬台国畿内説が、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に、叩き潰されてしまった。。。
>>468 え?ヤマト朝廷ちがうのこれ?
邪馬台国どこ?
>>469 済州島が西
唐津?から糸島が南東
これでええんちゃう?
>>470 ほ~ん
https://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2013/06/20130601-1.html はい論破
>>471 逆にじゃないぞ?
お前が貼るんだ
なぜなら俺は現在の邪馬台国論争は学術とは遠いところに位置してると思ってるからな
なぜなら一切証拠がないから
その中で学者が多いからと畿内説の優位を主張するのなら論文貼れというだけの話
>>475 そんなこと知ってるよほぼ同時にURL貼ったよ
それ倭人の村の人知ってんのかって話
>>462 いくらだって可能性がある
現地に行ったことのない人間が又聞きの話を文章にした可能性
軍事機密などの関係で欺瞞情報を一般公開した可能性
翻訳ミスの可能性
マジで間違えてる可能性
おかしな宇宙観を持った人間が書いてる可能性
いくらだって説明がつく
そして否定できる材料は無い
しかし確かなのは、間違ってるという事実だけだ
>>478 >なぜなら一切証拠がないから
ほらまた、悪魔の証明w
496
>>220 >ばかですか 「九州」なんてドンブリ勘定じゃなくて
比定地ごとに分けてみな 畿内説にまるで勝てないから <
ばかですか
「倭國」や「女王國」の範囲は、ほぼ「九州島付近」だし、
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙しのなんてドンブリ勘定だし、
「南≠東」などで、九州説にまるで勝てないから
>>478 >え?ヤマト朝廷ちがうのこれ?
「3世紀に大和朝廷なんてない」っていうのが九州説の言い分だろ?
「3世紀世界の倭国秩序の中心がヤマト」にあるんだよ
>邪馬台国どこ?
邪馬台国=「3世紀世界の倭国秩序の中心」だよ
>>478 ずいぶんトーンダウンしたなww
>済州島が西
済州島なんて魏志倭人伝には出てきません
>唐津?から糸島が南東
唐津から糸島は北東
どうやっても30度ずれてるってことにはならない
>これでええんちゃう?
いい訳ないだろ?
でたらめでダメダメじゃんw
つまり九州説は具体論では何一つ語れないってことだ
>>481 その可能性を追求するのが大事なんだろ
間違いに一定の法則があるならそれを解明する
可能性が限りなく低い説は切り捨てる
より説得力のある説を探すのが普通だ
>>482 なら邪馬台国の証拠出して見ろよ
証拠あるならもう論争終わってるわ
>>484 だからそれをはっきり言ってる論文は?
はっきり言うとアホかこいつと思われるからちゃんとした論文では言及せずに
別の著書や新聞発表とかでは邪馬台国邪馬台国口うるさく言うんでしょ?
496
>>222 >九州説の中で古田説は過半数票とれる自信ある?<
古田説は、女王國本体はほぼ九州島付近説であり、
別種分家の倭種を含めれば、狗邪韓国~九州~瀬戸内~近畿~関東、の広域説だよ。
>取れないと畿内説に負けるんだよ<
畿内なんて存在もしなかった嘘つきアホ説だよ。
>>478 この一文だけが頼りなんだろ?
「しかし、古代の日本に、北極星にあたる星は存在しなかったのです。」
北極星という言葉は、日本書紀にも古事記にもないが、
>>478の示した文と
同じ奈良文化財研究所の別のページにはきちんとこう書いてあるぞ
「キトラ天文図は、図の中央が天の北極にあたり、そこにはその名も
「北極」という名の中国星座が描かれています」
https://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2018/03/20180315.html 北極、あるねぇww
>>485 東夷伝には済州島でてくるが?
呼子から糸島は南東
唐津市桜の馬場遺跡から30度ずらしたら南よりの東だ
唐津と言ったが2世紀末に甕棺から箱式石棺墓に九州の墓制が移る中で、
旧松浦郡の範囲における箱式石棺墓の出土地は呼子だ
3世紀前半という特定時期において、末盧国の中心地は呼子であろう
496
>>224 >短里なんてない 秦の始皇帝の度量衡の統一から400年経ってるのに、
地方に古い単位が残ってるとかいう設定が最初から無理<
短里を知っている人は20世紀以降の日本にしかいない
短里を知っている人も、短里を使う理由のある人も 3世紀世界にはどこにもいないし一人たりともいない
九州上陸まで一萬里、女王国まで萬二千里という設定値があるだけ
九州上陸までの一萬里は、万里の修交という修辞がそのまま距離に設定されたもので
女王国までの萬二千里は、淮南子に見られる世界の果てまでの距離を援用し、
倭国をより遠く見せ、晋の高祖司馬懿の公孫氏討伐をより大きな功績とするため
九州説のいう行程で一里の長さを考えるとデタラメであることがすぐに分かる<
決定的なのは、
魏の役人たちが、皇帝への報告に計測もしないで嘘つき騙しの里数を報告する筈がない、
という人類の常識的な史料実態が根拠。
邪馬台国畿内説が前提にしていた、唯物論や要素還元主義が、他の多くの分野で破綻してしまい、
魏志倭人伝時代についての討論をするまでもなく、 邪馬台国畿内説も自動的に破綻してしまったので、
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する、朝鮮人の奥山氏は、、、
邪馬台国畿内説が破綻した唯物論や破綻した要素還元主義反論を前提にしていた、、、
という真実の指摘への反論を完全に諦め、スレッドに出現しても、意味がよくわからないことや嘘しか発表しなくなったことが、
このレベルの低いスレッドの、益々の低レベル化を進行させてしまっているのではないのかな。。
>>479 >それ倭人の村の人知ってんのかって話
倭人の村の人は、日が昇るのが東で、日が沈むのが西で、
その90度方向が南北って知ってるよww
周髀算經に載っているのは、当時の技術でできるだけ精度を出す方法であって、
東西南北はその場所で暮らしている人にとっては、基本的に常識
夏至だから30度ずれるとかいうのは「デタラメ」ww
>>488 え~と
キトラ天文図のこと何も知らないんだろ?
あれ実際の天文図じゃないんだよ?それぐらい知ってるよね?
しかもその北極って北極5星の話で北極星じゃないよ
当然日本じゃ真北をささない
>>478 >なぜなら俺は現在の邪馬台国論争は学術とは遠いところに位置してると思ってるからな
はいまた「理由は僕がそう思ったから」w、いただきましたww
>なぜなら一切証拠がないから
証拠がないと「僕がそう思っている」んでしょww
客観証拠はたくさんあるのに、それを主観的に「認めない」って言ってるだけww
九州説はこんなのばっかりww
>>492 で日が昇る位置は夏と冬で60度ちがうでしょ?
基準を決めとかないと一致した見解は得られないよね?
>>494 客観的な証拠とその証拠を用いた論文は?
なぜ客観的な証拠があるのに確定してないの?
何で橿原考古研内部だけでも論争あるの?
>>486 >その可能性を追求するのが大事なんだろ
>間違いに一定の法則があるならそれを解明する
その「一定の法則」とやらがあるなら「具体的に根拠とともに示して」ね!って
何度訊いても九州説は逃げるんだが?ww
そして、
>>466の「実際に30度時計回りにずれてるという結果」っていうのは
>>469で端から端まで否定されている
無能の相手は面倒くさいw
壱岐の南は長崎の松浦で、松浦の南東は伊万里だったな。。。
そして、人民の住居跡は地下に埋もれてしまうのだったな。。。
496
>>225 >九章算術の巻六均輸の最初の問題で道里が日数で示されている<
陳寿は、道里をきちんと「道の里数」という意味に使っているが、
九章算術は、道里を「日数」で書く、という嘘つき騙しをしているから、
「南→東」などの嘘つき騙しと同じであり、始めから根拠にならない。
>投馬国が戸数道里略載の女王國より以北の国であることは確定
北部九州説は、五万戸の投馬国を女王國より以北に設定できないため壊滅する <
投馬國は、
3海峡の水行が「里数」で書かれているのに、「水行二十日」という「日数」で書かれているから、
魏の役人たちは投馬國までは行っておらず、だから、女王之所都よりも南になる事になり、
「南≠東」などによって、
この男(類スレ主?)の大和説は始めから壊滅する。
>>498 魏志倭人伝の国々は、殆どが地下に埋まっている可能性が高いな。。。
>>497 >>469なんか既に反論して、論破されてるで君?
それに統計や遺物で決めようって言ってるのに聞かないんだからもう
こいつらは自身の行程論はむちゃくちゃだからそもそも文献が信用できないで引き分けに持ち込もうとするからたちがわるい
戸数や国数の比率
出土物の比率
そういった統計や数学的な話はできない
そして年輪年代法や炭素年代測定法の限界(追試されていないこと)を指摘しても認めない
https://www.sciencealert.com/radiocarbon-dating-ancient-levant-region-calibration-inaccuracies 伊万里という地名は、元々は伊都だった可能性が高いね。。。
>>486 >なら邪馬台国の証拠出して見ろよ
畿内様式土器、前方後円墳(纏向型を含む)の分布により
畿内中心の秩序がまだらながらも汎日本列島的に存在していたのは確実
そして、奴国もその秩序に参加している
これは客観的な事実
そして、魏志倭人伝のいう邪馬台国を中心とした倭国の枠組みに
奴国も入っていると書かれている
これも客観的な事実
この「畿内中心の秩序」と「邪馬台国を中心とした倭国の枠組み」が
別のものだと考えるべき理由がない
そして、「邪馬台国を中心とした倭国の枠組み」として奴国に影響を与えた主体が
北部九州には存在しない
これも客観的な事実
これが証拠じゃないという人は、脳の気質的な欠陥があるか、
論理展開に致命的な齟齬があるかのいずれかだ
>証拠あるならもう論争終わってるわ
だから、専門家の間ではもう論争が終わってるんだよ
専門家は証拠(主に編年研究の進展)を認めている
敗残の九州説は、それを「僕チンは認めないんだー」って言ってるだけ
でも認めない理由は「僕がそう考えたから」という主観だけww
僕達が笑いリラックスするためにアプローチしている、このレベルの低い、5ちゃんねるのサクラのプロ固定が作製したスレッドとは全く異次元の、 たくさんの分野のレベルの高い学者達が集う、
魏志倭人伝時代の真実について、僕達か僕達の論敵のどちらの頭がカラフルになるかを賭けて、
お互いに、不敵な笑みを浮かべながら、 闘っている討論会では、
破綻した非科学的な唯物論や破綻した非科学的な要素還元主義を、お互いに掲げることなしに、正々堂々の討論を闘っているので、
魏志倭人伝に全く記録はされていない土器や時代の異なる前方後円墳ではなく、
鉄鏃や、人民の住居や、ベンガラや、空気シャワーの効果や、方角や、距離や、夏の時代の考古学的に判明している会稽の位置や、魏志倭人伝時代の倭人の太い骨や、
萬二千里の事で奥山氏も頼みにしている淮南子を規定している一寸千里の法を材料にして、討論が進行し、
卑弥呼の城が日本の何処にあったかの討論から、卑弥呼の城が九州の何処にあったかの討論に、話題が移り変わってきたのだったな。。。
邪馬台国畿内説を宣伝す頭の悪い朝鮮人が、また、九州の前方後円墳が何時出現したかの証拠を示さないまま、頭の悪い者だけが思いつく意見を発表したな。。。
503日本@名無史さん2019/08/21(水) 15:16:07.82
>>486 >なら邪馬台国の証拠出して見ろよ
畿内様式土器、前方後円墳(纏向型を含む)の分布により
畿内中心の秩序がまだらながらも汎日本列島的に存在していたのは確実
そして、奴国もその秩序に参加している
これは客観的な事実
そして、魏志倭人伝のいう邪馬台国を中心とした倭国の枠組みに
奴国も入っていると書かれている
これも客観的な事実
>>489 >東夷伝には済州島でてくるが?
これのことか?
「又有州胡、在馬韓之西海中大島上」
どうやっても、30度時計回りにずれている例にはならないよな?ww
>>505 そうだね。。。
九州の前方後円墳が何時出現したかの証拠がないので、その「畿内中心の秩序」と「邪馬台国を中心とした倭国の枠組み」が 同じ物だと考える理由が無いな。。。
>>503 それが3世紀前半の証拠はなんですか?
そしてそれが邪馬台国のことだとする論文はどれですか?
どこまで言っても争点は年代
それがヤマト朝廷の話なら納得してるんだよ?
熱ルミネッセンス線量計の測定結果やら炭素年代測定法の問題やらを無視して3世紀前半にもってきてるのが問題
今日も、頭の悪い朝鮮人が宣伝している邪馬台国畿内説が、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に、叩き潰されてしまった。。。
>>489 >呼子から糸島は南東
これ、何回ループすれば済むんだ?
呼子にしたところで、まだ伊都国は真東より北側だぞ
それに、呼子にしたら「短里があるんだ」ってのがでたらめになるって
つい最近示しただろうが!ww
渡海千里が陸行五百里の半分以下だぞww
方角は方角で、距離との整合性を一切無視でその場の思いつきで押し切ろうとするから
九州説はでたらめにしかならないww
夏至の夜明け基準で30度ずれてるってのも、現実を見ないデタラメだとはっきりしたなw
>>1に余裕があれば、FAQに入れてもらえるかもよw
>>506 回転させないとどっからどうみても南だよな?
しかしずらせば西と表現できる位置に存在する
>>508 >熱ルミネッセンス線量計の測定結果やら炭素年代測定法の問題やらを無視して3世紀前半にもってきてるのが問題
だから、その「問題」を具体的に指摘してごらんよ
>>493 >しかもその北極って北極5星の話で北極星じゃないよ
>当然日本じゃ真北をささない
やっぱり何も理解していないなww
北極5星に「北極星が含まれる」し、厳密な1度単位の北極を知ろうとする人は
3世紀世界のどこにもいない
北極5星は、常に北の空にあって、けして沈まない星座であり
その「北極」という星座のある方角が常に北だ
星座「北極」の方角が、北なんだよww
僕達の意見では、呼子というのは松浦国ではないのだが、海が荒れている時は上陸地点の選択肢の一つだった可能性もあるな。。。
そして、長崎の松浦市からも、呼子からも、熊本城までは20以上の宿泊地があったのではないのかな。。。
酔っ払いの与太話ばかりで、なーも、有効なレスが見当たらんな、
桜井バイトの小遣い稼ぎ、、、
>>495 >で日が昇る位置は夏と冬で60度ちがうでしょ?
で、夏と冬で、日の出と日の入の場所は連動して動くから、
その90度方向の「南北」は動かないし、「南北」が基準なんだよ
東西は、その90度方向として決められる
場所ごとに、方角の違う基準があるなんてことは、常人は考えない
大笑い
>>458 「その土地の人って経由した国で基準変わるよな? 」
>>511 実際「南」にあるものが「西」と三国志にあるわけだよね
実際「東」にあるものが「南」と三国志に書いてあって
なぜ、いけないの?
邪馬台国畿内説を宣伝している頭の悪い朝鮮人は、「北極点が帯方郡なので、帯方郡から遠ざかるほど南なのだ」という考えを止めたのだな。。。
513日本@名無史さん2019/08/21(水) 15:29:57.63
>>493 >しかもその北極って北極5星の話で北極星じゃないよ
>当然日本じゃ真北をささない
やっぱり何も理解していないなww
北極5星に「北極星が含まれる」し、厳密な1度単位の北極を知ろうとする人は
3世紀世界のどこにもいない
北極5星は、常に北の空にあって、けして沈まない星座であり
その「北極」という星座のある方角が常に北だ
星座「北極」の方角が、北なんだよww
>>501 >既に反論して、論破されてるで君?
どれ?
>>501まで読んできたけど、どこにもまともな反論はないぞww
「具体的に」どれ?
>>515 それはね、キミが九州説にとって致命的な指摘を見ようとしないからだーよ
>>510 だから30度ずらせよ
>>510 勝本→呼子で45km
唐津→三雲で36km
別にこれでええんちゃう?
同じ国内の移動を含める含めないはま
>>512 INTCAL13は地域によって古く年代測定が測定される
植物間の同位体選別比率が確定されたない
様々な古く出る効果が発見されてる
炭素年代測定法を盲信するなら纏向遺跡の年代測定は2世紀中頃の数字が一番確率が高いものがあるのに、3世紀中頃に持ってきてるとかかな
>>513 ある程度北でいいならそれでええんちゃう?
で、3世紀当時そのある程度北で全ての倭人がはかってたの?
日の入りで計る人間は?
笑いリラックスできる、間違い探しの問題になるな。。。
513日本@名無史さん2019/08/21(水) 15:29:57.63
>>493 >しかもその北極って北極5星の話で北極星じゃないよ
>当然日本じゃ真北をささない
やっぱり何も理解していないなww
北極5星に「北極星が含まれる」し、厳密な1度単位の北極を知ろうとする人は
3世紀世界のどこにもいない
北極5星は、常に北の空にあって、けして沈まない星座であり
その「北極」という星座のある方角が常に北だ
星座「北極」の方角が、北なんだよww
>>522 また、何度でも貼り付ければ良いのではないのかな。。。
513日本@名無史さん2019/08/21(水) 15:29:57.63
>>493 >しかもその北極って北極5星の話で北極星じゃないよ
>当然日本じゃ真北をささない
やっぱり何も理解していないなww
北極5星に「北極星が含まれる」し、厳密な1度単位の北極を知ろうとする人は
3世紀世界のどこにもいない
北極5星は、常に北の空にあって、けして沈まない星座であり
その「北極」という星座のある方角が常に北だ
星座「北極」の方角が、北なんだよww
>>519 >>478だよ
老人の相手は疲れるわなあ
何度も聞くけど論文は?
モモソヒメ卑弥呼なの?
崇神天皇はすぐに廃された男王なの?
邪馬台国と大和朝廷の関係は?
記紀でいうと?
夏休みの生徒たちは、間違い探しで、楽しめば良いな。。。
邪馬台国と大和朝廷は古墳と言う同じ文化を発展拡大して利用してる点から考えて連続性に近い関係にある事が伺えr
ただ系譜をそのまま自動的に当てはめてどうのこうの論じてるような学者はいない
寺澤氏などは箸墓は時期を考えると崇神天皇の頃に当たるとは言ってるがその程度
>>521 >INTCAL13は地域によって古く年代測定が測定される
ソースは?
>植物間の同位体選別比率が確定されたない
ソースは?
>様々な古く出る効果が発見されてる
具体的には?
>炭素年代測定法を盲信するなら纏向遺跡の年代測定は2世紀中頃の数字が一番確率が高いものがあるのに、3世紀中頃に持ってきてるとかかな
原理、わかってる?
放射性炭素年代というのは、いわば半減期を使った砂時計方式なんだよ
C14濃度の上昇してる2世紀は砂時計の砂が補充されちゃってるでしょ
時計止まっちゃってるでしょ
だから「2世紀中頃の数字が一番確率が高い」には、ならない
「それ以上新しくならない根拠」として、他の「それ以上古くならない根拠」と掛け合わせて使ってるんだよ
だから3世紀中頃という結果が出てる
畿内の年寄り酔っ払いの与太話と、サクラバイトの小遣い稼ぎのレスばかり・・・、
>>524 >モモソヒメ卑弥呼なの?
>崇神天皇はすぐに廃された男王なの?
記紀の登場人物に当てはめゴッコしない
>邪馬台国と大和朝廷の関係は?
古墳前期に大和朝廷という言葉は使わない
>記紀でいうと?
言わない
何度も同じこと聞く老人の相手は疲れるわ
>>524 >>478は
>>484、
>>485で否定済み
もう九州説は本当に無能
>>524 >何度も聞くけど論文は?
何度も答えてるだろ?
そんな論文ではオリジナリティがないから論文として通らないって何度も教えてる
過去30年くらいの古代史の論文はどの分野でも邪馬台国・畿内は当然の前提として書かれている
論文中の図も、こんな感じがデフォルト
半減期というのは、宇宙線の影響が無視できないことが知られるようになってからは、分厚いコンクリートの中で放射線量を測定し計算し直したので、昔に決められた数値よりも長くなってきたものが多いのだったな。。。
だから、宇宙線量を無視できない自然界では、放射性物質の半減期は、宇宙線の影響のない分厚いコンクリートの中で放射線量を測定し計算された値よりも短いことは、世界的に科学者の常識なのだったな。。。
>>392 >南北の向きが夏と冬で変わってたまるかよww
当時の倭人は季節による変化を考慮せずに、太陽が昇る方を東としたのだろう。
南北を基準にする考え方そのものが後世のものだ。
纒向だって伊都だって、東が大事なんだよ。
日本はそういう国。
今日も、頭の悪い朝鮮人が宣伝している邪馬台国畿内説が、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に、叩き潰されてしまった。。。
>>421 >1日の始まりに方角を見て海を渡るのは当然、ゆえにそこで方角が決定される
そうそう。
倭人は日の出の方向が基準だったのだろう。
纒向や伊都も東を基準にしているからね。
夏なら反時計回りの方向にずれることになる。
>>521 >だから30度ずらせよ
それが根拠がないと何度言えばww
>勝本→呼子で45km
>唐津→三雲で36km
>別にこれでええんちゃう?
だめだよww いい訳ないだろ?
同じ国を別の場所で代表させるような書き方は大陸史書にはない
基本的に地誌記事では国と国との位置関係・距離は中心国邑の間の二点間距離だ
>同じ国内の移動を含める含めないはま
だから、そういうインチキをすると、旅程を足しこんだら総距離になるっていうのも
ありえなくなるんだぞww
九州説の虎の子の「萬二千里は邪馬台国までの総距離」っていうのを、
自らなぶり殺しにすることになる
本当に、九州説ってその場しのぎの思いつきだけでできてるから、
整合性の取れないことばかり言うww
>>430 だからさ、渡海は目視でできるけど、その方角を記録するときは、朝出発する時に夏の日の出の方向を見て、太陽が左にいるから南に向かうのだな(実は南南東)と記録したわけだ。
>>440 >平原遺跡は、三雲南小路遺跡から見て夏至の日の入方向にある
ほう。
日の巫女の亡くなる時には日没の方角を基準にするのか。
これは筋が通っている。
>>444 >>投馬国から大和まで国ないの?
>なくて何か問題があるの?
開き直りwww
>>521 >INTCAL13は地域によって古く年代測定が測定される
それは南半球では海洋溶存CO2の影響が強く出るからであって、
日本付近では南半球ほど影響は大きくない
そして南半球用にMarine13という較正曲線も出されてて、
それを使えばINTCAL13との乖離問題は過剰に解決される
で、Marine13を使っても、古墳時代の始まりの時期の炭素試料は
二世紀後半から三世紀前半という結果にしかならないよ
素人が考えるようなことは、専門家は全部チェック済みww
九州説にできるのは「僕はそう考えないから認めないにだ」って言い続けることだけ
>>538 >だからさ、渡海は目視でできるけど、その方角を記録するときは、朝出発する時に夏の日の出の方向を見て、
>太陽が左にいるから南に向かうのだな(実は南南東)と記録したわけだ。
ただの想像ですねww
>>455 >庶民でもそこそこ天文知識のある古代中国人が
>夏の日の出を真東ではないと知らないとか
知っていても、どうせ目視で渡海するなら南南東と書かずに南と書いても問題はないよ。
>>464 >出発前のばたばたしているときよりも、到着して余裕のあるときの方が
>むしろ方角を確認しやすいだろ?ww
屁理屈。
倭人は日の出の方角を重視した。
これでいいだろ?
>>538 >だからさ、渡海は目視でできるけど、その方角を記録するときは、朝出発する時に夏の日の出の方向を見て、
>太陽が左にいるから南に向かうのだな(実は南南東)と記録したわけだ。
渡海のときは潮待ちもあって、目視できる出発港に何日も魏使様が留まる訳だから、
夜に「北極(星座)」を見て方角を確認できるよね?ww
その方が確実だし
まさか魏使様が「北極」も知らないとか言わないよな?
倭国の夷人じゃないんだしw
どのような較正曲線も、空気シャワーの影響を全く考慮に入れていないのだったね。。。
>>546 炭素14年代法が破綻したという常識を隠したい、利益を共有する者達がいる可能性が高いな。。。
>>466 >実際に30度時計回りにずれてるという結果から導き出した過程だ
仮説な。
その中身には同意するよ。
魏志倭人伝の方角がなぜズレているのかをうます説明できる。
>お前は感想しかないからなあ
>だからいつも負けるんだよ
キナイコシは思いつきでデタラメを言っているだけだから。
誰も彼の言葉をまともに信じてはいない。
だからころスレは九州説だらけになる。
客観的に見れば、誰が屁理屈で嘘をついているかすぐにわかるもんな。
>>547 邪馬台国畿内説が破綻したという常識を隠したい、利益を共有する者達がいる可能性も高いのではないのかな。。。
>>544 >屁理屈。
>倭人は日の出の方角を重視した。
>これでいいだろ?
それこそ想像じゃんww
それにこれまでさんざん「記録するのは魏使様」と言っておきながら、
どうして夷人の習俗を優先しないといけないんだ?ww
本当にその場しのぎの適当野郎だな、
>>544はw
>>544は整合性一つ考慮できない屁理屈以下の存在ww
>>484 >「3世紀世界の倭国秩序の中心がヤマト」にあるんだよ
それが「倭国」だという根拠は?
>>538 何の根拠があって、そんなこと決め付けるの?
>>533 >当時の倭人は季節による変化を考慮せずに、太陽が昇る方を東としたのだろう。
>南北を基準にする考え方そのものが後世のものだ。
ただの想像ですねww
「俺は九州説ではない」人が一番嫌う「ご都合主義」ですよ?ww
>>501 >戸数や国数の比率
纒向の大都市に建物は何棟あった?
>>536 >纒向や伊都も東を基準にしているからね。
これの根拠は?
「具体的」に答えてねww
東が季節によって動くという主張なのに、「どの東」が基準なんだい?
「具体的」に答えてねww
纏向は都市などではなく祭祀と古墳の為の場
この生活に必要のない巨大な施設を多大な物資と人員を掛けて作れる経済力と動員力がその隔絶した存在を示す証拠となっている
他の環濠集落など最初から比較にもならない
>>508 >熱ルミネッセンス線量計の測定結果やら炭素年代測定法の問題やらを無視して3世紀前半にもってきてるのが問題
キナイコシの「根拠」はザラコクのプラズマと同類。
>>508 >それがヤマト朝廷の話なら納得してるんだよ?
同意。
纒向だって、大和政権の萌芽だとすれば良かったのに、邪馬台国と絡めたから叩かれることになった。
まあ、よくよく調べると尾張の出先機関に過ぎないのだけれどね。
>>543 >知っていても、どうせ目視で渡海するなら南南東と書かずに南と書いても問題はないよ。
おお、すごいww
ここへ来て、
「30度ずれてるなんてどうでもいいんだよ!」
「南と書いて問題ない」ですか?wwwww
本当にこの人は適当w
>>540 >
>>444 >>>投馬国から大和まで国ないの?
>>なくて何か問題があるの?
>
>開き直りwww
問題がないようなので
>>422は
畿内説に対する反論として
成り立たないことが明らかとなった
496
>>228 >投馬国には里数がない
だから萬二千余里の外であり、投馬国は畿内にあった。<
「南≠東」などに拠って、×。
>>520 どの指摘のこと?
キナイコシの屁理屈は除いて、具体的に述べてよ。
纒向というのは、やはり、3世紀の奈良にあった銅鐸王家を滅ぼした九州の者達が、銅鐸王家の魂を鎮魂するために、後に天皇と呼ばれた鎮魂を職とする者に作らせた、疎らな集落なのではないのかな。。。
纏向バイトはすごいな。交代で誰かがずっとスレに張り付いているようだwww
>>548 遅れて出てきて、既に完全否定されたことに同意するとは、
相変わらずバカ丸出しですねww
>>564 銅鐸王家が滅ぼされたのは、4世紀になってからだという可能性が、そうでない可能性よりも高いのだったな。。。
>>559 >キナイコシの「根拠」はザラコクのプラズマと同類。
どこがどう同類なのか、具体的な根拠とともに示してね!ww
ザラゴキのプラズマって、電磁気力がベータ崩壊に影響を与えるって
いう現代素粒子物理学の全否定だぞww
その同類レベルのでたらめって、一生懸命考えたって出てこないぞww
さあ、具体的に答えてね!
答えられなきゃ、根拠なしの誹謗中傷で、名誉毀損だよww
>>543 >知っていても、どうせ目視で渡海するなら南南東と書かずに南と書いても問題はないよ。
つまり倭人伝の方位情報は行程記事の中だけでも
四方位方式と八方位方式が混在してるわけだな
つまり情報ソースが別だということだ
>>550 >邪馬台国が見当たらないのだが?
ヤマトって書いてあるだろ?ww
>>548 九州説の反応が悪口だけになってきたな
今日もまたぞろ敗退か
>>553 >それが「倭国」だという根拠は?
「倭国」以外に想定すべきものが存在しない
あると主張するなら「具体的に」「客観的な根拠」を示して論証して見せてね!ww
>>553 >それが「倭国」だという根拠は?
北部九州も含んでいるから
496
>>229 「南≠東」などだけで、大和説は事実上全滅
細かいやり取りは必要ない
水行の起点を帯方郡にしないのもインチキだし、物理的に否定されるし
水行と渡海を違うとするのもインチキ
祇園山古墳には63個以上の殉葬墓があるし、あるサイズはぴったしの冢であるしである、
箸墓は新しすぎるから、卑弥呼の墓ではありえない
そして、国民や中国学者で大和説が非常に少ない理由は、
「南≠東」や「魏使らの書いた里記載と全く合わない」事や、
「大和は九州倭国の別種の旧小国」である事や、
唐会要までの中国正史群が群がほぼ全て、
「白村江まで中心は日本国ではなく倭國だ」と書いている事。
以上、大和説はオワコン
>>569 >四方位方式と八方位方式が混在してるわけだな
南南東は十六方位だよ? 勘違いしてるでしょww
東、西、南、北とだけ書かれている場合、
四方位なのか八方位なのかは区別がつかない
畿内説にそこまで自信があるなら粛々と学会での発表に注力して、こんな便所の落書きみたいなスレを建てなければいい
自信がないからクソスレ建てて自説を周知させようとしているのであろう
明確な根拠が何もない現下の状況ではやむを得ない対策なのかもしれないが、あまりにも見苦しい
>>559 また九州説がまったく根拠の示せない繰り言だけになってきた
今日も撤退が近いな
496
>>230 >長里なんて名の里はない
そうだね 畿内説で長里なんていう言葉を使う人はいないね
公定尺の長さが王朝ごとに変わるから、魏晋代の魏尺に対応する長さの里(=1800尺)を
よく魏晋里という表現で使うけれどね <
公定里は、その王朝の皇帝らの詔書や重臣たちの上表や、
役人たちが使った、という事が判定根拠になるんであり、
魏の役人たちは、(秦朝の1里≒434mの里ではなく)、
「1里≒60~90m」の「里」を使っているから、
それが魏朝の公定里であったんだろうね。
>>576 末盧国から伊都国は「東南陸行」なんですが?
昼間っからやってるな
高貴な畿内説は、せいぜい酔っ払いの与太話
496
>>231 >纒向は投馬国の都、箸墓は其の官彌彌一族の墓<
「南≠東」などに拠って、この男も×。
>>579 >魏の役人たちは、(秦朝の1里≒434mの里ではなく)、
>「1里≒60~90m」の「里」を使っているから、
つかってないな
>>571 >今日もまたぞろ敗退か
今日は、夏至の夜明けがーでがんばってたけど、
夜明け前に「北極(星座)」を見た方が方角の確認としては確実っていうのは
越えられない壁だよな、九州説のご都合主義にとってはww
そして、海の安定している夏の渡海だから夏至の夜明けが東で
方角がでずれているっていう筋立てだけれど、
実は夏至の頃は梅雨真っ盛りで渡海には向かない
渡海に向く、天候が安定している時期はその後の「梅雨明け十日」のころ
北部九州の梅雨明けの平年が7月19日ごろで、夏至より1ヶ月くらい遅いから
30度もずれないって事もある
まあ、「夏至の夜明けが東の基準」っていうのは
「末盧国から伊都国を何とか東南にしよう」っていうご都合主義の極致において、
「ビコーン!思いついたにだ」っていう程度のものだから、きちんとした検証に
耐えられるものじゃないよw
>>580 >末盧国から伊都国は「東南陸行」なんですが?
八方位だろ?
で、四方位のところってどこ?
そして、末盧国から伊都国は現実には「北東」であり、「陸行」は不合理
魏志倭人伝の地誌記事はあてにならないを証明する部分だね!
>>585 >で、四方位のところってどこ?
対馬→壹岐
明らかに東南なのに南にしてるから四方位
今日も、頭の悪い朝鮮人が宣伝している邪馬台国畿内説が、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に、叩き潰されてしまった。。。
496
>>234 >つまり
「南至」投馬國、水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戶。
は実際には「東至」だという主張だね? だったら、邪馬台国の東でいいね!ww
新しい九州説は物分りがいいじゃないかw <
「南≠東」などに拠って、×。
496
>>235 >投馬国は以北の国だという だが里数がない
だから萬二千余里の外であり、投馬国は女王国より北にある畿内に置くほかない。<
「南≠東」などに拠って、×。
出発の時に方角を見定めるとしても、
それが正しかったかどうかは、目的地に到着し、後ろを振り返ってから確定する。
則ち、朝日の上る位置で定めた方角と、夕日の沈む位置で確認した方角が一致してこそだ。
因って、唐津から糸島へは北東と確定し、北部九州説と畿内説は、仲良くおしまい。。。
邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の脳が 、壊れてしまったね、、、
畿内説という仮説では、魏志倭人伝の南を東に変換する箇所が、2つあるのだったな、、、
>>595 虎は死して皮を残すが
人は死して恥を残す
496
>>238 >さよう 南は東と読んでも良いらしいからねえ<
さよう。
大和説という人種は、「南≠東」という事が判らん・・・・アホ詐欺師のようだからな。
出題者「この試験管には液体が何mL入ってますか」
畿内説者「9mLです。」
九州説者「おいおい、どう見ても8mLやろ。」
畿内説者「えっ! … 7.7mLくらいだから、どっちも間違いだね。」
九州説者「…」
>>594 そういうのを、畿内の逃げ恥という・・・、ガハハ
さっきから方位の論争が続いているけど、何をもめているの?
魏の役人は倭の人に道案内してもらっているんだから、方角は道案内の人に聞けばわかる話だろ?
聞かなくても太陽や月の位置みれば大まかな方角はわかる
>>1 幾度も日本海航路を主張してるが
畿内説(近江も含めるべきだと思うが、、)
ではあるには変わりないが
あんたの、考えでは日本海ルートはダメなの?
日本海に沿岸の遺跡も多数あるのだが・・・・
496
>>240 「南≠東」である事に反論せず、
自分が論破されてることを隠す
せこい負け組大和説
496
>>242 「南→東」などの嘘付き騙しの、
論争に負けたので、悔しまぎれの悪口しか言えない大和説
496
>>245 >九州説のお通夜の晩ですよ 高笑いは不調法です<
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者のお通夜の晩ですよ。
さっさと、冥途に送りましょう。
>>586 >対馬→壹岐
>明らかに東南なのに南にしてるから四方位
明らかな東南てほど東南でもないぞ
それに原文は「乖船南北巿糴。又南渡一海千餘里」という流れだから、
南北巿糴に引きずられてるってのもあるし
壱岐から先の方角が書いてないのも、亦南北巿糴があるからだろ
>>592 >それが正しかったかどうかは、目的地に到着し、後ろを振り返ってから確定する。
目的地に到達し一晩明かして、夜空で「北極(星座)」を確認すればばっちりだね!ww
北が30度もずれたりしないw
夏至の夜明けがーって言ってた人は消えたかな?
こうやって九州説の戯言が間違ってましたで決着して、スレが一つ進んだ頃に
ザラゴキが周回遅れで蒸し返すんだよなww
九章算術で道里が日数表記されているのは事実であり確定
この同時代に通用していた文書により、三国志の時代に道里を日数で表記するのは
問題ないことも確定
九章算術を持ち出すまでもなく、魏志倭人伝の記述から
「投馬国が女王国より以北の国」なのは当然に読み取れるのだけれど、
九章算術均輸の例示により、里数が書いてないから道里略載ではないと
いう言いがかりが完全に否定される
「投馬国が女王国より以北の国」なので、北部九州説は一部の
トンデモ(投馬国半島南部説)以外は壊滅
>>594 ◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、
伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。
>>1 は、「伊都国の王都域は三雲遺跡」といっておるぞ。
末盧国唐津からの方角は北部九州説と同じだぞ。畿内説いたくも痒くもないどころか、心肺停止ご臨終、、、。
畿内の酔っ払い地獄、今夜も箸墓を拝みながら与太話で過ごすのかwww
>>613 また途中で投稿ボタンを押した事になっていたらしいから、書き直し。
496
>>246 >九州説は「水行10日陸行1月」を間違いにするか、郡からにするかの二択だな<
「水行10日陸行1月」を間違いにしないから、大和説者は×。
>間違いにしたら行程で邪馬台国の位置を決める資格喪失<
大和説が資格喪失。
>郡からにしたら、だった10日の船旅では日本列島に到達不可能<
歴韓國乍南乍東は、韓國を陸行であり、水行は循海岸水行と3渡海であり、
ほぼ10日は、十分。
だから、「南→東」などの嘘付き騙しのスレ主や類スレ主説みたいに詐欺する羽目になり、
大和説は、転落の一途だ
出口なしだ
>>610 >明らかな東南てほど東南でもないぞ
鶏知から原の辻の方位は144度
135±10度は明らかな東南
496
>>250 >>始めから有効数字1桁程度の解り易い数量文言を使うのが普通であるが、<
>また九州説が帰納など何もせず思いつき独断だけで御託宣を下しているな<
「人類の常識」という事を論拠にした帰納だ。
>>614 >
>>1 は、「伊都国の王都域は三雲遺跡」といっておるぞ。
>末盧国唐津からの方角は北部九州説と同じだぞ。畿内説いたくも痒くもないどころか、心肺停止ご臨終、、、。
倭人伝しるす方位に明らかな間違いがある
畿内説の主張を裏付ける事実ですが
それが、何か?
>>614 >末盧国唐津からの方角は北部九州説と同じだぞ。畿内説いたくも痒くもないどころか、心肺停止ご臨終、、、。
つFAQ3-1
「行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。」
痛くも痒くもないぞ
>>619 >鶏知から
これって、オーソライズされてないだろ
壱岐の原の辻遺跡は定説だが
対馬国の所在は不明だぞ
3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290 解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割~8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://2chb.net/r/history/1556294803/303 今日も、頭の悪い朝鮮人が宣伝している邪馬台国畿内説が、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に、叩き潰されてしまった。。。
496
>>253 >(テンプレより)IB期に庄内系(庄内2~3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。<
その「受容」が嘘つき騙し。
大和の庄内は3世紀末の石塚の庄内Ⅰ以後であるから、
筑紫の3世紀前半が、大和の庄内を「受容」出来る筈がない。
>布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、<
大和の布留0は、石塚の庄内1やホケノの庄内3~布留の後になるから、
ほぼ4世紀であり、久住の完全なインチキ年代比定。
>畿内系主体の遺跡となっている。<
なっていないし、ならない。
>IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、
これまで在来系の地域に突然築造される。<
那珂八幡を「IB期新相」として、3世紀前半末のする事もインチキ。
那珂八幡は前方後円墳であるから、卑弥呼の冢ではなく、「ⅡA期」以後。
>第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。<
△は、渡来の呉系楽浪鏡師らが関与した鏡。
>>626 邪馬台国畿内説のスレッドに、嘘だらけのテンプレートを、貼り付けている、3つの独立の根拠があれば、そこが邪馬台国だという、自称ベイジアンの発表した意見のどこがおかしいか発表します。。。
真実のロシアのルーレットの思考の実験を読めば、普通の頭の者なら、理解できます。。。
架空の世界に、12丁の、色の違う、4発発射できる、回転式の架空の拳銃を使ってルーレットをする架空の会場が、開場しました、、
赤の拳銃、緑の拳銃、青の拳銃、そして、その他の9色の拳銃が用意され、どちらが運が良いか決定しようとしている、架空の奥山氏と、架空の類奥山氏が、入場しました、、
緑と青、そして、その他の赤以外の9色の架空の拳銃の専用の弾は、的を死体にはしないで、本体と同じ色をつける、絵の具の弾です、
赤の架空の拳銃は、的を死体にする専用の弾を、発射します、、
ルールがありますが、不公平です、、
架空の奥山氏は、どの色の拳銃を使用するときにも、空にしたあと弾を3発込めて、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
架空の類奥山氏は、奥山氏の頭に色が付かなかった時は、その色の拳銃を使用するときには、弾を4発込めて、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
架空の類奥山氏は、架空の奥山氏の頭に色が付いた時は、空にしたあと、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
拳銃は、奥山氏から初めて互いに交互に、緑、青、その他の赤以外の9色、最後に赤と撃ちます。
最後に生きている方には、架空の睡眠銃で睡眠弾が発射されます。。
架空の生物にはクマモンという着ぐるみを、死体には、、巻きぴょん、、という着ぐるみを装着させます。。。
拳銃の数を知らない、奈良の小汚い自称考古学者が出現し、巻きぴょんの中身だけを調べました。。。
巻きぴょんの頭部が、緑と青と赤だけで着色されていたら、それが奥山氏の確率は、ベジタリアンとベジタリアンでは無い者では、それぞれ、どのような、計算結果になるでしょうか、、、
架空のロシアの会場の巻きぴょんの頭部が、緑と青と赤だけで着色されていることで、奥山氏かどうかを判定することは、、、
つまり、着色の可能性の全体を無視して、緑と青と赤という要素だけで、全体を予想する、、、
という、破綻した要素還元主義が前提になっているのだったな。。。
>>625 >これって、オーソライズされてないだろ
そこより北からは壹岐に向けて船出が距離的に無理
そこより南からは更に「方位が南」と言いづらい
>>624 >つFAQ3-1
>「行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定に>は採用しない。」
ならば、投馬国は女王国の以北だ以南だと方位比較して講釈を述べるな。
496
>>268 >訳の分からないことを言ってるな
何にしても「南」至投馬國、水行二十日は「東」だっていう主張だな?
なら、邪馬台国も「東」でいいな?wwwww <
「南≠東」などによって、東大理系博士号の類スレ主は×。
>倭人伝の行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。
ま、倭人伝の記事は信用しないということだな。
まさに、纒向の酔っ払いの与太話。
496
>>272 >出雲と筑紫を経由して交流したことは確実であっても、その交流を主導したのが
出雲や筑紫だとは限らないww<
当然、筑紫と出雲が交流の主体であった、という確率は、非常に高い。
大和説者や、東大理系博士号を少々する類スレ主は、
こういうすり替えごまかしに、記紀神話を振りかけて歴史を創造するから
歴史の真実から遠のいていく
>>628 >その「受容」が嘘つき騙し。
>大和の庄内は3世紀末の石塚の庄内Ⅰ以後であるから、
>筑紫の3世紀前半が、大和の庄内を「受容」出来る筈がない。
IB期になって
もう既に完成した庄内系(庄内2~3)が
那珂・比恵地域に持ち込まれたと
誰もが知っていたので
庄内甕が九州発祥という安本説は
嗤いの渦に飲み込まれて
消えていった
ザラコク変年も
九州説がひとから笑われるネタになるだけの存在
>>630 >そこより北からは壹岐に向けて船出が距離的に無理
古田史学のいう島巡り仮説はでたらめで、対馬は大船渡の地名のあるところを
抜けるんじゃないかと思うんだけどね
結局、南北巿糴に合わせてるから南なんだと思うよ
>>632 >>「行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。」
>ならば、投馬国は女王国の以北だ以南だと方位比較して講釈を述べるな。
所在地比定に採用してないよな?
九州説否定に役立てただけだ
>>632 >ならば、投馬国は女王国の以北だ以南だと方位比較して講釈を述べるな。
これはまた異なことを仰る
九州説では、
「魏志倭人伝の方角は何がなんでも正しい」
「だから南は絶対に東じゃない」
っていう立場だろ?ww
そこしか畿内説に積極的に文句つけられるポイントがないんだからww
九州説が「投馬国は女王国より以北の国」の方角がおかしいというなら
それならそれでいいけれど、そのときには「南は絶対に東じゃない」は言えなくなるし
そうしたら、畿内説に対して批判できるポイントがなくなってしまうww
魏志倭人伝の記述からは「投馬国は女王国より以北の国」というのは間違いない
陳寿はそのつもりで書いてる
あとは、その陳寿の認識が正しかったかどうかだけ
九州説は、魏志倭人伝原理主義だから、これも正しいとしない限りはダブスタになるww
畿内説は、魏志倭人伝には誤認や誤りも多くあるという認識だから、陳寿の認識内で
投馬国が女王国より以北ならそれでいい
実際には西になるけれど
>>635 >東大理系博士号を少々する類スレ主
5ちゃんの書き込みなのに、信じてるんだww
まあ、それだけ知的水準に差があるのは明白だけれどww
>>637 どっちにしろ
倭人伝記載の方位は信頼性が低い
という結論が出る
>>637 >古田史学のいう島巡り仮説はでたらめで、対馬は大船渡の地名のあるところを
>抜けるんじゃないかと思うんだけどね
なので
鶏知より北からは壹岐に向けて船出しない
鶏知より南からは更に方位が東寄りになる
>>644 心の底では、九州説者が白痴同然だと告白して大地に接吻し懺悔したいのだろう
あのーーーーー
>>1 5ちゃんだから好き勝手もいいが
なぜ、瀬尾内航路にこだわるのか・・・
日本海航路を地図まで載せてるるのに反論無ければ
瀬戸内航路は✖でいいのだなww
テンプレに瀬戸内航路はダメの投稿も何も無くて
他説批判ばかりじゃ お粗末だ
畿内説のスレ????
名無しもいいけどコテつけてスレタイ、テンプレに沿い子たるべき
これな
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
>>645 スマン 流れが分からない
>>?に対して言っているのかわからん
スマン
>>604 >聞かなくても太陽や月の位置みれば大まかな方角はわかる
30度ほどズレているから魏志倭人伝の行程は全て無視してよいと主張するバカがいるんだよ。
>>630 >
>>625 >>これって、オーソライズされてないだろ
>
>そこより北からは壹岐に向けて船出が距離的に無理
>そこより南からは更に「方位が南」と言いづらい
理屈としてはわかるが、あくまでも仮説だろ?
それを確定的に書くから、畿内説は詐欺だとか叩かれるんだよ。
>621
>>624 伊都国に比定地は畿内説も九州説も同じでいいの???????????????
倭人伝の行程記述は伊都国まで正しいのかな??それとも遺物で伊都国を無視できないのかな???
畿内説では伊都国はどのような位置づけ??
邪馬台国が畿内ならば、交通の要所が畿内にとっては、博多?小倉?・・・
伊都国より畿内邪馬台国へいくのにわざわざ伊都を玄関口にするかな??????
>>643 >鶏知より北からは壹岐に向けて船出しない
>鶏知より南からは更に方位が東寄りになる
ただ、国の位置関係を地誌記事として書く時は中心国邑間の
二点間距離・方角で記すので、鶏知より北に対馬国の中心があって
そこから渡海の好適ポイントまで岸沿いに南西に向かって、
そこから渡海した場合でも鶏知より北の対馬国の中心からの方角になるのが原則
ただ、そこまで正確な地理条件が分かっている訳でもないし、はずもないので
現実の地理では南東なのに南と書いてあるからこれは四方位というのは
あまり意味がないだろう
俺は伊都国は対大陸(魏国)交通の要所だと思わない
なぜ、伊都国に倭人伝に沿う遺物が多いのかが議論すべきである
畿内説にとって伊都国の存在が曖昧すぎると思うが・・・・・
496
>>273 >古田史学は九州王朝説で、
倭の五王もアメタリシヒコも全部九州王朝っていうデタラメだぞww<
宣伝してくれて有難う。
>>650 >30度ほどズレているから魏志倭人伝の行程は全て無視してよいと主張するバカがいるんだよ。
その30度ずれているというのが、そもそも成立してないって言ってるんだよ
「30度すれてる」で済ませられるのは、3海峡渡海の部分だけ
でも、その部分に関しては、
>>450で自ら書いているように
「対馬は目視できるんだから船頭に聞くまでもない」し、
夏至の夜明けに拘束されず一年中見えているんだから、30度ずれる理由はない
もちろん対馬ー壱岐間、壱岐ー東松浦半島間も、目視できる
そして、三海峡渡海を除くと、現実の地理と魏志倭人伝の方角が
「30度ずれている部分は一箇所もない」んだよww
こうして具体論に入ると常にその瞬間に否定されてしまうのが九州説の戯言ww
>>655 >宣伝してくれて有難う。
いくらでも宣伝するよ
古田史学流九州王朝説は、デタラメ
古田史学流九州王朝説は、デタラメ
古田史学流九州王朝説は、デタラメ
これくらいでいいかな?ww
>>1が望むところではないかと思う
貼り付けゴメンね
605日本@名無史さん2019/08/21(水) 17:59:08.09
>>1 幾度も日本海航路を主張してるが
畿内説(近江も含めるべきだと思うが、、)
ではあるには変わりないが
あんたの、考えでは日本海ルートはダメなの?
日本海に沿岸の遺跡も多数あるのだが・・・・
纒向は
倭種の別国の古墳造営基地でいいんでねのか
倭人伝の記述とどこが整合性があるのか皆目わからん
496
>>300 >>畿内説も経由地の違いで分けてね。<
>必要ないな 行き先が同じだ<
「南≠東」などや「畿内なんて存在もしなかった」事で、
どっちにしても、×だ。
>>657 古田なんてどうでもいいじゃん
畿内説に自信がないから古田批判にはしるのはよくないよ
>>1 なぜ、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのですか、、、
496
>>307の訂正
魏使らは、「盛った数字」を書けば、部下や後続の使節や、
魏の臣下になった難升米らに拠って、皇帝や重臣たちに「盛った」事がバレれば、
「首が危ない」から、「盛らない」。
結局、魏志倭人伝からわかることは、
記載されている場所に近い場所に邪馬壹國女王之所都がある、
ということだけだろう
496
>>309 >なんで分ける必要があるの?
邪馬台国=畿内と主張してるのに<
「南≠東」だから、×。
496
>>310 >どれが強がりなのかね?
九州説はいつも具体的内容がないね <
大和説は、「南→東」などの嘘付き騙しに関する、具体定な反論内容がないね。
496
>>313 「南→東」などに嘘つき騙しをして、
里数がどーたらこーたらで邪馬壹國女王之所都の位置を見つけようとする
そんな大和説は歴史のゴミ箱行きという
この結論は確定だよね
ザラコクええ加減せーよ
ザラコクええ加減せーよ
お前のせいで九州説が南≠東で成り立ってるように思われてるぞ
ドアホ
倭人伝に基づく物証は南≠東だけかいボケ
九州説の根拠根拠の南≠東はほんの一部よボケ
倭人伝の行程無視でも九州説に利があるのに、乱すなボケ
ほん
496
>>317 「南→東」などの嘘付き騙しをし、
いくら難癖つけたって
「福岡説者と熊本説者と宮崎説者者らよりも、畿内説より多いし・・」とかの、
「畿内」なんて存在もしなかった文言を使用する大和説が
満座の失笑かうことを防げない
496
>>325 とにかく「南→東」などの嘘をつく
それしか大和説には無いから
バカが喚いてたから丁度いいから聞いてみたい
畿内の人の意見としては邪馬台国と大和朝廷はどういう関係だと思ってる?
あ、九州説の異常者には聞いてないから糞でも食ってろ
496
>>326 末盧から伊都の「東南陸行五百里到伊都国」の「東南」は、
出発時点での出発方向説明だよ
反論おわり
>>670 邪馬台国=初期ヤマト王政の肉付けが解明されてないと思うが・・・・・
明日香はどういう位置づけなのか????
明日香にいたるまでの変遷や戦略はいかがな根拠なののか??????
496
>>327 >九州上陸まで一萬里、女王国まで萬二千里という設定値があるだけ
九州上陸までの一萬里は、万里の修交という修辞がそのまま距離に設定されたもので
女王国までの萬二千里は、淮南子に見られる世界の果てまでの距離を援用し、
倭国をより遠く見せ、晋の高祖司馬懿の公孫氏討伐をより大きな功績とするため<
「余」での書き分けがあり、魏の役人らの計測値が元になっていた、という事の証拠であり、
「南≠東」などに拠っても、大和説車は、×人間。
>それと測定不能の渡海は一律千餘里っていう3つの設定値があるだけww
狗邪韓国まで7千里は10000-1000×3の単純計算
韓地方四千里も二辺で7千里に合うようにしただけのもの<
簡易三角測量は一寸千里に拠って計測可能だから、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、×。
内訳とか言うけど具体論に入ったらボロボロだし、
測ってある事のは明白だし、「魏の役人らの計測値」もある。
初期ヤマト王政は、百済人と倭人との合作だと思う
東遷は無かった思う、東征はあったと思う(武力なき制圧・・圧倒的な九州・渡来人勢力)
邪馬台が東征では無く・・九州勢力だと思う(先頭が邪馬台国かそれに代わる勢力・東征は邪馬台国でない可能性は少ないかも?。旧倭国連合)
と言うかこのスレって九州説のバカを相手にする以外の話誰もしないな
畿内説ではなんでもいいんだろなww
世界遺産の泉州地区は長きにわたる政治地域?墓地?
>>672日本@名無史さん2019/08/21(水) 20:51:14.80
>>670 邪馬台国=初期ヤマト王政の肉付けが解明されてないと思うが・・・・・
明日香はどういう位置づけなのか????
明日香にいたるまでの変遷や戦略はいかがな根拠なののか??????
まさか会稽東治の東が畿内説の頼みどころになるとはな。
もう末期だな。
>>1ゴメン
蒸し返すようで
水行20日は水行10日と比べ距離的に2倍でいいですよね
あと魏の使いは水行1日の平均は何里進みますか?
>>337 >これまでの短里はあるんだ!一里は70メートルだ!って言ってたのと整合性はどうつけるんだ?
魏志倭人伝に忠実に解釈しろと言っているんだよ。
>>342 >何戸あろうと関係ないな
>巨大な集落跡だ
言い張るだけ
496
>>330 >「魏の年号入り」の「尚方作」鏡が1枚でもあるのか? ないよねw
「魏の年号」が無ければ「尚方作」鏡を魏と結びつける根拠がまるで無いわけだ。
お前の話はつまり寝言w<
www.ne.jp/asahi/isshun/original/mater10.html
に紹介された「尚方作」鏡は、日本出土も中国出土も楽浪出土も、
15個とも全て「年号が入っていない尚方作」鏡。
そして類スレ主紹介の「魏の年号入り」の「左尚方」及び「右尚方」の銘の入った鏡」の年号には、
明帝下賜の景初二年以前の年号のものはなかった筈。
という事は、「右や中や左」尚方の銘文の鏡の造り分けは、
景初三年以後のいずれかの年に始まった、という事になる。
>こちらは「魏の年号入り」の「左尚方」及び「右尚方」の銘の入った鏡や武器、
「中尚方」の銘の入った調度品を紹介した。<
成程、「中尚方」の銘の入った鏡はなかったのか。
>銘文なんてGoogleさんが数秒で調べてくれるよw<
私は、PCは未だに初心者であり、Googleの出し方も知らないし、関心もない。
>>344 >つまり首都・王都周辺、あるいは王を訪れる人の通る街道沿いがその立地として選ばれる
ここが短絡的で根拠がない。
>>680 畿内説の見解は、行程無視だからしょうがないよ
距離も方位も無視だからしょうがないよ
九州説は倭人伝の謎を解こうとしてるが、
畿内説は「畿内に邪馬台国ありき」が原点だし学問じゃないから・・畿内説互助会=地位と銭
496
>>331 >今更畿内説以外は無視しろよ、時間の無駄だろ。<
「南→東」などの嘘付き騙しで、
「畿内」なんて存在もしない嘘つき騙しの文言使いの大和説は、
無視した方がいいよ。
今更で、時間の無駄だから。
畿内説はバイト代払って交代でゴミスレに張り付かせて自説の宣伝w
もはや学問ではないなwww
>>675 >と言うかこのスレって九州説のバカを相手にする以外の話誰もしないな
だって畿内説って中身がないんだもの。
でかい墓があるから人がたくさんいたはずだ。
人がたくさんいたから王都だったはずだ。
でもそれが邪馬台国である証拠が皆無なんだよな。
あのーーーー
紀年銘鏡だけど、、、紀年銘鏡は中国で何枚発見されていますか?
うち、三角縁神獣鏡の紀年銘鏡は中国で何枚発見されていますか?
496
>>332 >筑紫平野に大遺跡はない 筑紫平野方面で弥生遺跡があるのはかなり内陸の方だけ
平塚川添遺跡も吉野ヶ里遺跡も海抜20メートル程度のところ
弥生時代末期でも筑紫平野はかなりの部分が海の底<
類スレ主が提示した地図では、
久留米~吉野ケ里の線状付近には、移動するとされた海岸線が全く届いていなかったから、
3世紀前半頃の海岸線は、ずっと有明海方面に下がっていた筈だな。
>>690 あのーーーー
どうでもいいので自分で調べて
>>1 なぜ、朝鮮人が宣伝してきた邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのですか、、、
496
>>333 >畿内説「INTCAL13が実際の数値より古く出るなんて信じないぞ」
畿内説「熱ルミネッセンス線量計で纏向古墳群の土器が4世紀判定くらってるなんて知らないぞ」
古墳が4世紀なら全てオジャンの畿内説さん
まあ炭素14で何を測定してどんな測定結果でも卑弥呼の時代しか言わんからな
今でも間違いの可能性が高いことは知ってるんだろう<
ふーん。
倭人伝には邪馬台国は九州筑紫であると書かれている。
畿内説は、その時の大倭王は畿内に有ったと言っているだけ。
BC200から、青銅の移入は有るが
日本の中心は、出雲、丹後、越、吉備、淡路、畿内、阿波、近江、伊勢、美濃、関東
とか、と 九州が、統合したから成立したんだろ?
238年の九州の邪馬台国は、外交で独立国家を主張してるだろ?
畿内
>>1は、
以北だ、以南だ、以西だ、以東だ・・と、反論めいて云うだけで、頭のろれつが回っていない。
本人も、何言ってるのかよくわかんない状態じゃないの。
なんか 奥山の家庭崩壊に協力してるんかな??
それとも、孤独老人へのボランティア??
奥山ヨッ畿内説に迷惑かけてもいいから外では迷惑かけんなよ
時間があれば、遊んでやるから 身内はもちろんのこと他人には迷惑かけんなよ
スレが続けば続くほど、奥山が身内や他人に迷惑かけてないと安心するから
ボランティとして、奥山の家族の為にときおり付き合うよ
>>646 >あのーーーーー
>>1 >5ちゃんだから好き勝手もいいが
>なぜ、瀬尾内航路にこだわるのか・・・
?
両論併記されてるぞ
496
>>335 >古墳時代が3世紀前半スタートってのは、主に北部九州の土器編年からのものだから、
そうそうは動かないよ せいぜい10~20年<
(大和がらみではなく)筑紫自体の土器編年や絶対年代に関しては、
そんなに異論を唱えていないよ。
庄内は、柳田の三雲の件もあるし、
何といっても卑弥呼の墓の祇園山から庄内や甕棺が出ているんだから、3世紀前半でよい。
そして、布留は、前方後円墳の那珂八幡が布留だから、3世紀後半半ば過ぎでよい。
しかし、大和の庄内は、那珂八幡の進化型になる石塚が庄内1であるから、
それだけで、3世紀末になってしまい、
大和は筑紫よりも完全に50年位後に伝播した事になる。
>古墳時代が4世紀になると須恵器の年代がおかしくなってくるし<
須恵器も祇園山から出ているし、何よりも、吉武高木から出ている。
>>689 >でもそれが邪馬台国である証拠が皆無なんだよな。
>>1とかに書いてあるけど
反論もしないで
見ないフリ?
605 646 647 649 652 654 658
659 661 667 672 674 675 677
679 685 690 697 698
>>701 >(大和がらみではなく)筑紫自体の土器編年や絶対年代に関しては、
>そんなに異論を唱えていないよ。
ウソ
>庄内は、柳田の三雲の件もあるし、
捏造
>何といっても卑弥呼の墓の祇園山から庄内や甕棺が出ているんだから、
捏造
>そして、布留は、前方後円墳の那珂八幡が布留だから、
ウソ
>しかし、大和の庄内は、那珂八幡の進化型になる石塚が
ウソ
あれ、全部ウソだな九州説
>>684 >ここが短絡的で根拠がない。
世界史の常識&人間の考えることの収束点
大量のリソースをつぎ込んで誰にも見られない巨大物を作るというのはありえない
エジプトのピラミッドだって、当時の王都の近郊だ
>>706 九州説って酔っぱらい集団にコテンコテンに論破されてるの?
そりゃナサケナイね
>>1 テンプレ読むと、
「陳寿の倭人伝はいたるところ間違いあり、オレ様の「三国志纒向伝」こそ正統である・・、」
の屁理屈一辺倒なんだから、呆れちゃうね。
纒向の怪人??
>>708 九州説を論破してると思いこむところからして、感性があやしい、、、
まさしく、酔っ払いの与太
>「陳寿の倭人伝はいたるところ間違いあり、オレ様の「三国志纒向伝」こそ正統である・・、」
ほう、奥山著:「三国志纒向伝」が出版されるのか。寺澤忖度も来るところまで来たな。
>>709 まー、こんな感覚的総論悪口しか言えないあたり
九州説敗北のサインだよねー
>>710 >九州説を論破してると思いこむところからして、感性があやしい、、、
会稽東治之東で論破されて
投馬国は女王国以北で論破されて
末盧のから伊都国は北東で論破されて
九州説死亡確定でないの
>>714 伊都国は女王国以北で畿内説壊滅、破綻w
496
>>337 >>必要なのは7万戸を養える穀倉地帯。<
>それが筑紫平野にはないんだよww<
久留米吉野ヶ里ラインから、はるか下流までしか「最大海岸線」が来ていなかったんだから、
筑紫平野は、十分穀倉地帯になれる。
>>715 >伊都国は女王国以北で畿内説壊滅、破綻w
どうして?
会稽東治之東で畿内説死亡w
伊都国は女王国以北で畿内説破綻wwww
畿内説は最初からお呼びではない
誰も纏向に国があったことは否定していない
それが邪馬台国とは関係ない別の国だと言っているだけ
>>707 >大量のリソースをつぎ込んで誰にも見られない巨大物を作るというのはありえない
見るために作るわけじゃないだろ。
誰かの思いつきの仮説を、さも真実であるかのように前提とするのは、思考能力がないバカがすること。
>>720 >それが邪馬台国とは関係ない別の国だと言っているだけ
理由もなく?
だから九州説はすぐ論破されるの
>>715 女王国以北って女王国を含むんだよ。
だから伊都が女王国(の一部)。
畿内説は自説に自信がないからクソスレ立てまくって自説の宣伝する以外に未来がないw
じゃないと誰も信用しなくなるからな
自信あるなら5chでアホな工作活動やめて、学会の発表に専念すれば良い
>>721 >見るために作るわけじゃないだろ。
とか断定する根拠は?
>>724 ほら、立証義務転嫁
だから九州説は詐欺師と言われる
496
>>350 >九州説の行程パズルが成立するには 1.決まった長さの短里が存在する<
「余」や「百里」程度の近似値の範囲で、「1里60~90m」の短里が存在する
>2.魏志倭人伝の里数は短里で測量した信頼できる数値<
魏の役人たちの計測近似値は、信頼出来る。
>>719 >会稽東治之東で畿内説死亡w
>伊都国は女王国以北で畿内説破綻wwww
そうなるという理由は?
言えない?
だから九州説はすぐ論破されるの
>>728 >「余」や「百里」程度の近似値の範囲で、「1里60~90m」の短里が存在する
存在するという証拠は?
496
>>351 >それ、糸クズ以外は誰も認めないデタラメだよww
平原1号墓は卑弥呼の生前の墓<
平原は、おそらく壹與の墓。
>>727 こっちは関係あると全く思ってないのだから
そう思わせられるだけの証拠出せばいいのに
ないから出しようがないんだろうw
>>725 >畿内説は自説に自信がないからクソスレ立てまくって自説の宣伝する以外に未来がないw
いや、教科書に載ってるんですけど
>>732 >こっちは関係あると全く思ってないのだから
なら、なんで反論しないの?
>>726 見せるためというのは仮設の一つに過ぎないのに、それをあたかも事実であるかのように前提として論理を進めようとするから、畿内説は詐欺だと言われる。
>>734 でも、間違ってると証明できないんだよね?
>>735 こっちは全く関係ないと思っている
関係あると証明すべきはそちらの仕事だろ?
証拠ないから提示しようがないだろうけどw
>>736 >見せるためというのは仮設の一つに過ぎないのに、
支配的に有力な説ですが、何か?
496
>>352 >>纒向には魏の使いが滞在していた筑紫からの搬入物がない。<
>あるよ 胎土分析で北部九州の土で作った土器が確認されてる<
おや?、また「筑紫→北部九州」という嘘吐き騙しの「広域化」をしたな?。
豊前海岸地域の土器はあったが、筑紫の土器はなかった筈。
>>735 反論することじゃないだろ。
何でも反論しないと死ぬ病気なのか?
そっちが証明するのを待っているんだ。
>>740 >こっちは全く関係ないと思っている
思うのは勝手だが、理由は?
また九州説は理由が言えない?
それは困ったねぇ
>>744 >仮説と事実の区別がつかないのか?
どう違う?
説明できないの?
>>745 関係があると思う方が証明するんだよ。
関係ないことを証明する必要はない。
畿内節のスレなのだから、畿内説の内容については畿内説を支持する側が証明しなよ。
>>735 例えば、福井や岩手に邪馬台国があったと言っている人だっている
自分は関係ないと思うけど、関係ないことを立証する証拠をこっちが出さないといけないかね?
違うだろ?
関係あると考える人が関係あることを証明する証拠をだせばいいのだよ
>>743 >何でも反論しないと死ぬ病気なのか?
畿内説の主張に反論しないと
九州説は死ぬよ
「反論しない病」「証拠出さない病」は
説が死に至る病だよ
単里が魏の単位だってならわかるけど、東夷限定で適応とか言ってるしもやは意味不明だろ。
>>747 なら、テンプレに反論すれば?
なぜ逃げ回るの?
496
>>353 >そんなに自己紹介しなくていいのにw
行程パズルにしても、日本神話のつまみ食いにしても、
九州説は徹頭徹尾、チェリーピッキングだけでできているのにw<
そんなに自己紹介しなくていいのに
「南→東」などの嘘吐き騙しにしても、
「行程の里数や日数」のつまみ食いにしても、
「前方後円墳や土器の年代」のチェリーピッキングにしても、
大和説者は、徹底的に「インチキ」をしている。
九州説は徹頭徹尾、チェリーピッキングだけでできているのにw
>>749 畿内説って、九州説からの批判に何一つまともに反論できていないよね。
学会で発表って、学会では9割畿内派だから何も目新しいことが無いだろ。
九州派に勢いがあるのは民間とネットだけだ。
>>750 魏志倭人伝を読み直せ。
そのように書かれていることは事実だ。
事実を受け入れて、それからその原因を探ってみて。
>>751 反論を畿内説が無視しているだけ。
何スレも前に済ませた。
>>541 博士の指摘読んだ?
レバノンだよ?南半球だっけ?
ちなみにエジプトと中国でも同じこと起こってるからね?
前々から疑問が呈されてたが実年代が分かってる資料を計測して間違ってるということを証明したのが2018年
最新の論文はこれ考慮してるの?
そもそもJCAL作る時にINTCALは信用ならないからって話だったやん
何でそれなかったことにしてんの?
纏向が邪馬台国の都だ、他の説は間違いだと言うなら、とっとと証拠出せばいい
その証拠に他の人が納得するかどうかは別の話だけどね
ろくな証拠ないなら他説のことボロクソに言うのやめろ
496
>>354 古い論文と比べても大きな土器編年での差があるけれど、
情報の増えた最近の大和説の編年研究では、
ますます、その差を断定妄想化している。
こういうところも大和説は情報が古い
>>531 オリジナリティのあったころの論文でいいから教えて
というか纏向遺跡が発掘されたのいつだっけ?
纏向が発見されてない30年前の論文しかない?
おかしくない?纏向発掘されたらそこが邪馬台国だって論文あるはずでしょ?
そしてそれが前提なってるんでしょ?
出せるでしょ?
>>753 >畿内説って、九州説からの批判に何一つまともに反論できていないよね。
証拠プリーズ
>>756 >反論を畿内説が無視しているだけ。
>何スレも前に済ませた。
という証拠は?
なぜいま言えないの?
九州説みじめすぎ
>>762 スレ汚しばかりしてないで、とっとと証拠出せ
>>527 英語のソース読める?
悪魔の証明を求めるな
植物間の同位体選別比率が解明されてるというソースを君が出せば終わりだよ?
海洋リザーバー効果、南洋効果、古木効果、淡水リザーバー効果、植物間同位体選別比率
知らない?
纏向の桃の種の確率分布図みたことないの?
2世紀が一番可能性高いよ?
それ以上古くならない根拠教えて
例の纏向の桃の種でいいよ
>>759 >古い論文と比べても大きな土器編年での差があるけれど、
最近のものは、古臭いものと違ってアタリマエなんだが
>情報の増えた最近の大和説の編年研究では、
>ますます、その差を断定妄想化している。
情報が増えれば信頼性が上がるんだから
それを「断定妄想化」とか言うのはおかしいね
九州説は支離滅裂だ
496
>>357 >佐々木憲一の論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」でも
大和を中心とする首長層のネットワークを前提としている<
佐々木も、久住と同じく、大和の石塚の3世紀末の庄内1を、
筑紫の3世紀前半の庄内に影響を与えた、なんて嘘吐き騙し編年をしたから、
×男。
岸本直文
倭における国家形成と古墳時代開始のプロセス
国立歴史民俗博物館研究報告 第185集 2014年
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185012.pdf 1990年代の三角縁神獣鏡研究の飛躍により,箸墓古墳の年代が3世紀中頃に特定され,
〈魏志倭人伝〉に見られる倭国と,倭王権とが直結し,連続的発展として理解できるようになった。
卑弥呼が倭国王であった3世紀前半には,瀬戸内で結ばれる地域で前方後円形の墳墓の共有と
画文帯神獣鏡の分配が始まっており,これが〈魏志倭人伝〉の倭国とみなしうるからである。
3世紀初頭と推定される倭国王の共立による倭王権の樹立こそが,
弥生時代の地域圏を越える倭国の出発点であり時代の転換点である。
古墳時代を「倭における国家形成の時代」として定義し,3世紀前半を早期として古墳時代に編入する。
今日の課題は,倭国の主導勢力となる弥生後期のヤマト国の実態,倭国乱を経てヤマト国が倭国の盟主となる理由の解明にある。
一方で,弥生後期の畿内における鉄器の寡少さと大型墳墓の未発達から,倭王権は畿内ヤマト国の延長にはなく,
東部瀬戸内勢力により樹立されたとの見方もあり,倭国の形成主体に関する見解の隔たりが大きい。
こうした弥生時代から古墳時代への転換についても,C14年代データは新たな枠組みを提示しつつある。
箸墓古墳が3世紀中頃であることはC14年代により追認されるが,それ以前の庄内式の年代が2世紀にさかのぼることが重要である。
これにより,纒向遺跡の形成は倭国形成以前にさかのぼり,ヤマト国の自律的な本拠建設とみなしうる。
本稿では,上記のように古墳時代を定義するとともに,そこに至る弥生時代後期のヤマト国の形成過程,
纒向遺跡の新たな理解,楯築墓と纒向石塚古墳の比較を含む前方後円墳の成立問題など,新たな年代観をもとづき,
現時点における倭国成立に至る一定の見取り図を描く。
畿内説は纏向発掘の予算をつけたいが、世間の支持が得られずなかなか予算がつかないので
必死になって5chで工作活動に励んでいるのだろう
>>656 目視できるというのは船頭に聞く必要があるかどうがだよ
アホなんか?
目視できても方角は不明だろ?
だから基準である日の出の東を決定してから目的地へと進む
方角がある程度わかるということだ
>>769 畿内説論者だけが納得する証拠出してもそれは証拠とは言えんわな
それ以外の人が納得できる証拠を出さないと意味ないと思うが
>>764 >悪魔の証明を求めるな
悪魔の証明って何だか知ってるの?
絶対に証明できないと解ってる主張をして自滅する
そんな自殺的論証のことだよ
九州説の、今やってる奴
>>770 >だから基準である日の出の東を決定してから目的地へと進む
そんな基準があるという根拠は?
>>771 >畿内説論者だけが納得する証拠出してもそれは証拠とは言えんわな
畿内説論者だけが納得する証拠
だという証拠は?
>>775 結局証拠ないもんなww 提示できるわけないわなwww
ところで岡上って誰?
岡上
邪馬台国関連スレに出没する狂人のひとり
考古学界では全く賛同者がいない説を「考古学的に確定している」と主張し、ありもしない大規模調査をでっち上げ、
学界の多数派である邪馬台国畿内説を破綻したと主張する、ゴッドハンドも真っ青の捏造常習犯である
自分は正しく、これまでの研究者がみんな間違っていた、などと平気で主張する、典型的「六拾弐病」患者
コテ+トリと、コテの九州王、伊都国女王、卑弥呼、名無しを使い分け、自説を関連スレで書き込みまくる
糸クズ、八咫バカ、連続句読点キチともよばれる
「咫」の説明である「周尺」を「円周の尺」と読み、
伊都国を女王国であると漢文の用例を無視して誤読し、
平原遺跡出土鏡の文様には八咫烏があると現物を知らないで主張し、
魏志倭人伝中の「下戸」を「酒が飲めない人」と訳すなど、
お笑いエピソードには事欠かない
偽スレや妄想スレを立て続ける異常性に気がついていないのは本人だけ
未確定な事項であっても、自分に都合がよければ勝手に確定事項であると脳内変換し、
それを根拠として立論してしまうチェリーピッカー
日本史の方法論をまるで理解していない、自分偉い教の教祖である
チェリーピッカーという文字が最初に目に入ったので
キナイコシのことかと一瞬勘違いしたw
>>777 >結局証拠ないもんなww 提示できるわけないわなwww
ないって証拠は?
>>782 あるならとっとと出せば?出せないからそんな姑息なスレ汚しで話そらそうとしてんだろ?
>>778に書いた通りもう寝ます
君はこれから朝までずっと起きているのかもしれんが、
こっちは普通の時間で生活しているんで
>>683 >景初三年以後のいずれかの年に始まった、という事になる。
なりません
後漢代から既に三尚方に分かれていました
・延光三年(124)弩機(右尚方)
・青龍元年銅香鑪(中尚方)拓本
・景初元年構銅(中尚方)畢沅《中州金石記》
>私は、PCは未だに初心者であり、Googleの出し方も知らないし、関心もない。
PC歴10年以上の方は初心者とは言いません
Yahoo検索の日本語版はGoogleとほぼ変わらないのですから言い訳になっていません
496
>>380 >>「証拠は?」などと質問さえしておけば、
議論に勝ったと世間の人々に吹聴して騙せる、と思って<
>>証拠を出さないんだから九州説の負けに決まってるじゃないか<
不可知部分が99.5%以上存在する自然や歴史においては、
我々人類は、100%完全な証拠などを出すことは不可能なのであり、
それは、大和説者であっても同じ事であり、
我々人類は、
知り得た0.5%以下の自然や歴史の事実関係からの、
帰納的確率的な推論をするしかないのであり、
それを「100%完全な照明や根拠」を要求し続ける人間は、正常な人間ではなく、
京都アニメ犯人の思考と同じように、何らかの思想や宗教や狂気の基づくの、
「結論先にありき」の脳神経構造を持っている一種の・・・・なの。
496
>>383 「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者は、
ますます世間や国民の常識から離れて行って、
京都アニメ犯人と同じように、自分の分裂幻覚の妄想によって、
罵倒やニセ情報流しや犯罪や殺人や戦争をするしかなくなり、
家族や国民や人類を破滅させようとするしかなくなってしまうんだよね。
大和説は、詰みだよ
496
>>385 「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者らは、
そうやっていつも悪魔の証明ごっこを始めてしまう
大和説は、学問的でも科学的でもない
496
>>399 ほら、「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説に出来るのは、
デマ中傷ばかり。
いずれ、京都アニメ犯になる。
496
>>417 ほら、また大和説者は、「南→東」などの嘘吐き騙しの、
まったく根拠を言わない
決めつけで妄想を語るだけ
それが大和説だ
496
>>419 今日も朝から
「南→東」などの嘘吐き大和説が
根拠を添えてなにか主張した投稿が
ひとつでも有っただろうか?
496
>>425 >3世紀前半から存在する「大和を中心とする首長層のネットワーク」が、
3世紀中葉に日本列島を訪問した魏使によって倭国として記録された
それ以外の解釈があれば教えてくれww<
九州倭国の別種分家の旧小国の大和日本国が、白村江の後で、
母国の九州倭国を併合吸収し、継承した。
>>503
>畿内中心の秩序がまだらながらも汎日本列島的に存在していたのは確実
碌な集落遺跡の無い畿内に、邪馬台国など在る訳がない。
倭国(阿波)中心の秩序がまだらながらも汎日本列島的に存在していたのは確実。 @阿波 496
>>430 >投馬国は女王国「以北」と書かれていること<
不彌國の南へ水行二十日と書かれているから、「以南」であり、×。
>末盧国から伊都国は東南と書かれていて実態と違うこと<
「東南」は末盧國の出発方向記載であり、
途中では伊都国は見えていないから方向計測は出来ず、×。
>「南至」の起点と日数計上の起点は同じなこと
「会稽東治之東」は台湾あたりの海上であること <
会稽東治は、陳寿執筆時は揚州の管理下であり、台湾あたりの海上にならないから、×。
>>77 名前:日本@名無史さん 2019/08/20(火) 08:09:15
>畿内説石野船長「南→東と読み替えて、不弥国から東に進み投馬国(出雲)を目指そう! 次は女王卑弥呼の纏向だw 全速前進!」
>畿内説寺澤機関長「順風満帆!やはりこちらが正しかったですねw 天も我々を祝福しているかのようですw 九州説の警告なんて無視して良かったw」
>畿内説橋本航海士「我々の進行方向&左右両舷をすっぽり取り囲むような三日月形の巨大な氷山脈発見!!!→)」
畿内のかわゆいモモソちゃんを、糸島中学校の代用教員上がりの原田大六ごときに取られてなるものか、
と喘息前進した結果がこの始末。
今、畿内の凡庸考古学者だけに通用するから「畿内説」という・・・。
ついに畿内説は、
>>1と、下っ端バイトのほら夫、この二人だけになったみたいだな、、、
>>767 >古墳時代を「倭における国家形成の時代」として定義し,3世紀前半を早期として古墳時代に編入する。
勝手定義を振り回しているだけだ。
>古墳時代を「倭における国家形成の時代」として定義し,3世紀前半を早期として古墳時代に編入する。
今、畿内の凡考古学者だけに通用することだから「畿内説」という・・・。
>>794 >会稽東治は、陳寿執筆時は揚州の管理下であり、台湾あたりの海上にならないから、×。
わけがわからんな
会稽東治(冶)県があったのは現在の福建省福州市
その東が沖縄や台湾あたり
管理が変わっても場所は変わらんだろ
わけがわからんな
会稽東治(冶)県と会稽東治は別物なんだが・・・
負けが込んでる九州説はイライラのあまり食事が進まなそう
畿内説は勝手な妄想を振り回すだけなので、議論の程をなさない。
>>786 >不可知部分が99.5%以上存在する自然や歴史においては、
>我々人類は、100%完全な証拠などを出すことは不可能なのであり、
なんの証拠も出せないくせに
正しいと言い張る
詐欺師の手口
496
>>443 「南→東」などの嘘付き騙しがバレた敗残の大和説はもう
デマを呟くくらいしか
出来ることがないのだな
>>794 >会稽東治は、陳寿執筆時は揚州の管理下であり、台湾あたりの海上にならないから、×。
卑弥呼共立時だって揚州の管理下であるぞ
ばかすぎる九州説
いつ覗いても、邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人が論破されているね。。。
中国の考古学者にとって、夏の時代の会稽が良渚だということは常識なのだったな。。。
496
>>451 つまり「南→東」などの嘘付き騙しの大和説車は、
非科学的
非学問的
反知性的
それが大和説者だ、ということだ
>>812 つまり、夏の時代の会稽東の役所が今の上海だということは常識なのだったな。。。
3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290 解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割~8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://2chb.net/r/history/1556294803/303 邪馬台国畿内説のスレッドに、嘘だらけのテンプレートを、貼り付けている、3つの独立の根拠があれば、そこが邪馬台国だという、自称ベイジアンの発表した意見のどこがおかしいか発表します。。。
真実のロシアのルーレットの思考の実験を読めば、普通の頭の者なら、理解できます。。。
架空の世界に、12丁の、色の違う、4発発射できる、回転式の架空の拳銃を使ってルーレットをする架空の会場が、開場しました、、
赤の拳銃、緑の拳銃、青の拳銃、そして、その他の9色の拳銃が用意され、どちらが運が良いか決定しようとしている、架空の奥山氏と、架空の類奥山氏が、入場しました、、
緑と青、そして、その他の赤以外の9色の架空の拳銃の専用の弾は、的を死体にはしないで、本体と同じ色をつける、絵の具の弾です、
赤の架空の拳銃は、的を死体にする専用の弾を、発射します、、
ルールがありますが、不公平です、、
架空の奥山氏は、どの色の拳銃を使用するときにも、空にしたあと弾を3発込めて、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
架空の類奥山氏は、奥山氏の頭に色が付かなかった時は、その色の拳銃を使用するときには、弾を4発込めて、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
架空の類奥山氏は、架空の奥山氏の頭に色が付いた時は、空にしたあと、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
拳銃は、奥山氏から初めて互いに交互に、緑、青、その他の赤以外の9色、最後に赤と撃ちます。
最後に生きている方には、架空の睡眠銃で睡眠弾が発射されます。。
架空の生物にはクマモンという着ぐるみを、死体には、、巻きぴょん、、という着ぐるみを装着させます。。。
拳銃の数を知らない、奈良の小汚い自称考古学者が出現し、巻きぴょんの中身だけを調べました。。。
巻きぴょんの頭部が、緑と青と赤だけで着色されていたら、それが奥山氏の確率は、ベジタリアンとベジタリアンでは無い者では、それぞれ、どのような、計算結果になるでしょうか、、、
架空のロシアの会場の巻きぴょんの頭部が、緑と青と赤だけで着色されていることで、奥山氏かどうかを判定することは、、、
つまり、着色の可能性の全体を無視して、緑と青と赤という要素だけで、全体を予想する、、、
という、破綻した要素還元主義が前提になっているのだったな。。。
496
>>456 >畿内説はウソつきだから話は聞きたくない 書いたものを読むのはイヤだ と叫んで
ひとの話を聞かないから 畿内説が何を言ってるのか知らない
なのに畿内は自分に「反論出来ない」と連呼する<
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙しの文言を使い、
「南→東」などの嘘付き騙しをする大和説者の気味が悪い論文を読むのは、
騙されて、京都アニメ犯人のような犯罪をそそのかされるかも知れず、
、まっぴらゴメン。
これってさ、おばかの内弁慶だよな
496
>>457 オレ様の「南→東」などの大和説の主張と合わないから、
九州説は間違いだー
って典型を、みせて頂きました
邪馬台国畿内説は破綻してしまい、奥山氏は自殺体になった可能性が高いので、追悼のために、スレッドを作成しました。。
http://2chb.net/r/history/1566043735/l50 >>460 話しかけてくる九州説の者を「コミュ障」呼ばわりして
対話を拒み、ひとり呟き続ける大和説の変な老人
今日もブーメラン投げて自分を撲殺してます
邪馬台国畿内説を宣伝する係員の奥山氏への弔辞を発表します。。。
奥山氏、今、僕達はあなたにお別れを告げようとしています。昨夜、討論していた時はあんなに元気だったのに、、、突然、自殺体になろうとは、誰が予想できたでしょうか。
振り返ってみれば奥山氏と僕達との出会いは、5ちゃんねるの掲示板でした。偶然に僕達がスレッドを覗いた事がきっかけで、魏志倭人伝時代についての討論会で一緒に過ごしました。
奥山氏は、あの時からずっと変わらず卑劣な論敵でいてくれました。そして、奥山氏はいつも僕達に論破されましたね。。。僕達にとって奥山氏は、頭の悪さを楽しませて貰え、笑えてリラックスさせられる存在です。
奥山氏が頑張っているから、僕達が癒される、、、いつもそんな思いで生きてきました。
奥山氏、どうぞ安らかに眠ってください。また、天国であなたと討論できる日までお別れです。
奥山氏、本当に心よりありがとう。
496
>>462 「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者よ
まず具体的に何の史料事実や史料実態のことかを言うを、
社会復帰訓練から始めろ
496
>>467 「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、やはり、
文部省や学会教育界学者らの・・・・アホ詐欺師の力で、
捏ね上げられていたのだね。。。
>>805日本@名無史さん2019/08/22(木) 08:02:16
>東京都と東京は別物か?
明らかに別物だよ、キミはそもそもからぐちゃぐちゃだねえ。
496
>>468 「南→東などの嘘付き騙しのように
いつも情報の出所が曖昧で
言うことが信頼できないのが
大和説
今、畿内の凡夫考古学者の仲間内だけで通用するから「畿内説」という・・・。
とうとうワメキ散らすだけになった
九州説の末期症状
あわれ
ww
496
>>469 >女王国「以北」は距離や戸数が大体あってるが、 南にある投馬国は日数でしか書けないし、
戸数もあんまりあてにせんといてくれと言ってるんじゃないか?
末盧国から伊都国以外も大体30~40°くらい傾いてるし。
「会稽東治之東」って言っても緯度を測るようなことはたぶんしてないでしょ。
伝承を参考にして距離を調整した可能性が一番高そうかな。<
いや、「余」で書き分けたりしているから、
魏使らの実地での見聞計測記録であった可能性が非常に高いの。
>まさかの畿内説も徳島・阿波説並ではないことを祈る。<
この男も、
「畿内」なんて存在もしなかった文言を使う・・・・アホ大和説詐欺師のようであり、
「南≠東」などに絶望して、京都アニメ犯人のようにならない事を祈る。
>>471 >畿内と九州で同じ須恵器の編年が50年ずれることになる
九州説の信じる編年は「着ないは九州より50年遅れている」という不合理を
信じていた頃の編年<
吉武高木から須恵器が出ているし、
筑紫の遺跡には褐色の土器に混じって、白灰色の土器片が沢山混在しているし、
なによりも、祇園山からも須恵器が出土している。
詐欺やって
無理やり会稽東治を上海あたりに押し上げても
せいぜい鹿児島の指宿あたりだな
一万二千里でまだ博多湾岸あたりなんだろ?
北部九州説死んでるよ
496
>>472 「南→東」などの嘘付き騙しの、典型的な大和説者だなぁ
科学的根拠がないという「理由は僕がそう考えたから」
何一つ、史料事実的な具体的なことを書かずに、
適当なごまかしを書くだけ。
>>831 こんなふうに
歴史学を完全に破壊しないと
成り立つ見込みも皆無で無残九州説
須恵器の年代はかなりハッキリ解明されてるんで
弥生時代の須恵器とか言い出す九州説素人説が
キッチリ死亡宣告うける
496
>>485 >>古墳時代の編年の基礎が北部九州なら畿内説が成り立つ余地はないな<
>なぜ?
北部九州の土器編年に信頼できるものがあって、畿内からの搬入土器が
九州で出る遺跡でその畿内土器の編年を示して、それを基準点に畿内の編年を
九州の編年と合わせるという作業をしているだけで、
どうして「畿内説が成り立つ余地がなくなる」んだい?ww<
卑弥呼の墓は「冢」であって、前方後円墳ではなく、
筑紫の前方後円墳の初期は、庄内~布留の那珂八幡などの3世紀後半半ば過ぎであり、
大和の前方後円墳の始まりの庄内1の石塚は、
那珂八幡よりも進化型であるから、3世紀末になるから。
>>488 >>畿内説はきちんと文献と向き合えよ。<
>その文献引用の根拠提示を一切しないのが九州説じゃないかww<
大和説は、始めから、
「南→東」などの史料事実の否定曲解のインチキをしているではないか。
>>839 >大和の前方後円墳の始まりの庄内1の石塚は、
>那珂八幡よりも進化型であるから、3世紀末になるから。
九州説の真っ赤なウソが一目で分かる
明白
今、畿内の凡考古学者だけに通用することだから「畿内説」という・・・。
刀折れ矢尽き反論できなくなった九州説
繰り言しか無くなったな
496
>>493 >>女王国「以北」は距離や戸数が大体あってるが、
南にある投馬国は日数でしか書けないし、
戸数もあんまりあてにせんといてくれと言ってるんじゃないか?<
>言ってないな
倭人伝はそんなこと言ってない <
陳寿は、「有~戸」などと「有」で書いた国と区別して、
投馬國は「可五萬餘戸」と、邪馬壹國は「可七萬餘戸」と「可」で示し、
推定である事を示しているから。
>>845 >陳寿は、「有~戸」などと「有」で書いた国と区別して、
>投馬國は「可五萬餘戸」と、邪馬壹國は「可七萬餘戸」と「可」で示し、
>推定である事を示しているから。
つまり
「南にある投馬国は日数でしか書けないし、」
が破綻だ
邪馬壹国と同じなんだからな
496
>>494 大和説者は、「南→東」などの嘘付き騙しをしている事から、
逃げ続ける口実として、投稿を書いてるだけだろ?
大和説の論理や主張部分は徹底的に具体的に述べ続ければいいのに、
具体論に入る前で、証拠提示もせずに逃げ続ける
惨めなものだな
>>847 そんな明白なウソついて、恥ずかしくないの?
リンク潰して誤魔化し工作てるけど
辿られたら即バレなんだよ
496
>>498 >>戸数もあんまりあてにせんといてくれと言ってるんじゃないか?<
>だから「略載」なんだよ 詳細な情報は、最初から最後までない
あてにできない情報でも略載されている部分は女王國より以北
つまり、投馬国は女王國より以北の国<
また、類スレ主は、ヘンな事を言ってるな。
陳寿が「有・・・戸(家)」と書いたのは、不彌國以前。
「可・・・戸」と書いたのは、投馬國と邪馬壹國。
つまり、魏使らは、投馬國と邪馬壹國は、
(おそらく目測と倭人からの伝聞とで)推定で戸数を書き、
女王國以北の国は、戸数や家数をほぼ確認出来て、「有・・・戸(家)」と書いた。
496
>>501 >>九州から畿内まで浸透するのに50年かかってもおかしくはない。<
>この時代錯誤の思い込みが、九州説の基盤
この基盤が崩れたのが、1980年代 今から約30年ほど前だ<
九州の編年は変っておらず、
大和の庄内1の前方後円墳の石塚は、
(卑弥呼の冢ではなく)ではなく)那珂八幡などの進化型であるから、3
世紀末のままdeari,崩れていない。
人の家の話ばかりしているけど、
どこの池沼なんだ?と聞いているんだよ
低脳の集団「❓」?
毎日キナイコシは完敗しているね、、、
この頭の悪さ、、、
どういうことなの?と思うかもしれないけど?
龍宮~・・・その家の人が国を造った家、国の持ち主?
>>850 >九州の編年は変っておらず、
>大和の庄内1の前方後円墳の石塚は、
>(卑弥呼の冢ではなく)ではなく)那珂八幡などの進化型であるから、3
自説と違う事実を見ても変わらないのは
説として死んでるから
誰がどう見ても
石塚→那珂八幡→箸墓の順に進化してる
ずっとオレのターンではないけど、
ずっと、その家の話
戦争に勝った、負けて・・・土地が何やら?
とか関係ない、もともと、その家(日本人ではない?)のもの
よくあるでしょ?
ネットなどの話によると、
戦後(敗戦)の混乱に乗じて、日本人の土地などを盗んだり・・・、
すべて在日(不明)の仕業だとか
もともと・・・、
在日(不明?)というのが日本という国を造り、国の持ち主なの
有名な企業なども同じ、創業者などに聞いてみると良い
国を造っていた当時、私はいなかった(何やら家~などもなかった)と言うから
纏向は古墳造営基地兼斎場
これだけ状況証拠がそろってるのに未だに邪馬台国の王都とする
畿内説は、論理的思考ができない
1、大集落と言いながら集落跡が見つかっていない
2、斎場と思われる掘立柱建物がある、お供えの桃核も見つかっている
3、古墳がいっぱいある
4、各地から来た出稼ぎ労働者の証跡も搬入土器でわかる
5、資材運搬用の水路がある また土木具が多く生活臭があまりしない
6、鉄の武器がほとんどみつからず、また環濠集落でもなく無防備な地区
7、巫女千人、兵がいた証跡が見つかっていない
>>860 >1、大集落と言いながら集落跡が見つかっていない
しょっパナから世界でお前独りが言い張ってる
えせ「状況証拠」なのだな
w
>>860 >2、斎場と思われる・・・
とか言ってるのもお前独り
>>860 >3、古墳がいっぱいある
古代都市はみんなそう
殷商の都も秦漢の都もそう
三雲遺跡も似たようなもの
>4、各地から来た出稼ぎ労働者の
なんて証拠なし
単なる労働者なら遠隔地から呼ぶ必要がない
>5、資材運搬用の水路が
と決まってるわけではない
正確には、いなかったというわけではない、
家はあったし、先祖もいるんだけど、まだ表舞台には出てきていない?
ほとんどスサノオ(三貴子)から~の話だろう、
某という人物を稲(稲や田を守り、監督したりする職)何やらに任命したとか
>>860 >6、鉄の武器がほとんどみつからず、
ホケノ山を無視してる
>また環濠集落でもなく
この時代には全国的に環濠集落は消えている
>7、巫女千人、兵がいた証跡が見つかっていない
都城内に住んでいる必要がない
結局なにも状況証拠などない
>>861 纒向の大集落に何棟の建物があったのか、そろそろ答えてほしいな。
何スレも前から聞いているのだが?
>>865 >この時代には全国的に環濠集落は消えている
ソースは?
『湯山主』関係を調べてみた?
>篠は小さい竹のことです。
竹、笹の葉?家の写真にも写っていたり、
あと松の木も立てられているし、なぜ詳しいんだろう
496
>>515 >原文見ても投馬国が女王国の北にあると読めないなんて 異常だろう<」
「自郡至女王國萬二千餘里」とはっきり書かれていて、
不彌國で、途中移動の行程里数の合計が「ほぼ萬二千余里」になっているのに、
不彌國から南に水行二十日の位置にある投馬國が、女王國の北にある、と読むなんて、
そりゃ、ハクチ以下の低能だよ。
>>721 >見るために作るわけじゃないだろ。
見るため、じゃなくて、見せるためだよ
巨大建造物は見せる権力
>誰かの思いつきの仮説を、さも真実であるかのように前提とするのは、思考能力がないバカがすること。
だから、反論は具体的にしろって何度も言ってるだろ?
「人里離れた and/or ある政治権力の本拠地から遠く離れた」場所に作られたその文明圏で
最大レベルの巨大構築物の例 を一例で構わないから挙げてごらんwwwww
絶対、
>>721逃げるぞww
こればで具体例を挙げろと言われて、挙げたことがないんだからww
>>866 何度も回答もらってるだろ
病気の人か?
>>825 ほお
じゃ東京が東京都になったら場所が仙台になったりするの
>>723 >女王国以北って女王国を含むんだよ。
>だから伊都が女王国(の一部)。
だったら、どうしてその先の投馬国まで書いた後で自女王国以北とか書くの?
だったら、どうして伊都国のところに女王之所都って書いてないの?
>>740 >こっちは全く関係ないと思っている
出ましたww
「理由は僕チンがそう思ったから」www
そりゃあ、自分で言い張るだけだから、他人からは絶対に論破されないわねww
でも、「違う考えの人を絶対に説得できない理由」だよね
あなたがそう考えるのは勝手だけど、
世の中はあなたの考えにこれっぽっちも拘束されないからww
>>764 >纏向の桃の種の確率分布図みたことないの?
>2世紀が一番可能性高いよ?
2世紀で何か問題あるのかい?
桃核で、2世紀末には纏向遺跡のところに祭祀を行う遺跡があったことが確定
4世紀前半まで存続したことに疑いはない
魏志倭人伝の卑弥呼の記録がある3世紀に纏向遺跡が存在し、列島最大の
集落遺跡だったことが確定
纏向遺跡で始まった前方後円墳という新しい墳墓形式が魏志倭人伝に記された奴国でも
いち早く取り入れられている
これが、邪馬台国であり、そのままヤマト王権につながる
たったことだけのことなんだが?
>>874 陳寿は勿体ぶった表現が好きなんだよ。
重要事項は最後にした方が印象が強い。
>>876 >列島最大の集落遺跡だったことが確定
どう確定したの?
その集落には何棟あったの?
>>770 >目視できても方角は不明だろ?
夜に「北極(星座)」を探せば、その場所での方角はすぐに分かるだろ?
>だから基準である日の出の東を決定してから目的地へと進む
だから、季節によって動く日の出の方角を基準にする必要は
「最初からない」
>方角がある程度わかるということだ
方角は、夜に北極を探せば済む
この「夜明けの太陽が東」説は、九州説のご都合主義から「考案」されたもので
一部九州説の人に人気があるというだけの代物
季節ごとに方角が変化する地理観を持った民族なんて、存在しないぞww
九州説は畿内説にもう勝てないからこれから一生メシがまずい
畿内説は毎日メシがうまい
>>771 >畿内説論者だけが納得する証拠出してもそれは証拠とは言えんわな
>それ以外の人が納得できる証拠を出さないと意味ないと思うが
具体的な反証一つ示さずに「納得しない、理由は僕チンがそう考えたから」と
書くだけの簡単なお仕事ですw
九州説がやっつけられるの見ながら食うメシは最高だなあ
>>876 >列島最大の
>集落遺跡だったことが確定
デカイ建物の跡が見つかった、ってのは知っていたけど、大規模な集落跡も見つかっていたの?
へー、知らなかった
>>779 ただ、お鏡さんは、連続句読点とは別人格だと思う
お鏡さんも大概おかしいけれど、連続句読点とはゆがんだ情熱の方向性が異なるから
>>825 >明らかに別物だよ、キミはそもそもからぐちゃぐちゃだねえ。
こういうバカは本当に面白いww
では、東京の場所と東京都の場所は?ww
大阪から東京の距離と
大阪から東京都の距離をどう区別するの?ww
九州説はなぜ畿内説に負けるのか
それは九州説が畿内説より劣るからだ
テンプレ読んだが
纏向は墓地兼古墳造営基地の理由付けともとれる
>>836 >博多湾岸は一万里
それだと困るから、島めぐり仮説とかを「発見」しちゃったのが古田武彦氏ww
それを後生大事に正しいと言い張り続けているのがザラゴキ
あと古田史学のインチキでひどいのが、陸行一月を半島上を陸行するという韓地陸行説ww
まあ、短里の時点ですべてでたらめなんだけどさ
夏の朝、目視で次の島に向かって漕ぎ出すだろ。
その方角とほぼ直角の左手から太陽が昇るわけだ。
だから南に向かうのだなと思うわけ。
>>877 >陳寿は勿体ぶった表現が好きなんだよ。
そんな話は聞いたことがないなww
それを明らかに示した論文とかあれば、紹介しておくれ
また素人のブログとかを紹介してくれるのかな(ワクワク)
>重要事項は最後にした方が印象が強い。
だったらどうして、邪馬壹國のところに書くの?
自郡至女王國、萬二千餘里のあとが最後じゃないの?
參問倭地、絕在海中洲島之上、或絕或連、周旋可五千餘里のあとが最後じゃないの?
獻上男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹のあとが最後じゃないの?
また、その場の出まかせ思い付きだよなww
九州説はなぜわざわざマウント取られにここに来るのだろう
>>878 >どう確定したの?
まあ、これから見つかる可能性は0ではないなww
纏向遺跡より大きな遺跡が見つかったら、もう一度このスレにおいでww
>>890 >そんな話は聞いたことがないなww
>それを明らかに示した論文とかあれば、紹介しておくれ
自分で魏志倭人伝を読めばわかるだろw
何、わからない?
漢文が読めない可哀想な人?
たいした数の竪穴住居が見つかっていないのに「列島最大の集落遺跡」w
畿内説って妄想だけはたくましいな
へえ
じゃ大した数の住居跡が見つかった遺跡ってどこ
そんで何戸
>>886 >それは九州説が畿内説より劣るからだ
畿内説の人の書き込みだと思うけれど、間違ったことを書いちゃいけないな
「九州説が畿内説より劣る」んじゃなくて「九州説は既に学説として存在しない」んだよ
だから、畿内説のやっていることは畿内説が正しいという主張ではなく
現在までの研究成果を紹介しているだけ
そして、九州説はそうした研究成果を「認めない、理由は僕チンがそう考えたから」って
書き続けているだけww
優劣じゃないよ
あえて言うなら有無?ww
【ポスドク】(人文系)博士号取得者の進路、「死亡・不詳」2割弱の衝撃 「役に立たない学問」を研究することは人生を棒に振ることか★3
http://2chb.net/r/newsplus/1555456716/ 【ポスドク・ネット婚活・統失隠蔽夫】文系の博士課程「進むと破滅」 ある女性研究者の自死 ★7
http://2chb.net/r/newsplus/1554911004/ >>900 纏向の住居跡は溶けて無くなってしまったんじゃね?鉄と同じでwww
>>889 >夏の朝、目視で次の島に向かって漕ぎ出すだろ。
出向地に潮待ちで何日か滞在している間に、夜に星を見れば北が分かるんだし、
その土地での方角も把握できるだろ?
どうしてそれを、朝起きたときの太陽の方角で上書きしなきゃいけないんだ?
それに、夏の太陽は真東よりも北から昇ることぐらい魏使さんなら知ってるだろ?ww
夏の夜明けで30度ずれてるってのも、九州説のご都合による「発明」だよ
九州説のご都合主義発明
・短里
・島巡り仮説
・韓地陸行説
・水行の起点は帯方郡
・夏の方角は30度ずれる
・国の間の距離は国境に着くところまで
・陸行一月は陸行一日の間違い
・渡海と水行は区別しない
これ、全部でたらめだよw
>>896 平塚川添遺跡・・・多重の環濠、竪穴式住居跡約300軒、掘立柱建物跡約100軒が確認
その他 九州に限らずいっぱいあるよ、纏向は何棟?
>>893 >自分で魏志倭人伝を読めばわかるだろw
>何、わからない?
はい、またまた「理由は僕チンがそう考えたから」ですね!wwww
本当に面白いな、こいつww
そして
「だったらどうして、邪馬壹國のところに書くの?
自郡至女王國、萬二千餘里のあとが最後じゃないの?
參問倭地、絕在海中洲島之上、或絕或連、周旋可五千餘里のあとが最後じゃないの?
獻上男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹のあとが最後じゃないの?」
には一言も触れずに逃げる逃げるww
典型的な九州説だなww
>>902 >これ、全部でたらめだよ
畿内説は距離も方角も全て間違いにしないと成立しないけどwww
4世紀に出現した纏向集落には、あまり、人民が住んでいなかった可能性が高いのではないのかな。。。
>>903 >平塚川添遺跡・・・多重の環濠、竪穴式住居跡約300軒、掘立柱建物跡約100軒が確認
それ、安本美典氏の邪馬台国の会お気に入りの遺跡だけど、小さいよ?
唐子鍵の4分の1以下くらいかな?
>>906 >>876によると列島最大の集落遺跡だったことが確定しているらしいんだけど、集落ってのは人が住んでいるってことやぞ
それともデカい建物の中でたくさんの人が共同生活していたのか?
>>907
纏向集落は、後の時代に天皇と名付けられた者が、滅ぼされた銅鐸王国の王家の怨念を封印するために祭祀を実行するための、人民の少ない疎らな集落だったのだね、、、
>>905 >畿内説は距離も方角も全て間違いにしないと成立しないけどwww
違うよ?
北部九州説が↓これ全部成立しないと成り立たないんだよ? 理解できますか?
・短里
・島巡り仮説
・韓地陸行説
・水行の起点は帯方郡
・夏の方角は30度ずれる
・国の間の距離は国境に着くところまで
・陸行一月は陸行一日の間違い
・渡海と水行は区別しない
そして、これらが全部でたらめかつ、そのでたらめを論証されてる
さらに、それを全部おいたとしても
「投馬国は女王国より以北の国」という魏志倭人伝の記述からの確定事項だけで
北部九州説は壊滅するww
集落というのは、現代の者が勝手に範囲を決めているので、広さよりも人口密度の高さが重要なのだったな。。。
>>911 >「投馬国は女王国より以北の国」という魏志倭人伝の記述からの確定事項だけで
伊都国は女王国の以北。それだけで畿内説は壊滅www
>>910 巻向は、たまたま、滅ぼされた銅鐸王国の王家が近くに住んでいただけの場所で、銅鐸王国の王家の怨念を封印するために、後の時代に天皇と名付けられた者に祭祀を実行させた真の権力者は、人口密度の低い巻向ではなく、人口密度の高い別の場所にいた可能性が高いな。。。
>>914 やはり、人口密度の低い巻向は、都ではないのだな。。。
>>1-70 なぜ、貴方は、頭が悪いのですか。。。
纏向は先進地域だったので、現代のマンションみたいに、大きな建物の中にたくさんの人が住んでいたのであろう
やっぱりスゲー都だwww
3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290 解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割~8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://2chb.net/r/history/1556294803/303 3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290 解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割~8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://2chb.net/r/history/1556294803/303 3031 ◆UiepmfCeDJqf 2019/04/28(日) 07:02:37.09
>>290 解説
単純計算だが、例えば75%の確率の独立な根拠が3つ、すべて一致して同じ結論を指している場合、 結論はベイジアンの計算で確率96.4%の妥当性を得る。
つまり、学問的に7割~8割信頼性の得られた状況証拠が3つ以上あって相互に因果関係がないと立証できるなら、その結論の信頼性は確率的に言って正しいと断定して構わないレベルに達し得る。
失われた過去の事実を推定する歴史学では「尤もらしさ75%」というようなかっちりした数値が得られるものではない。
しかしながら、多数の独立した根拠を整合性を保って説明できるなら、その結論の蓋然性は蓋然性を超えて、断定に耐えるほどの信頼性を獲得する。
つまり、確認可能な事実に基づく合意的推定「○○であろう」を複数積み重ねて、断定「○○である」が得られる。
この推定の合理性を否定する論証のできない状態を「合理的な疑いを挟めない」状態という。
それが歴史における帰納である。
http://2chb.net/r/history/1556294803/303 邪馬台国畿内説のスレッドに、嘘だらけのテンプレートを、貼り付けている、3つの独立の根拠があれば、そこが邪馬台国だという、自称ベイジアンの発表した意見のどこがおかしいか発表します。。。
真実のロシアのルーレットの思考の実験を読めば、普通の頭の者なら、理解できます。。。
架空の世界に、12丁の、色の違う、4発発射できる、回転式の架空の拳銃を使ってルーレットをする架空の会場が、開場しました、、
赤の拳銃、緑の拳銃、青の拳銃、そして、その他の9色の拳銃が用意され、どちらが運が良いか決定しようとしている、架空の奥山氏と、架空の類奥山氏が、入場しました、、
緑と青、そして、その他の赤以外の9色の架空の拳銃の専用の弾は、的を死体にはしないで、本体と同じ色をつける、絵の具の弾です、
赤の架空の拳銃は、的を死体にする専用の弾を、発射します、、
ルールがありますが、不公平です、、
架空の奥山氏は、どの色の拳銃を使用するときにも、空にしたあと弾を3発込めて、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
架空の類奥山氏は、奥山氏の頭に色が付かなかった時は、その色の拳銃を使用するときには、弾を4発込めて、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
架空の類奥山氏は、架空の奥山氏の頭に色が付いた時は、空にしたあと、ルーレットをして、自分の脳に発射します、、
拳銃は、奥山氏から初めて互いに交互に、緑、青、その他の赤以外の9色、最後に赤と撃ちます。
最後に生きている方には、架空の睡眠銃で睡眠弾が発射されます。。
架空の生物にはクマモンという着ぐるみを、死体には、、巻きぴょん、、という着ぐるみを装着させます。。。
拳銃の数を知らない、奈良の小汚い自称考古学者が出現し、巻きぴょんの中身だけを調べました。。。
巻きぴょんの頭部が、緑と青と赤だけで着色されていたら、それが奥山氏の確率は、ベジタリアンとベジタリアンでは無い者では、それぞれ、どのような、計算結果になるでしょうか、、、
架空のロシアの会場の巻きぴょんの頭部が、緑と青と赤だけで着色されていることで、奥山氏かどうかを判定することは、、、
つまり、着色の可能性の全体を無視して、緑と青と赤という要素だけで、全体を予想する、、、
という、破綻した要素還元主義が前提になっているのだったな。。。
邪馬台国畿内説は破綻してしまい、奥山氏は自殺体になった可能性が高いので、追悼のために、スレッドを作成しました。。
http://2chb.net/r/history/1566043735/l50 邪馬台国畿内説を宣伝する係員の奥山氏への弔辞を発表します。。。
奥山氏、今、僕達はあなたにお別れを告げようとしています。数時間前、討論していた時はあんなに元気だったのに、、、突然、自殺体になろうとは、誰が予想できたでしょうか。
振り返ってみれば奥山氏と僕達との出会いは、5ちゃんねるの掲示板でした。偶然に僕達がスレッドを覗いた事がきっかけで、魏志倭人伝時代についての討論会で一緒に過ごしました。
奥山氏は、あの時からずっと変わらず卑劣な論敵でいてくれました。そして、奥山氏はいつも僕達に論破されましたね。。。僕達にとって奥山氏は、頭の悪さを楽しませて貰え、笑えてリラックスさせられる存在です。
奥山氏が頑張っているから、僕達が癒される、、、いつもそんな思いで生きてきました。
奥山氏、どうぞ安らかに眠ってください。また、天国であなたと討論できる日までお別れです。
古墳が出現した頃の纏向は、前の時代の支配者の魂を封印するための場所だったので、
後の時代に崇神天皇と呼ばれた人物は、日本国の真実の大王ではなく、前の時代の支配者の魂を封印するための責任者だった可能性が高いな。。。
496
>>556 大和説は、「南≠東」などに一言も反論できなくて
死にたいくらいみじめな気持ちになんないの?
496
>>558 必死に「南≠東などの嘘付き騙しをゴマカすを大和説
生命線絶たれたな
>>653 >ただ、国の位置関係を地誌記事として書く時は中心国邑間の
>二点間距離・方角で記すので、鶏知より北に対馬国の中心があって
>そこから渡海の好適ポイントまで岸沿いに南西に向かって、
>そこから渡海した場合でも鶏知より北の対馬国の中心からの方角になるのが原則
原の辻に向かう方角は135±22.5度が東南だから、157.5度以上だと南
南方向になる条件を満たすには、中心国邑が上県の東北側と狭い地域に限られる
この条件を満たそうとすると、狗邪韓國からの千余里、一支国への千余里が比率的に満たせない
それに対馬で首長墓クラスは美津島町ばかりだ
やはりここでの方角は八分法では書いていない
壹岐対馬あたりの記事と九州上陸後の記事は別ソースから合体したと考えるほうが自然だ
496
>>576 >陳寿が投馬国は女王國以北と書いているのだから、<
書いてないから、×。
496
>>583 >合理的だよ?・・・
この図の網掛けのところを通って丹波と畿内をつなぐ訳だ<
「南≠東」などに拠って、類スレ主は、×。
496
>>584 >明らかに瀬戸内ルートが合理的だよな
前方後円墳に吉備の影響はあるのに出雲の影響がないところとかも<
「南≠東」などに拠って、×。
邪馬台国畿内説は破綻してしまい、奥山氏は自殺体になった可能性が高いので、追悼のために、スレッドを作成しました。。
http://2chb.net/r/history/1566043735/l50 >>902 >出向地に潮待ちで何日か滞在している間に、夜に星を見れば北が分かるんだし、
あまり潮待ちで時間を費やしたりはしてないんだろう。
そもそも潮待ちしたというのが根拠のない想定に過ぎない。
496
>>585 >ここで言う「伊都国の南」は「陳寿の認識での南」であって「現実の地理上の南ではない」 それだけのこと<
魏の役人らや陳寿のような普通の成人人類は、「東西南北」はほぼ間違えない。
それだけの事であり、
類スレ主は、×男。
>>902 >夏の夜明けで30度ずれてるってのも、九州説のご都合による「発明」だよ
魏志倭人伝の方角がズレているという事実を説明するための仮説だよ。
畿内説みたいに、誤差があるから無視して好き勝手な妄想に置き換えてよい、などとはかんがえない。
496
>>586 >つまり「其余」国以外は 戸数{戸,家}と 道里{里,日}が得られているのだ
投馬国は女王国以北だ <
陳寿は、九章算術とは違って、「道里」と「日数」とを違うモノだとして書き分けているから、
類スレ主は、×。
>>906 竪穴に限らなくてもいいよ?
纒向には全部で何棟の建物があったの?
仮説と事実の区別がつかずに、妄想で置き換えてもよい、妥当などと嘯くのが畿内説。
魏志倭人伝の記事を検討し、なぜそのような記事が書かれたのかを考察するのが九州説。
496
>>590 >だいたい日本海ルートなんて古事記の出雲神話の出雲と越の神話
九州←→出雲←→越 の鉄と翡翠の交易ルート
播磨の国風土記の半島から来た神の淡路に製鉄伝えた話ぐらいか?
神武以降は瀬戸内ルートだし、庄内式と前方後円墳の流れでも瀬戸内ルートが濃厚
日本海ルートは奈良へ行くルートとしては不適<
成程。
邪馬台国畿内説が完全に破綻したとするのが、妥当、、、
>>909 >集落ってのは人が住んでいるってことやぞ
そんな定義はない
纏向集落は、最盛期には20件程度の疎らな集落だったな、、、
>>913 >伊都国は女王国の以北。それだけで畿内説は壊滅www
これ、頭悪いな、としかw
畿内説では、方角は陳寿の錯誤であるときちんと論証してあるから、
現実の地理とは一致してなくてもまったく問題ない
たったこれだけのロジックが理解できないんだから、
>>913は知的能力がミニマムなんだろうなとしかww
>>941 >>集落ってのは人が住んでいるってことやぞ
>そんな定義はない
出た!脳内定義!!
共同生活を営むための住居の集まりが集落やろw
496
>>600 >>その直後に、道里の締めとして、自郡至女王国萬二千余里の里数記事あり。<
>不屬女王の狗奴国のあとだから狗奴国まで含めた倭人の地全体に
関するざっくりした距離感が書いてあるだけだよ <
不彌國で「萬二千余里」がほぼ終わる記載されており、
「ざっくりした距離感」として書かれていないから、
類スレ主は、×。
>>942 100人ほどの人民が馬を飼っていたのだったね。。。
>>942 纏向集落は、魏志倭人伝時代が終わった後に出現し、最盛期には20件程度に発展した疎らな集落だったな
>>932 >あまり潮待ちで時間を費やしたりはしてないんだろう。
>そもそも潮待ちしたというのが根拠のない想定に過ぎない。
通信手段もない時代に、渡航地まで来てその日に出航は不可能だってのは理解できるか?
そして、天気のいい日に出発だからその前の晩には夜空が見える訳だ
一晩晴れた夜があれば、方角は確認できるんだぞww
それこそ地元の人に聞いてもいいし
夏だから夜明けの太陽にあわせて東が30度ずれるとか、
バカしか信じないでたらめだww
ああ、バカだけじゃないな
ご都合主義で自説の都合のためならどんなに理不尽でも言い張る厚顔無恥な人も
信じてるっていうだろうね
>>932みたいな恥知らずは信じる(って言い張る)ww
>>927 そんなにがんばるところか?
>壹岐対馬あたりの記事と九州上陸後の記事は別ソースから合体したと考えるほうが自然だ
南北巿糴を、東南西北巿糴って書いてたら意味が通りにくいから、南北って書いた
くらいのことだろ?
>>932 >そもそも潮待ちしたというのが根拠のない想定に過ぎない。
潮待ちしないで対馬海峡を渡るのは物理的な無理
近世でも風待ち潮待ちにどれだけ日時を費やしたか知れば分かることだ
あまり潮待ちで時間を費やしたりはしてない
とか言い出すほうが根拠のない想像
496
>>610 >大和にだけ行くのが目的なら瀬戸内ルートだが、
魏使さんの職務には倭国の情勢調査・報告も入っている
倭国第二の大国、投馬国・出雲を検分するのが当然で、
そのための日本海経路なんだよ<
「南≠東北」で、類スレ主は、×男。
>>934 >魏志倭人伝の方角がズレているという事実を説明するための仮説だよ。
その、あまりに不合理で
成り立ちようのない仮説に頼らないと
成り立たないのが九州説
というわけだ
あきらめろ
邪馬台国畿内説は、魏志倭人伝時代が終わった後に出現し、最盛期には20件程度に発展した疎らな纏向集落が、卑弥呼の都だという、あまりに不合理な仮説なのだったな。。。
496
>>612 >書かれていない
萬二千里は、オーストラリアまで8000キロと同じ、
倭国全体までの概略の距離を示すもの <
類スレ主は、またここでも「余」を隠すインチキをやっているから、×。
「余」がある、という事は、魏の役人たちの記録からの「近似値」化の処理があった事を示し、
魏志倭人伝は、淮南子を踏襲していなかった、という事の証拠。
>>954 魏志倭人伝時代が終わった後に出現し、最盛期には20件程度に発展した疎らな纏向集落が、卑弥呼の都だという、あまりに不合理な仮説を宣伝することは、諦めた方が良いな。。。
496
>>612 >「陸行一月」は東治⇔東冶間の転用、「万二千里」は帯方郡⇔東冶間の転用か!<
南北里数が全く合わないから、×。
>>949 >南北巿糴を、東南西北巿糴って書いてたら意味が通りにくいから、南北って書いた
>くらいのことだろ?
それで実際は東南なのに「又南渡一海」と書くの?
そんな精度の史料じゃあ
方位と里数だけ頼りにして邪馬台国の位置を決めるのは
諦めるしか、ないねえ
>>953 数ある可能性の一つだとは思うが、
まあ、東を南と間違えましたってのよりは数段ましやな。
496
>>614 それを「否定する具体的な論証」ができないなら、
いくら反論した気になっても無意味だよw
大和説の人は、「南≠東」などに対する具体論から逃げ続ける無能
>>908 唐古・鍵遺跡で竪穴式住居跡、掘立柱建物跡 いくつ見つかってるの?
またね、平塚川添遺跡建物の基礎の画像載せておくけど、
纏向の掘立柱建物は基礎がしっかりしてない(土を固めた程度で耐久性を求めていなく平屋の可能性大)
http://inoues.net/ruins/hiratuka.html 496
>>631 >陳寿の認識と現実の地理が一致していなくても、
投馬国は帯方郡から女王國までの間に位置することになるって<
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、
投馬國への「南へ水行二十日」では、投馬國は、女王之所都の南にある事になる。
>>876 歴博の結果を真っ向から否定してて草
がんばって3世紀中頃にしようと努力してるのに2世紀末に庄内3?式じゃ困るだろう
いまこのスレは誰が立ててるのかな?
奥山くんは左遷くらったらしいがw
炭素14年代法は、優れた物理学者から見れば、笑いリラックスさせてくれる物事なのだったな。。。
496
>>653 >萬二千里という距離は倭国までの距離感を示す数字で
倭国内の特定点を指してはいない<
「南→東北」の嘘つき騙しの類スレ主は、まだ「余」を外して、誤魔化している。
「萬二千余里」と「余」が付いていたんだから、
魏の役人たちの計測値を近似値化した数字であった、という事になる。
>>966 >「萬二千余里」と「余」が付いていたんだから、
そんな法則ないし
畿内説の人によれば、人が住んでいなくても建物が建っていれば「集落」と呼んでいいらしいw
496
>>661 >投馬国は北部九州と同じレベルの情報が得られてたんだなww
つまり、魏使が直接検分してるってことだ<
ダメだ。
「至」の前に移動があった事を示す文言がないし、
海峡の水行はきちんと「里数」で計測しているのに、
投馬國は「水行二十日」と書いていて、「日数」になっており、
だから、投馬國へは、魏の役人らは「行っていない」。
496
>>666 >萬二千里という距離は倭国までの距離感を示す数字で
倭国内の特定点を指してはいない<
「余」を勝手に外してはいけない。
「萬二千余里」は、魏の役人らの計測値を、近似値化されたもの。
496
>>693 >投馬国は女王國より以北の国ww
破綻してるよw
九州説は基本的に妄想だから魏志倭人伝の記述はガン無視w<
投馬国は、女王國までの萬二千余里がほぼ終わった不彌國から南へ水行二十日だから、
女王國より以南の国。
類スレ主や大和説らは、基本的に妄想だから、
魏志倭人伝の記述はガン無視して破綻してるよして。
>>934 >魏志倭人伝の方角がズレているという事実を説明するための仮説だよ。
ずれているんじゃなくて、方角記述は「おかしい」んだよ
何かルールがあってずれてるんじゃなくて、すべて適当
最初「30度ずれている」と言っていたのに「30度」を抜いてごまかしてるww
「仮説」じゃなくて都合の悪いところを糊塗するために「発明」された
ご都合主義の産物だよww
九州説の中ですらそれほど人気はないデタラメw
歴史を今まで通り調べるより人がどう生きたか動物となど調べる方が歴史的だと思う。
>>959 >数ある可能性の一つだとは思うが、
>まあ、東を南と間違えましたってのよりは数段ましやな。
黒歴史?ww
>>466「実際に30度時計回りにずれてるという結果から導き出した過程だ 」
実際に30度時計回りにずれてるという『結果』wwww
可能性じゃなくて『結果』らしいよww
夜明けの太陽で東を決めるっていう「論文」はいつ出してくれるんだろうねww
まあ、こう書くと「夜明けの太陽で」っていうのが可能性で、
30度ずれてるのは結果って言い出すんだろうけれど、
「30度すれてる」で済ませられるのは、3海峡渡海の部分だけ
でも、その部分に関しては、
>>450で自ら書いているように
「対馬は目視できるんだから船頭に聞くまでもない」し、
夏至の夜明けに拘束されず一年中見えているんだから、30度すれる理由はない
もちろん対馬ー壱岐間、壱岐ー東松浦半島間も、目視できる
そして、三海峡渡海を除くと、現実の地理と魏志倭人伝の方角が
「30度ずれている部分は一箇所もない」んだよww
>>968 >畿内説の人によれば、人が住んでいなくても建物が建っていれば「集落」と呼んでいいらしいw
人が住んでいない例えば砂漠のど真ん中にたくさん建物その他が存在していたらびっくりだよww
人がいないところに建物を立てる人はほぼいない
まあ、最近ではGDPを維持する目的で鬼城と呼ばれる人の
住まない建物を建ててる国もあるようだけど
>>974 纒向ではちっさなカエルを食ってたとか?
496
>>695 >魏志倭人伝の想定では、大月氏に匹敵する大国なんだよ 周旋五千里もある
秦漢の大帝国が、南北萬二千里という設定だから、
漢帝国内の最大の封国の匹敵するくらいの大国という記述になってる<
これも×。
倭人伝は、淮南子とは違って「余」を付けており、
魏の役人らの計測値があって、それを「近似値」化されていた事になり、
淮南子も、一寸千里を知っているから、自らも計測して断定値化していた、
という可能性もある。
>>903 ではそこは
7万戸とされる邪馬台国じゃあない事は明らかだな
496
>>696 >卑弥呼の共立後、墓制も首長継承儀礼も前方後円墳祭祀で統一されてるんだから
魏使が来るころにはそうそう大きな差もないだろ<
卑弥呼の墓は「冢」であり、前方後円墳ではないから、
「墓制も首長継承儀礼も前方後円墳祭祀で統一されてる」事にはならず、×。
>>978 余がついてるのは逆に計測された数値ではない証拠
496
>>702 >投馬国の日数表記が道里であることの傍証を教えてくれてありがとう <
投馬国の日数表記は、道里になっていないから、×。
>当然に、投馬国は女王國より以北の国ww <
当然に、投馬国は女王國より以南の国。
お前の言っている女王と、
もれ(仮)の言っている女王というのは別物なんだけどな
邪馬台国、倭人?は土人(悪く言うと)だと書いてあるだろう
>>943日本@名無史さん2019/08/22(木) 15:53:20.32
>畿内説では、方角は陳寿の錯誤であるときちんと論証してあるから、
>現実の地理とは一致してなくてもまったく問題ない
つまり、
>>943が云いたいのは、
倭人伝の行程記事は陳寿本人の錯誤に基づいて書かれているが、
もし、その記述通りに進むとすれば、末盧国東南陸行500里で到る伊都国は、
今、遺跡らしいものは何もないけれども佐賀川上と云うことになる。
依って北部九州説はない。 そういうことだ、、。
>>948 >ご都合主義で自説の都合のためならどんなに理不尽でも言い張る厚顔無恥な人も
君は畿内説という結論を先に用意して、それに合わない記述はすべて無視するだろ?
こちらは魏志倭人伝がなぜそのような記述になったのかを考察しているんだよ。
>>977 >纒向ではちっさなカエルを食ってたとか?
それ関係で、よく歯型のついた蛙って書いてる人いるけど、ソースある?
カエルの大きさからして、無理だろ?
>>949 >南北巿糴を、東南西北巿糴って書いてたら意味が通りにくいから、南北って書いた
はあ?
対馬海峡の東西には何もないぞ?
南南東-北北西巿糴とでも書けばいいのか?
大雑把に南北だろ?
>>979 >ではそこは
>7万戸とされる邪馬台国じゃあない事は明らかだな
七万戸は、畿内第V様式土器の範囲だよww
纏向遺跡=邪馬台国じゃないと何度言えばww
東京都庁に1000万人住んでないから東京じゃないって
言ってる人がいたら、バカだと思うだろ?
九州説の人はそういう目で見られてるんだよw
>>951 >潮待ちしないで対馬海峡を渡るのは物理的な無理
>近世でも風待ち潮待ちにどれだけ日時を費やしたか知れば分かることだ
仮説は結構だが、事実と混同するなよ。
「私は潮待ちをしたと思います」
だろ?
それを「潮待ちした」と断定するのは誤りなんだよ。
なぜ田舎、途上国(当時の日本)に出稼ぎに来ないといけないんだw
と言っていたでしょ
>>953 >成り立ちようのない仮説に頼らないと
>成り立たないのが九州説
違うだろ?
九州説だろうが畿内説だろうが、対馬海峡の方角が実際とズレているのは確かなのだから、その原因を考察しているんだよ。
畿内説みたいに結論が先にありきではない。
>>987 なぜ邪馬台国の場所が現実的ではない帯方より南1万2千里の会稽東治の東と書かれているの
>>958 >それで実際は東南なのに「又南渡一海」と書くの?
>そんな精度の史料じゃあ
>方位と里数だけ頼りにして邪馬台国の位置を決めるのは
概ね南だし、現地に来れば目視できるから、次に来るときに迷うことはない。
出稼ぎ、どこから給料(のようなもの)が出ていたんだ?
池沼『❓』?
>>973 >ずれているんじゃなくて、方角記述は「おかしい」んだよ
だらその「おかしい」理由がわかれば、元のデータも復元できるだろ?
距離も同じだよ。
一里の大きさを逆算して総距離に当てはめれば、九州か畿内かなんてはっきりとわかる。
>>987 >こちらは魏志倭人伝がなぜそのような記述になったのかを考察しているんだよ。
そのw考察wwがww、「夏は日が北よりに上るから方角が30度ずれる」wwwwwww?
とてもww、ご都合主義www満載なww考察wwwwwですねww
方角は夜に「北極(星座)」を見れば分かるだろ?ww
太陽や星で方角を定める「天測」は基本だが、北半球では北極が認識できれば、
方角は間違えないw
陳寿が倭国を南方だと認識していることは、会稽東冶之東、與儋耳朱崖同から分かる
そして、それが現実の地理と合わないのも現実
考察のスタートはここからじゃないと
畿内説はここで、列島上を帯方郡から離れる方角を南と記述してある、とみなす
九州説では、九州島が南北にずっと長いと考えられていたとか言う人もいるが、
その場合、北部九州ではありえないww
そして、九州島が南北に長いという場合でも水行、陸行は帯方郡からとか
道理・道里ともに合わないことを言うww
九州説は基本でたらめww
496
>>718 >魏志倭人伝の方角は正しいという
(これは畿内説を「南」の一字で否定するために九州説的には必要)<
魏の役人らの実地の見聞計測内容であるから、正しい確率が非常に高い。
>末盧国・伊都国間の方角がおかしいと「具体的な事実」を指摘される<
「東南」も末盧國からの出発時点での出発方向記録であるから、
「正しい」確率が非常に高い。
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者や類スレ主は、
・・・・アホ詐欺師である確率も非常に高いや。
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