そんなこと言ったらエニックスなんてロリコンゲーム作ってたし
小鉄→アントニオ→お好み焼き屋のおっちゃん→バクチ→花札
繋がった
任天堂も関西電力と同じ構造だよ
なぜか下請けの方が強い
サイコロに細工したり、自動で点数計算する装置が任天堂が電子化したきっかけ、かもしれない。
花札なんて賭博の代名詞だもんな。
現代の賭博の代名詞『パチンコ』の台を作ってるメーカーって反社勢力との関わりはどうなんだろ?
トランプも山内博の前の代は
ギャンブル用として売っていたな
>>29
明治日本って競馬は一般的だったの?
丁半か花札か将棋じゃないの? 一応言うがファミコン以降の総務部長は府警四課課長の天下りだから会津傘下の右翼がイチャモンつけてきた時撃退してるし離れとるぞ
今のヤクザは警察と争うよりむしろ警察へ通報合戦だからな。
紫のスーツ率が高いというセンスがカタギ感満載ですよね!
光線銃、ブロック崩し、ゲーム&ウォッチ、そしてファミコンと
子供向けに技術注ぎ込んでいく感じは強かったなあ
その前はラブテスターだっけ、それはしらん
山内任天堂は正面通り
会津小鉄は花屋町通り
50メートルも離れてるじゃねぇか
>>23
任天堂はまだそれはそれで語られる過去の歴史、みたいなよく分からんなりのがあるけどSEGAは表に出しちゃいけない話しがありそう >45 会津の殿様の屋敷周りが地盤で可愛がられた小鉄って侠客が初代だから会津小鉄、ただ名跡は消えて昭和中期に勝手に中島会って組の親分が復活させた
子供の頃買ってもらったキャンデーマシンていう綿菓子作るやつが任天堂だった
>>41
部下が作った試作機を渡された瞬間地面に叩きつけるヤクザ 会津小鉄会って今でも存続してるのな
構成員70名だってよ
>53 今は二つあるよ 山健が協力してる派と弘道会傘下
いうてもこの時代は西本願寺の隣に日蓮宗の本山があった時代だからなぁ
昔のことを今の価値観で批判するのは任天堂のアンチと韓国人ぐらい
昔、どういう建物か知らないけど七条から四条方面に歩いていたら路地の中に任天堂と書かれた建物があり、その周辺でおばあさんに「お兄さん、遊んでいき」って言われた。
あれは今思えばちょんの間的な何かなのか?
チンチロリン用の456目のサイコロとか1だけのサイコロとか作ってくれんのかな
昔は任天堂も手本引きの札を普通に製造してたからなあ
それを今になって騒ぎ立てたところで、「それがどうした?」ってなもんだよ
>>10
エニックスは販売だけ
実際に作ってるのは別会社 子供の頃、花札、トランプ、麻雀って税金かかってたから高かったよね
花札もだけど、株札は893ぐらいしか使わないんじゃないの?
まぁ山内時代は商売の仕方がヤクザのショバ代みたいなロイヤリティだったからな
>>66
当時は社員の個人制作だと思うぞ。
後のドアドアだって個人制作だし。 >>72
エニックスは社内に開発者が一人もいなかったから社員の制作じゃない
ドアドアはエニックスの最初のソフトだから後じゃない
というか当時は創業メンバーにプログラマがいない限り大体どこの会社も外注だった
任天堂でさえ90年代までプログラマが一人もいなくて今でもマリオやゼルダのメインプログラムは他社が担当してる ここまでナムコ無し
マッピーでネズミのお巡りさんマッピーを
ニャームコが追い回す仕様になってるあたりで察するべし
ヤクザの源流は博徒と的屋
花札は博打に使う
任天堂は花札屋
>>64
マジか!あんなただの路地で!
BBAが出てこないなら一度くらい遊んでみたかった 博打 → 花札 → トランプ
戦闘員育成 → レーザークレー射撃
賭博予想 → EVRレース
偶然じゃないぞ。手本引きの札、サイコロとか必需品だろ
>>67
そういえば学生の頃はコンビニのトランプってレジの内側の棚で売られてたな 山内氏なんてどう見てもおもちゃ屋のツラじゃなかつたし
>>73
>任天堂でさえ90年代までプログラマが一人もいなくて今でもマリオやゼルダのメインプログラムは他社が担当してる
なんか話を曲解しているよ。
スーパーマリオブラザーズやゼルダの伝説を作った情報開発課は
宮本茂らのデザイナーたちのデザイン専門部署が母体だったため、
元々プログラマーがいなかった。
他部署は忙しいし、プログラマー育成する時間もないし、
よって課内でデザインして社外にプログラミングを任せるスタイルに最初からなった。
ゼルダを作った後に課内に新卒プログラマーを配属して育成しはじめた。
他部署は普通にプログラマーいたよ。
開発第一部にも開発第二部にも開発第三部にも。
ゲーム&ウオッチは任天堂の社内プログラマー作。 >>72
ドアドアはチュンソフト(当時は中村光一の個人会社)開発だろ
エニックスは販売だけだぞ 昔は初心会という一次問屋集団を通さないとファミコンやスーファミのソフトを卸してもらうことはできなかった
勿論ちゃんとした問屋さんも多かったが中には倉庫すらないオフィスに電話だけというとこもあったという
「初心」てのは花札やジャンパイやらをつくってて付き合いがあった頃を忘れるなよという意味だったのだろう
右から左に受け流すだけだから相当いいシノギになったらしいよ
>>93
【任天堂初心会】
・任天堂ハードで出すゲームは、カセットロムの製造を任天堂に委託する必要があった。
一応、「任天堂の製造ラインによる一定品質を担保する」という理由がついており、またそれが健全に機能していれば問題はなかった。
だが当時の任天堂は調子に乗って任天堂に生産してもらう以上は任天堂による脅迫的なチェックが入り、そのチェックがヤクザじみていた。
特に弱小ゲームメーカー相手にした時の態度が非常に横暴で、もはや土下座して任天堂に頭を下げている時代だった。
ゲーム販売店にも、大手ソフトを入荷するならクソゲーも大量に入荷しろという在庫の押し付けまでして小売を脅迫した。
当時の流通は発達しておらず、発注数=入荷数とはならない時代でソフトはたくさん売れてもカセットロムは量産性に劣り供給不足になるのは当然だった。
では、足りない在庫を優先的に割り当てる先がどこになるかというと当然大手の販売店となる。
すると、後回しにされる弱小の小売店はどうするのか。
当時は個人経営もたくさんあった時代なので弱小小売店というのは今の比にもならないくらい沢山いた。
彼らが大手の大作ソフトをより多く供給してもらうためには、自分も任天堂の優良顧客になる必要があり、結果として「クソゲーでもとにかく発注して媚びを売る」必要があった。 >>45
新撰組が元々のルーツだからな。
>>94
今の名作と当時のクソゲーの販売本数比べてプレイ人口減とかとても言えんわな。 花札屋からよくここまで転身できたな
ゲームウォッチに目をつけたのはシノギの嗅覚
京都に行ったか、京都や世田谷に一時的に住んでたか?
背任絡むからね
どっちみち刺青彫ってる34歳から38歳
どっちみち刺青彫ってる34歳から38歳
どっちみち刺青彫ってる34歳から38歳
>>1
40年前の任天堂の社長宅は
正しく山嵐だった >>96
100年以上の日本の老舗だからね?外国人はみんな頭が悪くてキリギリスのような生活だから100年以上の会社は滅多にないらしい(笑) タイトーとかも
あの場所よく社屋にできたなぁて言われてたな
>>34
かなりの賑わいだったみたい
上野の不忍池は元々競馬場だし >>63
まだ作っているはず
東京都内では奥野かるた店で買える 博打に使う札はキズが目印になるのでどんどん取り換えないといけない
というわけでいいお得意様だった
いまはそんな博打は文化遺産
>>17
初代が幕末に京都守護職の地位にあった、会津藩主松平容保の屋敷に出入りしてたから
で、小さいのに腕っ節が良かったから小鉄