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8月14日にNHK・BSプレミアムで放送される“ドラマ×マンガ”『あとかたの街 12歳の少女が見た戦争〜』(後9:59〜10:58)のマンガパートを担う声優が発表された。
同番組は、1人の女性マンガ家が、当時12歳だった母親の戦争体験を作品として完成させるまでの日々を描くもの。主人公のモデルは、日本漫画家協会賞コミック部門大賞を受賞した『あとかたの街』の著者・おざわゆき氏。
そのマンガを随所に織り交ぜながら進行する新感覚のドラマ。
主人公の少女・あいの声は花澤香菜。あいが思いを寄せる男の子・洋三役は花江夏樹。あいの親友・花役は早見沙織が務める。
ドラマパートは、マンガ家・おざわゆき役を木村多江、編集者・佐藤役を桐山漣、母・あい役を吉行和子が演じる。
https://www.chunichi.co.jp/article/97595/ 84のばーちゃんが自分の耳が悪いのは空襲の爆音のせいだと言ってる
父親曰く、昔は聞こえてたから年だろと
80年代までテレビの8月は痛々しい戦争の記録映像だらけだったのにな
左翼はくだらん番組やめて仕事せえ
満州がえりなら聞いたよ
船ひとつ間違えたら魚雷でやられたってさ
母方の爺さんは大陸へ2回出兵した
馬に跨ってサーベル持ってる写真があったとカーチャンから聞いた
戦場ではヘリを飛ばし、戦車を走らせた。100万ドルの武器を任された。
支那で戦ってる時上空で隼とグラマンが空戦してて皆で応援したが隼が落とされ悔し涙したって
太平洋戦争が辛かったのは半年か一年、それも都市部だけの話
やばいのは新型コロナウイルスが感染爆発している今が戦時中
軍隊手帳の最初の何ページかを暗記できないと殴られたとか
じいちゃん満州で糞穴掘る当番だったんだって
冬はウンコも凍っててその時はいいんだけど、凍ったウンコのかけらが服に付いて寝るときになると溶けて滅茶苦茶臭かったって言ってた
オヤジから聞いたけど、空襲の後の川の死体がすごく多かったと。
>>3 似たような言葉で
地獄なんて、あの世にはないよ、地獄はこの世にある
ばーちゃんが言うと、本当に怖かった
戦争から無事に帰って来た人たちってやっぱ現地で人を殺してきた人殺しなんだよね?
小学生の頃近所のお年寄りから戦争の悲惨体験を聞く授業が小学生の頃ありました
従軍慰安婦の話
売春婦って国賊だから捕まえて連行してまとめて木に縛る遊びが流行ってたんだって
ひと晩たったら半分ぐらいが獣に殺されていて他は行方不明になってひょっこり戻ってるんだって
一ヶ月後にまた同じ遊びを嗜むって話
うちのお袋が89歳なんだが、世田谷で夜に高射砲?で落とされたB29が
キラキラしながら落ちてきて家族をほったからして畑を駆けて一目散に
逃げたんだと。全然違うところに落ちたらしいけど。
徴兵されてまずは中国
満期除隊後再招集されてニューギニアに行って生きて帰った
東京大空襲の時皆んなと逆に方に逃げたら助かったらしい
流されていたら死んでた
・ど田舎だったから、戦火に巻き込まれた事がない(爆弾の一発も落ちてきた事がない)
・ウサギは貴重品(肉も皮も余さず利用出来るから)
・自分ちで米作ってたから、戦中戦後通して食い物に困った事がない。
・玉音放送の内容は訳わからんかったけど、「戦争に負けたんだな」と言う事だけはわかった。
以上、婆ちゃんから聞いた話。
兄弟は6人いた
目の前で肺炎で死んだ
なら聞いたな
P-51の12.7mmで冗談半分に子供撃ち散らしてたってさ
海軍の研究室で働いていた時は戦時中でもお菓子が貰えたって
>>22 うちのおばあちゃんも世田谷だ、高射砲陣地があったから避難訓練は徹底してやったそうで…(´・ω・`)
20年くらい前に、くも膜下出血で入院した時、大部屋で毎晩18時きっかりに「隊長!報告します!」と大声で、何も報告しないじいさんがいたな
ソ連の捕虜になった爺さんは何も教えてくれなかった
地獄を見たんだろうね
でも、ロシアを悪くは言わなかった
露助露助いってたけど
友達の爺ちゃんの尻には傷がある
その爺ちゃんが言うにはジャングルで味方を守るために負った名誉の負傷なんだけど、バーチャンが言うには夜中の斥候中に喉が乾いて原住民の家に忍び込んで水飲んでたら見つかって逃げる途中で弓矢で撃たれたらしい
帰ってきたら、空港にデモ集団から痛烈な批判を浴びさせられ駐車場の警備もさせてくれない
豆タンクで中国駆け回ってたじいちゃん
紅軍は逃げ回るから空砲しか撃ってなかって
死んだじいちゃんは病気の妹といっしょに病院で空爆をやり過ごしたらしい
結局14歳のときに死んで泣きながら火葬場まで背負っていったんだと
滋賀県の草津の工場でお昼ご飯食べたあとに皆で卓球やって自分は負け知らずだったって
ばあちゃんがよく自慢してた
うちのひい爺さんは戦争に駆り出されたが無事帰還
しかしその後すぐ農作業中に噴霧器をシュコシュコしすぎて破裂、体ごと吹っ飛び、この世を去った
会ってみたかったな
祖父は飛行機工場の技術者だったらしいが、空襲のとき図面か何かを取りに戻ってそれきり行方不明になったらしい。
そのまま逃げときゃ良かったのに。
俺の爺ちゃんは自費出版で自分の従軍体験を書いてたな なかなか面白かったよ
爺様は南京に行ったとき中国人の死体が一体転がっていたので銃剣って本当に刺さるか試したそうだ
ズブズブ刺さったら怖くなって蜘蛛の子散らすようにみんな逃げ出した
それ聞いて南京大虐殺なんて嘘だと思ったな
耳の遠い隣のばあちゃんが警報無視して畑仕事していたら
空爆帰りのコブラに挽き肉にされた
うちのじーさん船乗りの船長だったわ
外人とポーカーしとる写真あるよ
中国の田舎の方に行かされたけど、結局戦闘がなく、毎日馬に乗ったり、地元の中国人に絵を教わったりしてただけだったって。
帰国する時は食料を貰って上海から船で帰国したって。
俺の嫁の実家が広島で。
新婚時に
義理の父親の家で、
義理「お酒も呑んどるし、話していなかった、ピカドンの話をしようかの?」
お前ら
重いけど聞きたいか?
>>21 俺も中学生のときに歴史教師に慰安婦が輪姦される話読まされてギンギンに勃起したわ
今思うとブサヨ教師の工作教育だよな、中学生に輪姦話読ませるとかギリギリだおr
曽祖父は水兵だったけど戦場に行く寸前で終戦になった
それと祖父は疎開するときに母親とはぐれそうになって、大したことないように思えるけど本人は死を覚悟したらしい
ひいおじいちゃんは食料の倉庫番だったらしくて戦時中の白黒写真はのんびり畑で寝っ転がってて笑った
軍服はそれっぽいの着てた
親父が何時も
「なんで向こうで死んでこなかったんだよ、酷い貧乏だったのに」
と、帰ってきて その6ヶ月後に肺病で死んだ自分の親父をのろってた
遺族年金?とかなんとか
祖父母が満州で飛行機を作る会社を経営してた
あの時代でもエアコンがあったそうだから相当裕福だった模様
朝鮮人は普通に使用人のような感じで良好な関係だった
終戦後ロシア兵と中国人とどさくさの朝鮮人が略奪し殺しに来るのでみんなで山の中を逃げたそうな
女は犯されるので全員わざと汚らしく顔を泥で汚して
金品は杖の中に空洞を作って隠して
幼い赤ん坊が泣くと居場所がバレるので俺の叔母にあたる赤子は何度も仲間に殺されそうになったそうな
なんとか船に乗り日本に帰国する最中、叔母は栄養失調で死亡
帰国後生まれたのが母そして現在〜こどおじへ…
>>32 高射砲陣地があったんだ。それは知りませんでした。それでだったんだ。
俺ん家を含めて原爆の焼け出しが対岸に逃れたのが多い。
居座ってて井戸の水を飲み続けてたらブラブラ病で俺は生まれてなかっただろうな。
>>21 小学生に売春婦がどうとかって話すのが凄いな
軍隊に居たじいちゃん
大阪と栃木県の男は弱虫で、はあ全然使えんじゃったんど〜
って言ってた
船沈められて漂ってるところをアメカスに助けてもらったらしい
海だったのもあるんだろうが慰安婦なんかいなかったって言ってた
開戦前夜、競馬の騎手になりたくて
北海道に渡る(当時は騎手学校がなくて、牧場の徒弟になるしかなかった)直前に徴兵された
徴兵検査で「希望の兵種は!」「騎兵になりたくあります!」「今時何を言っとるか!」
大戦のさなか、わずか数十名の部隊で帝国軍を
壊滅寸前にまで追いつめた集団があった。
その名は忍空隊。
うちはおもしろいぞ。広島で被曝した奴、満州で残留婦人になった奴、同じく満州の兵隊帰りで闇市で財を築いた奴、軍人だと戦艦長門で砲術科だった奴とよりどりみどりだ。
シンガポールから帰還する時に輸送船3隻中唯一撃沈を免れた船に乗っていたのが祖父
つい最近地元に陸軍の軍需工場があったのを知った 軍需工場といっても戦争末期だったんで ほとんど農家の倉庫とか掘っ立て小屋みたいな所でチビチビ造ってたらしい そりゃ負けるわな
満州で大成功して大金持ちだったけど引き上げの時に全部没収された
大陸に渡ると「騎兵志願か」「はい」「人が跨がるのに変わりない」単車の操縦・整備を覚えさせられた
爺ちゃんは徴兵されてはるばる長崎近くまで連れていかれた
そこで訓練を受けてるときに遠くでドーンと
原爆が見えたらしい
間もなく終戦で家に帰って来れたから、死ななくて良かった
人類史に残る歴史的事件をうちの爺ちゃんがその目で目撃してたのかと思うと感慨深い
曾祖父さんが軍隊で中国の海南島にいたけど一切戦争に巻き込まれなかったらしい。毎日楽しかったってさ。
俺の爺ちゃん兵役足りなくて年金みたいなの貰えなかったのが一番残念そうだったな
>>58 駒沢公園にもあったとか(´・ω・`)
ただ大戦末期はB29も高高度爆撃を始めたので高射砲も当たらなかったそうで。
撃墜したとしたら初期44年〜終戦の年の初めくらいだろうね
親父が子供のころ、家の上空で空中戦があったと言ってた@埼玉。
左横の腹に、流れ弾か何かの破片を食らったへこみがある。
226に反乱兵側で参加させられた
俺のじーさんは大陸の最前線ばかり
回されてた
で、鉄兜に銃弾食らったりしながら
戦ってた
自分が死ぬと家族はどーなるんだ!との
一念で念仏唱えながら敵兵倒していった
と話してたな
地域の住民とは良好な関係を
とっていたとも話していたわ
爺さんの兄貴が特務大尉だったな
それ以外は軍人になってないなぁ
30年前に会社で働いてたジジイの話し。
大陸で上官に女調達命令されて村に行ったら女が居なかった。帰ろうとしたら顔が泥だらけの奴がいて無理やり水につけて泥を落としたら若い女だった。連れて帰って上官に差し出したら褒められた。
>>79 呉には存命の本人がまだおるよ
3332人の1人
生まれた時には爺ちゃん死んでたけどなんで死んだのか聞いたこともねーわ
>>60 よし。
義理「兄弟は10人。兄が6人姉が3人。僕が末っ子。
8月6日に兄3人と姉1人が市内(当時、安芸郡に住んでいる)に学生・就業していた
いつもの朝と同じように段々畑を手入れ入れしている側に僕は遊んでいた」
帰還してからも仕事に不自由しなかった。66歳で脳梗塞起こすまで関西の超有名中古車センターで働いてた。
ウチの100で亡くなったじーさん大正生まれで戦争行ってきたらしいけど
金がらみで身内からは死なずになんで生きて帰ってきたんだって怒られたらしい
ひでえ話だよ
父親の伯父、叔父が
靖国に居ると聞いている。祖母との別れの時
少しボケてしまった祖母に
その叔父と思われて
よ〜帰ってきたと
泣きながら すがりつかれたのは。数年前だったね
戦争があと一週間長引いてたら爺ちゃんは特攻隊で出撃してたらしい
戦後はJALからパイロットとしての勧誘が凄かったらしい
零戦(?)の横に立つクッソかっこいい写真(裏に遺書みたいな一筆)見せながら話してくれた
さあ毎年恒例戦争の反省する季節がやって参りましたー!
祖父が晩年になる迄被爆者だった事は語らなかったな
それ位壮絶だったらしい。
そんな人を身近で見送ったからか
被害者自称して必死に宣伝する一部の連中には
ものすごく強い違和感感じてるわ。
近所の大地主の爺さんは
上海に入ったら電信柱の全てに首吊った遺体が下がってたと話してくれた、マジだから
生きてたら90ナンボの祖父が九十九里浜で上陸する戦車に粘土爆弾かなんかを付ける演習してたと言ってた
片目なくなってた親戚の爺さんも90ナンボまで生きて年金?でかなり家が潤ってたみたいだった
GHQが来て黒人を始めてみた婆ちゃんとその友達。差別意識は無しで素直な驚きで
「わぁ黒い!」って言ったらガチで追いかけてきて必死で逃げたらしい
ベトナムで鳴らした俺たち特攻部隊は、
濡れ衣を着せられ当局に逮捕されたが刑務所を脱出し地下に潜った。
しかし、地下でくすぶっている様な俺たちじゃあない。
筋さえ通れば金次第で何でもやってのける命知らず。
不可能を可能にし、巨大な悪を粉砕する、
父方の祖父がフィリピンかどっかに戦争に行ってたらしく、祖父がエスキモー着た写真が飾ってあった。
なんか飛行機乗ってたらしい。詳しくはわからんけれども。
毎年このスレ立つから、毎年書き込んでる気もするが
死んだ爺ちゃんが満州で使ってたシナ人捕虜尋問用会話時点
結構ヤバめの例文がてんこ盛り
ばあ様は家の中で被爆したらしい
じい様は広島に原爆落ちて救護するために移動してたら長崎に原爆が落ちてそっちに戻ったらしい
被曝者2世や3世にも原爆手帳寄越せって運動が起きてるらしいけどぶっちゃけ3世まで来たら何の障害もないと思うんだけどね
じいちゃんが岡山の潜水艦ドックで修理工してる時に原爆雲を見た
ばあちゃんが畑仕事してる時にP-51が機銃掃射してきた
どっちも当人がいなくなったので確認できない
うちの親父は学徒動員でBC兵器を作っていた江田島でレンガを積んだと言っていた
俺はスロベニア独立戦争の体験者だが何かいつの間にか戦争になってて、いつの間にか終わった奇妙な戦争だった。
内定が決まって単位も余裕であったので中欧旅行しました。
イタリアのトリエステからバルカンを抜けてアテネまで行く予定でした。
当時の日本のニュースではスプリットの造船所でストライキやザグレブでデモなどやっていたがまさか戦争になるとは思っていなかった。
トリエステからリュブリヤナに列車で行き、駅でザグレブ経由ベオグラード行きの切符を買って飯食ってたら戦争勃発。
持っていたディナールはその場で紙屑。かろうじて使えるセルビア人の店で缶詰と酒を購入。
翌朝、脱出しようと思ったら空路もイタリア行きオーストリア行きの国際列車はすべて停止。
クロアチア国境も閉鎖されたので缶詰生活でした。
なんだかんだで勝って、敗北して撤退する両手を上げてトラックの荷台に整列した連邦軍の兵隊さんに石や瓶をスロベニア人と一緒に投げた。
戦争で食べ物が手に入らないご時世でも、農家の我が家は困らなかったらしい
火垂るの墓とかとずいぶん事情が違ったんだなあと思う
満州帰りの爺さん
大の甘党でタバコ嫌い
支給品のタバコを上官にあげたら、これまた支給品の大量の金平糖をお返しに貰った
行軍中も歩哨中も常に食べてたら、あっという間に虫歯だらけ
ある時戦闘になったけど、虫歯が痛くて小銃に頬付けできず、全く当たらない
上官から怒鳴られて、仕方なく正しく構えて打ったら、ボロボロだった奥歯が反動で崩壊&痛すぎて失神
回りからは被弾したと勘違いされて軍医のもとへ運ばれたらしい
意識がもどったところで診察した軍医ブチギレ
その場で麻酔無しで残りの虫歯(確か3本)を抜かれたとか
曽祖父の実家は戦前、大学生だった曽祖父にフォードA型の新車を買ってくれる程の金持ちだったらしい
ガソリンが配給でも乗り回して大学に通ってたが戦況の悪化で中支戦線に招集、数少ない運転技能持った人間なので司令部付きで指揮官の運転手をしてたんだって
敗戦時も司令部を乗せて真っ先に逃げられたから本土に帰ってこれたんだと聞いたことがある
そもそも自動車の運転が軍で特殊技能扱いされるほどドライバーの数が少ないって…戦争負ける訳だよ
>>79 もう亡くなったけど
知人のじいさんが
「大和に乗っていたことがある。沈む前には降りてたけど」と話していたことあるわ
お粥やすいとんやさつまいもは美味しいと思うが食べたくない
>>114 ウチも神奈川だがそう言ってたな
東京から食い物を買いにみんなやってきて、かなり法外な値段で売り付けて儲かったと
東京大空襲を千葉の木更津の対岸から見てたってばっちゃんが言ってた
その婆ちゃんは友達とアメリカ機に機銃掃射で追いかけられたとか言ってたな嘘が本当か知らんけど
爺さんからは戦争の話聞けなかったな
祖母はチョンとクロンボを連呼して罵ってた
だから俺もチョンとクロンボが大嫌い
ソ連兵から追われて満洲から逃げるとき
関東軍の上官は真っ先に逃げたって言ってた
関東軍の下っ端と開拓団で北朝鮮まで歩いて
満洲人は優しい人が多かったけど朝鮮人からは石をなげられることが多かった
釜山から米軍の船が出てて順番に乗り込んで
博多に着いたときは涙が出たって言ってたな
ヤシマ作戦の元ネタが愛知時計電機のクランクシャフト焼き入れ作戦と知った時の驚き
どこでの話か忘れたけど、爺さんが空爆?で真っ先に逃げたことに怒った上官と殴り合いになった話を聞いたことがある
あとキノコ雲見たwと言ってた
祖父が名古屋なんだけど、生まれが三河だからなのか海軍だった
終戦はペナン島で復員まで2年くらいかかった
戦中は子供を母の実家と親戚の家に疎開させていたが、
次男の疎開先の方が食料事情がよく、兄弟仲は生涯にわたって悪かった
母方の父は虚弱体質で徴兵されず、戦中も瀬戸物を焼いておりました
落ちたメガネ拾うとき後頭部で空を切る音がしたんだってさ
ベトナムの女性は綺麗だったと友人の祖父が語っておったわ
西川口駅に傷痍軍人の募金がいた
偽者だから絶対カネやるなとくどいほど言われた
シベリアで抑留された時ドイツ兵の捕虜が空き缶で時計を作っていたのを見たじいちゃんはドイツ人は賢いと言っていた
皆さんの家庭にある鉄や銅又は銅合金(真鍮、砲金、唐金、洋銀等)を国家のお役に立てる時が来ました。その準備は恐らく皆さんもう充分出来て居ることと思います。そうして国家の為に供出された鉄や銅などは、それぞれの回収路を通って、やがて製鉄所や製錬所へ運ばれます。其処で主として軍需品になって、鉄類なら軍艦、戦車、大砲、弾丸、鉄兜、剣等となり、銅類なら弾丸の薬莢、軍用電線や、飛行機の部品になるのです。
現代は、供出しないで隠してた人もいて家宝としてお宝鑑定団にも出せる
真面目に供出したうちはバカをみたって爺ちゃんが言ってた
親戚のおじさんが特攻隊で戻ってきた太ももに穴開いてるらしい
>>119 伯父がいってたわw
「さつまいも、ジャガイモ、山芋、俺は見下さんすべて平等に価値がない!」
お爺ちゃん海軍だったけど、自分の乗っていた艦以外全部沈められて帰ってきたらしい
その帰還がなければ俺は生まれていなかった
生まれた時にはもう亡くなっていたから話は聞けなかった
オヤジは焼夷弾の不発弾を拾って解体燃料抜き出して風呂沸かしたと言ってた
一億総特攻(´・ω・`)沖縄の浅瀬に乗り上げて砲台となれ
この頃からお上は変わってないアホだらけ
死んだ母親が8歳のとき
空襲のとき低空飛行で機銃掃射されたらしい
子供の記憶だからアレだけど、パイロットの顔も見えたし英語も聞こえたって
「何だ子供か」て感じで数回撃たれて飛び去ったとのこと
しかし怖くてうずくまってたら背負ってたかばんに引火
「あーなんか気持ちいいなぁ」て熱さも痛みも感じなくなった頃、どこかのお姉さんが必死に飛び出してきて火を消してくれたとの事
曾祖父が人間魚雷で死んだって聞いたけど
あれ実戦で使われてないんだろ
なんかモヤモヤするけどもう、確かめようがない
お爺ちゃんから聞いたけど
ソ連に捕まった人だとおもうけど
手の凍傷を防ぐ為にずっとおちんちん掴んで温めてたって聞いた
爺さん、インパール作戦、怒江作戦、ミートキーナ防衛戦、イラワジ川会戦、ラングーン撤退戦とビルマの激戦地を全て参戦してる。
牟田口より逃げ足の早かった河辺とか、ラングーンで味方と日本人を置き去りにした司令官をボロクソに言ってた。
辻ーんは面識あったらしく、何も言って無かった。
船酔い対策と嘘ついて船を鎖でつなげさせた後、火をつけて大いに燃やしてやったって言ってた
>>141 大和の片道燃料は嘘らしいな指示はあったらしいが
フィリピンで上官がバナナ買って現地の子にあげた
とか楽しそうな日記と写真が残ってる
>>141 回天も桜花も戦果が少ないだけで実戦投入されてる。
はいはいもう何度か書いていますけどね
父方の伯父ビルマ
母方の祖父満洲
母方の大叔父硫黄島
全員民間徴用で戦死ですよ
ビルマと硫黄島は当然遺骨も戻らず
爺ちゃんは甲種合格自慢してたな
じじいになってもガチムチで力持ちだったわ
爺ちゃんの兄はルソン島で戦死
曾爺さんの叔父がたしか日露戦争で戦死
>>141 回天は使われてるし、甲標的に至っては真珠湾攻撃に参加してる
ホワイトベースが最後止まって銃撃戦は大和の浅瀬に乗り上げてだったような
ご先祖様は二〇三高地で亡くなった
享年23才。遺影とメダルと慰霊碑がある
とても苦しくて辛い行軍だったそうだ
爺さんがパプワニューギニアにいってたらしいが
本人はその話をしたがらなかったそうだ
京都の実家の田んぼ脇にあるロールケーキを半分に切って煙突付けたようなコンクリートの家みたいなところでよく遊んでた。中に入ったりしてね。
あとできいたらそれは防空壕で実家の田んぼ一体は戦闘機の飛行場だった。
ひこうかは田んぼになったがその防空壕はまだある。
地元に文化財になってる古い鐘楼のあるお寺があってさ
その鐘楼は空襲の時にそこの和尚が屋根に上って、ほうきで焼夷弾はたきおとして守ったんだって
俺生まれた時にばあちゃんがその偉い坊さんに漢字を一字書いてもらってきて、それを名前に入れたんだって
ばあちゃんがよく自慢してた
>>19 大体はそうだけど医療班や通信兵も居るだろ
特にこれといった空襲被害もなく
食料は質は落ちたけど飢えることは殆ど無く
身内で軍隊いった人も内地にいるうちに終戦
富山空襲の時に時に空が真っ赤になってたの見て驚いたってのが、戦時の数少ない怖かった思い出らしい
父親曰く祖父はあまり戦争の事を話さなかったと言っていたが、結構私には話をしてくれたし、海軍式の敬礼の仕方も教えてくれた。あと月月火水木金金も良く口ずさんでた
中国と日本を船で往来していたことや、掃海船に乗っていたことも知らないって
まぁ4駅先に住む祖父の旧知の友人がいることすら知らなかったと言っていたから、親子の会話がなかったんだろうな
そういや今年はじいさまの弟がシベリアに抑留されて死んだ事になってて
終戦から10年くらい経ってひょっこり帰って来たって話を聞いたな
じいさまが死んでも何某か新しい話が出てくるからウチの一族は飽きんわ
母親が、東京大空襲の時に祖母と2人で毛布を屋根みたいにかざして焼夷弾の下を走ったと言ってた
母は死ぬまでロケット花火の音が大嫌いだった
学童疎開してた叔母は田舎でいじめられたと言ってた
当時岡山で結核で臥せっていた父は、学徒動員に行かないで済んだので原爆に遭わないで助かったんだと
俺の体験談だけどノルマンディー上陸作戦はやばかったよ。
祖父は撃ち合いになった時に真上撃ってたらしく
「おじいちゃんは人を殺してない」と言っていた
小学生だった俺は
「それって仲間に迷惑だろ」って思った事を今でもはっきり覚えてる
うちのおかんは広島から山口に疎開してキノコ雲を小学校の屋上から見たそうだ
広島にいた時は空襲で妹を連れて逃げてる時伏せてたら結構近くが爆破されたそうだ
>>141 回天なら実戦投入されてるよ
潜水艦に積まれて出撃
そのまま潜水艦もろとも行方知れずになる場合もあるが
つい最近、父親(医師)から聞いた話。「お前の祖父(軍医)は自死した」のだと。
・ハルビンから引き揚げてきた祖父は、今までと打って変わって無口になっていた。
・父が研修医を終えて帰郷した日、祖父は父に痕跡の残らない服毒の仕方を知っているか?と尋ねた。
・翌日、父が寝ていると、祖母が「お父さんが息をしていないから見ておくれ」と非常に落ち着き払った様子で起こしに来た。
・死亡診断書を書いた父には死因はわからなかった。
・後にいろいろな人に戦地の様子を聞くと、どうやら祖父には引き揚げ不可能な負傷兵を安楽死させる命令が下されていたのだろうと。
・恐らく祖父が自死したことを祖母は知っていた。
>>129 自分が小学生の時も、新宿の東西をつなぐ地下通路に傷痍軍人がいて、すごく怖かった
足がなくてアコーディオンひいてた
>>166 しっかり狙わず適当に撃ってる人は割といたと聞いた
ばあちゃんが広島の島出身。
畑仕事してたら空が光ってキノコ雲が見えたと。 原爆ドームまで車で1時間ちょっとかかる場所だから影響はなかったが。
>>151 もの凄い可能性は少ないが、ビルマ北部と雲南省なら日本の遺骨収集団以外に中国は現在でも国を挙げて遺骨収集と慰霊祭を国家行事としてやってる。
日本人はほとんど知らないから、盲点になってるけどビルマ北部で戦死なら何か中国側に記録が残ってるかもな。
祖母の兄がトラックで襲撃されたときに生き延びた言ってた
あのあとアメリカ追い打ちしてこなかったから戻ってこれたと
本部から近くの離れ小島で機銃みたいの撃っていたが
弾切れして泳いで本部の島まで逃げ戻った
島はズタボロになっていたがかろうじて動いたトラックに周りにいた人と動けるひとを積み込んで
そこらで転がっている死体をバリバリバリッとひき潰して本部までいったもののズタボロになっており
近隣の飲食店街の脇にできてた対策場所に集合したみたいなこと言ってた
その翌年亡くなったのでそれ以上は…
もう40年くらいたつか
>>175 どこの軍隊も徴兵された連中はそんな感じでろくに当たらんらしいねえ
代わりに一人で何人でも撃ち殺せるのがいたり
銃剣突撃とかになるとやらざるを得ないから、日本とかロシアあたりはとにかく銃剣突撃推奨だったっぽいねえ
戦前だけど、東京駅から北京駅までの汽車の切符が買えたそうだ。
租借地から引き揚げたとき
日本がクソ田舎すぎて笑ったいうてたな
怖くて聞けなかったし話さなかったな最後まで
俺もそうすると思う
ひい爺ちゃんは実寸大の木製飛行機を作ってたらしい
敵の爆弾を無駄に使わせるために飛行場に並べてたんだってさ
母方の爺さんは昭和元年生まれ、終戦直前に召集されて国内で訓練中に終戦
‥ということになってるが、亡くなった時に大正12年生まれということが分かった
爺さんは田舎の農家の次男坊だったから、多分戦地に行ったことを隠してたんだと思う
家族にも戦争の話を一切しなかったけど、たまに父方の祖母が泊まりにきた時は、二人だけで部屋に入って夜中まで話しこんでた
同世代でしか話せない話もあったのだろうなあと思う
父方の爺ちゃんは徴兵検査に落ちて戦争行かなかったつーてた
命拾いしたけどクソ田舎だから周りの視線キツかったかもな
>>189 まだ潜伏しとけ
いま世界はコロナで全滅寸前や
うちの大おじが、赤紙が来たのに直前になって仮病を使って兵役逃れをしたらしい・・
田舎だけど、非国民と言われたとか、村八分にされたとかそういう話は伝わっていない。
うちの祖母が小野田寛郎と一緒にルバング島にいた島田伍長と同郷で顔見知り
祖母は結婚後は東京で暮らしていたが、
ある日出征する兵隊さんの一群をみかけて、その中に島田伍長がいるのに気づいた
向こうもうちの祖母に気付いて「あれ?マキちゃん?(うちの祖母の名前)」と声をあげたらしい。
ばあちゃんちに焼夷弾が落ちてきた
他にもばあちゃんからは色々聞いたなあ
じいちゃんはあんま話したがらなかった
色んな思いがあるんだろうね
父方の祖父は大工で東南アジアで戦死
母方の祖父も同じ大工で戦地で猫車を延々と作らされてたとのこと
母方祖父は生きて帰って90年終わりまで生きた
朝鮮人の兵隊は、占領地域で現地人に横暴で、軍規を平気で破るから嫌だったって。
でもそんな時代を生き抜いて国を建て直した世代をコロナや事故で死ね死ねしてるのが現代人
日本人の誇りとは…
祖父が海軍だったから水を無使いすると父親が「水兵さんは洗面器一杯の水で云々」って言われた
曽祖父は戦争に行きたくないから高い塀から飛び降りてわざと両足を折って徴兵を免れたと聞いた・・・
まあ俺もそうするかな
祖母は自分の叔父が満州で商売やってたから
そこに花嫁修業に出されて、満鉄の役員の奥様に仕えたらしい
祖母は嫁に行くために日本に帰ってきて、旦那は海軍で飛行機飛ばしてたような
技術者だったけど、戦時中には発電所に勤務してたから兵隊にはとられなかった
満州に残った叔父さんは使用人にも良くしてみんなに「ジャングイ」て呼ばれてた。
終戦後もその人たち八路軍からに守ってもらって帰ってきたって。
後になって「掌?(ジャングイ)」だんな様みたいな意味の中国語だって知った
うちの親戚はド田舎にいたから、戦争中の話はもっぱら代用食の芋カボチャとかで
空襲とかあんまりない
うちの爺ちゃんはエリートだったらしく零戦とか戦闘機の設計図を描いていたそうな
でも飛行機の知識と金はあっても経営センスはなかったらしく戦後に建てた会社は潰れて貧乏になった
>>139 全然わからんのだ
もはやおばあちゃんも亡くなっていて
母方の祖父は満州行って馬の面倒見てたらしい
ただ「こんな所人間の住むところじゃねぇ―」と思い帰ってきたと言っていた
そんな簡単に帰ってこれたのかね
なんか飛行機の下に飛行機をつけて人間を載せたまま切り離して船にぶつけたとか言っていた
長男を満州を亡くした祖母は岸信介をゴミ虫の如く嫌ってたそうな
俺が子供の頃に亡くなった人だけど叔母と親父からはそう聞かされたな
まあその叔母と親父も一昨年他界したがな
うちのじいちゃんは銃剣ぶっさして中国人処刑したって言ってたな。
爺さんは東京大空襲の時まだ小さかったから、親に手を引かれながら夜中に逃げ回ったそうだ。
死体の上を踏みつけながら逃げるのは、歩きづらくて大変だったそうだ。
身長足りなくて兵隊の試験に受からなかったと言ってた記憶
父方も母方も内地勤務でそれほど酷い話は聞かなかったな
戦後やってきた米軍人にイジメられたという話は頻繁に聞いてたけど
>>19 平時に人殺すと捕まるけど戦争ならいくら殺したって罪に問われないとか素敵じゃん?
うちの祖父は徴兵で海軍に入って
練習艦になってた「八雲」でオーストラリアまで行ってきた
祖母も満州とか台湾にいたので、子や孫の世代より国際的だったねって
のちの語り草
戦没地フィリピンって書いてあったからロクな死に方じゃなかったろうな
輸送船ごと海底かも
シナで戦ってた死んだ爺ちゃんは常々言ってたな
「弾は避けようとする奴に当たる」
子供のとき聞かされた爺さんの話では、内地での射撃訓練では上手くて、教官に誉められて天狗になってたけど、満州行ったら下手になったとか言ってた。
気温とか湿度が関係あるのかな?
まぁ爺さんは上でも書いた虫歯のせいで、下手になる一方だったらしいけど
>>111 義理「8月6日8時頃に安芸の町に急に空襲警報がなるんだわ。
呉(海軍)があるからの。慣れたもんで。
なんすることなく、母親と畑仕事の手伝い(邪魔)をしとったんだわ。
上空を見上げると飛行機が見えた。
何のことは無い。いつもの光景じゃったわ」
一人は満洲やらビルマに行った菊か龍の生き残り
もう一人は海軍だがあまり話を聞いたことがない
菊か龍の爺さんが言ってたのは大阪の人間と中国人は弱いしすぐ逃げるらしい
二人とも体に銃弾の跡がいくつかあった
樺太にきたソ連の司令官は優しかった
その部下は夜に日本人を輪姦した
爺さんが万里の長城の手前まで行ったと話してた
支那事変だな
そこで怪我して太平洋戦争には駆り出されなかったと
爺さんが引き上げのとき
象牙の麻雀牌を日本海に捨てたらしい
愛媛松山に住んでた祖父が、
「あの日、太陽が二度上がった。」
>>79 介護関係の仕事してるけど、大和の乗組員いた
大和の船員時代のこと何を聞いても絶対にしゃべってくれなかった
戦争終焉したとき親父がラジオで告知しててみんなひざまついてたな
あれは壮観だった
義理「段々畑の上から
市内が光ったんじゃわ。光るっていうか、市内方面がネジ曲がった空間に感じたんじゃわ。
その後、爆音。」
「なんかの祝賀かと思たわ」
戦地に行く前に呉軍港とかあのへんでブートキャンプやったんだってさ
あと満洲からの引き上げはそれは大変だったと言ってた
算数が得意だったので物資の後処理やら帳簿やら作る係にされて帰国したのは終戦から2年後だった
マラリアにもなったとか言ってたなあ
祖父は両方とも親が若いときに死んでるから戦争の話聞いたことないな
母方の祖父は二回戦争行って帰ってきたらしいけど
この前親が死んで遺品整理してたら軍歴?のコピー出てきたわ
うちの爺さん台湾出兵
空軍だけどやることは零戦を竹とかで隠す、あと電線張り、食べ物はバナナが豊富にあって困らなかったと言ってた
暴力の限りを尽くす元朝鮮人の日本兵は怖かった(支那人曰く
伯母が子供の頃、弁当が珍しく白米で
わーって喜んだけど白米だったのは上の薄い層だけで
あとはカボチャだったって言ってた
爺ちゃんは日本の基地で木製の戦闘機を作って並べてる係してたといってた
茅野に疎開してて御柱祭を見た
軍需工場から予定より1日はやく出荷した次の日に爆撃があってスパイ説が出た
>>165 MG42機関銃で米兵を撃っても撃っても上陸艦がいっぱい来て焦ったよな
日本って核兵器開発の段階には至れたけど陛下がやめとけって取り下げたんだっけ?
もし核が配備されてたらどうなってたんだろう
父方のお祖父さんは満州に出兵して、肩から背中に貫通弾を受けて日本に戻ってきて療養してた
子供の頃に銃創を見せて貰ったことがあるけど、ものすごくえぐれてて怖かったな
子供のころ友達の家にいったら、生首持った兵隊の写真あったわー
自慢のルックスで女はみんなイチコロ
ブラジャーからミサイルまで調達してたそうだ
あと、うちの両親は子供の頃に最後の空襲の一つだった熊谷の空襲を見たそうだ
遠くの空が赤くなってたらしい
父は不発だったらしい焼夷弾を弟と拾ってきたといってた
死んだ婆ちゃん大正末期生まれだったからバリッバリの戦中教育受けてたな
超がつくレベルで朝鮮嫌いだったわ
うちの86歳のばあちゃんの話
玉音放送を村中集まって聞いたが何言ってるかよく分からんかった
どうやら負けたみたいじゃねって感じでぱらぱらと皆家に帰っていったドラマみたいにすすり泣いたりは誰もしてなかった
めっちゃド田舎なんで空襲の恐怖はあまり感じなかった
東京から疎開してきた子をいじめたのは悪いことをしたと今でも思う
一番上の兄が南方で戦死したが遺骨として小指の先くらいのを一個だけ渡されて普段温厚な母親がこれっぽち誰の骨だかわかるかぁぁと言ってブチ切れていた
小学生の時に身内の戦時体験を聞く宿題でお婆ちゃんに電話したけど
秋田の西目村なんか空襲対象にもならずに
イモは不作だった、粟は豊作だったとイマイチな体験しか聞けなかった
ばあ様は島原に疎開してたのに長崎に原爆落ちたと聞いて身内探しに行って被爆したって
祖父の軍歴証明を調べてみてわかったことは、
少なくとも三度死にかけたということ。
@歩兵136連隊にいたこと(転属後に136連隊はサイパンで玉砕)
Aフィリピンのマニラに寄港した10日後に、マッカーサーが率いる米軍がレイテ島に上陸。マニラで留められて、翌年に戦死率84%のマニラの戦いに身を投じた可能性。
B輸送艦の道中の米軍の襲撃。
>>233 日本のフリゲート艦隊で、一番経費掛かり
何処だか忘れたが、出航して直ぐに沈んだかじゃん
ルソン島?フィリピン?
シベリアに抑留されてた爺ちゃんはとにかく仮病使ってサボりまくって生還したらしい
真面目なやつは死んでいったと聞いた
爺さんの弟が前線にいて近くで手榴弾喰らったらしい
生きては戻ったけど足腰立たずまともに喋れずだった
>>260 ウチも親戚がシベリア帰りだが思い出したくないくらいみたいでシベリアの話はしなかった
日本に帰ってきたらシベリア帰りは赤に洗脳されてるみたいに思われてて中々仕事につけなかったそうだ
めっちゃ反共主義で共産党大嫌いだったな
戦時中にばあちゃんが戦火から逃げるのに転校を繰り返したらしいんだが
その中で大地震のせいでまた転校になったと言ってたんだ
子供だったから関東大地震かと思って聞いていたが
今思えばあれは戦時中にあったのに公表されなかった地震のことだったんだろうな
天草の人間だがウチの親父は子供のころ長崎の原爆のキノコ雲見た言ってたな
シベリア
凍ったかぼちゃ
マッカーサーの野郎
だけ覚えてる
爺様は 戦艦の大砲に砲弾セットする係だったと言ってたが それ以上は語ってくれなんだ… ある時 爺様の友達が遊びに来たんで話を聞こうと思ったが その人は左手の肘から先が無く左耳も無かった… 聞いちゃいけんやつやと子供ながらに思った
8人兄弟の唯一の生き残り
ひめゆり学徒隊だったと
コロナ流行る前の3月に亡くなった
97歳だった
簡単な中国語を覚えさせられた、捕虜収容所で配られたパインの缶詰が旨かった
そういえば戦争にいった爺ちゃんから戦争の話を聞いたことなかったな無口な職人だったからあまりしゃべったりしない人ではあったが。戦地で何かあったのだろうか。
戦後は上官や参謀は元部下から殺されないように逃げ回ったり
終始気をつけていたと言ってた
8人兄弟の母方爺さんは全員かえってきた。
ニュージーランドへ送られ野豚狩って飢えを凌いだらしい。
父方の爺さんは上官が極悪で罪の無い朝鮮人を刺し殺していたらしい
>>249 いいのいいの
おそらく悲惨な話も沢山あったはずだけど、面白おかしく話さないと本人も辛かったはずだから。
>>206 軍歴証明書を実家のある県から取り寄せたら?
軍港の近くのド田舎だったから空襲の跡があちこちに残っていた。
軍港を空襲した飛行機が帰りに遊び半分に民間人撃ってた。
もうとっくに亡くなったが、元帝国海軍の伯父さんは重巡妙高に乗ってた
当時の資料見る時はその艦を探してしまう
父と祖父の話
・特攻隊に志願したいと言ったら「こんな勝てねえ戦争で死にに行くこたあねえ!」と親に殴られた
・東京大空襲の時に火の粉が阿佐ヶ谷にまで飛んで来て父と兄弟が屋根に上がり
濡れた縄をふり回して火の粉を防いだ事(瓦を踏んだのであとで雨漏りがひどくなった)
・低空飛行の戦闘機に煽られて腰が抜けるほど走って逃げた
・終戦直後に家に複数のアメリカ兵が上がりこみ日本兵がいないか全ての部屋をチェックして帰った
・赤羽にあったアメリカ軍の工場で働く事になりアメリカ人と仲良くなりプレスリーにハマり歌手を目指す
>>40 まじかよ
うちの爺ちゃんも騎兵隊で豆タンクになった部隊にいたらしい
うちの96になる婆さんは戦時中名古屋の駅でルンペンに襲われた話を何回もする
当時朝鮮に学校の先生として赴任していた祖父母が終戦後どんな目にあったか俺は聞いているぞ
細かくは言わないけどよく帰ってきたと思うわ
父方祖父は甘党の下戸で電気技師
徴兵後は工兵だったから周りが酒盛りする中
ダイナマイトほぐしてこっそり食ってたらしい
恩賜のタバコ要らんから旨い饅頭よこせやと言いたかったそうな
なお糖尿で死んだ後に自室のあちこちから饅頭や飴が発見された
母方祖父は叩き上げから陸士短縮組で
大陸では神風要員の帝大生の訓練を担当し
その優秀さに感銘を受け教育至上主義者になった
人材を使い潰す国は滅びる、が口癖
本人はあと半年戦争が続いてたら陸大行けたのに、とよく言ってたが
後に調べたところ受験は可能でも歴代合格者ゼロ
つまり合格する気やったんかい!というツッコミ待ちジョークだったと思われる
なお2人とも靖国は毛嫌いしてた
戦友死なせたやつらに誰が頭下げるか!ってよ
八月一二ぐらいに、主要都市の市役所になんかあった時の混乱を警察と一緒に対処してね ってマニュアルが来てた
あと 八月頭に本来なら満州に居るはずの軍人が帰国ラッシュしてた
うちの爺ちゃん、桶狭間で今川というおっさんの首を取ったと自慢していた。
戦争はいやだなあ。
連邦の白いヤツが悪魔のようで恐ろしかった
あと仮面かぶった変なヤツが上官だった
うちの爺さん
志願兵で海軍に志願したんだが
耳がポンコツでいらんって追い出されたらしい
じいさん工科高校にいってたから
山口にある人間魚雷の回天作る秘密工場に飛ばされたらしい
爺さん回天作りながらこんなもんに人乗せられんって
人的ミスバンバン起こしてたら
憲兵に取り調べくらってボコボコにされて片目潰されて
工場から追い出されて飯場で飯作ってたらしい
そのまま終戦迎えた
よく義眼落としてマルチーズに遊ばれてた爺さんが死んでもう18年たった
戦争なんかしなくていい
>>286 先祖の仇を討ちたいんだが、勝負してくれんか?
割と闇な部分だが、軍医育成な医専はあまり戦地に、行かず普通の医学部は戦地に向かう率が高かった
ガキの頃おっさんが同じ話ばかりして嫌で仕方なかったけどいい加減に聞いてると怒るから仕方なく聞いてたけどまったく覚えてないわ 今思えば悲惨な殺し合いしてきた実体験だったんだな(´・ω・`)
基地が空襲を受けた時に隣を走ってた友達が血煙になった
じいちゃんが満州から日本に引き上げる途中、ソ連兵が日本人の隠れているところに女あさりに来た
そこで日本人グループは、水商売をやってた女性などにお金を渡して他の女性が襲われないように
生贄にした。それでもじいちゃんは捕まり連れ去られたが夜に電車から飛び降りて機銃掃射から隠れて
歩いて仲間のところに逃げ帰ったって聞いた。ソ連兵は日本人から奪った時計を何個も片手に付けてたって
うちの祖父の家にはどちらも御真影が飾ってあった
明治天皇から昭和天皇まで
皇族のニュースを親戚のことのように聞いてたよ
>>290 それ
ペーパー軍人は戦地に行かず
激戦地に行くのは元サラリーマンやアウトローなどの素人
叩き上げは激戦地でリーダー
サボる奴は生き残りマジメな奴はすぐ死ぬ
東京は恵まれていて田舎は理不尽な暴力やスパイ探しばかりで悲惨だと聞いた
特攻も文句言わない若い奴がどんどん行かされ
年配者は精神論を語る
戦後生まれの団塊は実はその被害者
>>294 うちも同じだ今上天皇の成婚パレードの写真も飾ってた
福島の海岸線から、
仙台空襲見えて、
みんなで花火大会見るように、
お茶と茶菓子持参でござひいて見てたんだって。行き帰りのB29が、
ちょうど浜通り上空通るらしく、
それ眺めてたら、護衛のグラマンが帰りしなに余った機銃弾消費するために家屋とか学校とかに気まぐれで撃って来て、見物してた民衆に機銃掃射して、
うちの親戚5人死んだんだってwww
第二次世界大戦?太平洋戦争?
はっ?当時は誰もそんな呼び方してません。
戦時中は民間人はみんな大東亜戦争と呼んでました!!
ソースは今は亡き、うちのばあちゃん
函館山に高射砲があった話は聞いた
弾運んでたらしい
内地に兵隊にいった人が日本は負けると思っていたって
もうだいぶ昔に亡くなったが、明治生まれの爺さんは徴兵されたけど元来無口であんまり昔の戦争の話はしたがらなかった。
爺さんは体格が小さく、お陰で前線に出されることもなく終戦を迎えられたとか聞いた。唯一の晴れ舞台はお偉いさんの乗った馬を引いて歩いたとかそんな程度だった。
田舎で農家やってたが
専門の業者みたいな人がリヤカー引いて骨董品やら着物やらを農産物と交換しに良く来てたらしい
その時の日本刀とか掛け軸とか納屋にあった
30年ぐらい前にバーテンしてた頃に
客から聞いた話だが、中国で戦ってるとき
銃の一斉射撃で草が刈られ見渡しが
よくなったそうだ、日本が敗戦して
やばくなったので朝鮮で漁船を奪って
日本に帰ったそうだ
>>301 婆ちゃんが言ってたのは鍋とか供出しろって言われた時点で
まだやる気なんやって思ってたらしい
和紙切り貼りして風船爆弾作りながら女学生時代過ごした婆ちゃん
田舎に疎開した家族が疎開先で着物と野菜を交換
するのに屈辱的だったて
だからかっぺっていつも言ってた
じいちゃんは日本海で撃沈されて泳いで生きのびたって、在日芸人がテレビに出ると「このチョンが!」ってめっさ怒って怖かった記憶ある
>>270 俺のじいちゃんもだは。
俺が小さい頃に死んだから俺自身はあまりじいちゃんを知らないが
うちのばぁちゃんが、じいちゃんは戦争から帰って来てから
絶対に戦争の話をしなかったって言ってた
地元の上空でB29?と撃ち合いになって撃ち落された日本の戦闘機
そのままでは市内に落ちると思って見ていると
急に角度を変えて裏山に墜落したと言ってたな
落ちる寸前に操縦席からパイロットが白い何かを振ってるのが見えたとも言ってたけど
その50年後に墜落した場所で遺族が慰霊祭をやってた
爺さんは教練中に敗戦を迎えたらしい
飯が食えてよかったと言っていた
婆さんは闇市の帰りに朝鮮人に囲まれたと言ってたな
何も取られなかったみたいだが、詳細は聞き逃した
近くで銅山あったからそこの徴用工だろうと思う
身内ではないが
軽井沢で世話になったタクシーの人には
村外れの一家が満洲行った話も聞いた
命辛々戻ってきたが家も畑ももうない
満洲の土地の代わりにと政府が寄越したのは
浅間の火山灰土の斜面で芋も育たない
バブルの別荘開発ブームでその土地が売れるまで
ずっと極貧
そこんちの子はいつもガリガリで気の毒だったそうだ
俺はそれ聞いて人間を救うのは結局経済発展だけだなあと思った
逆に満鉄職員の子で満洲から先に脱出した知り合いの話も聞いた
父親が満鉄のおかげで助かった、中国軍に資料一式渡して家族と鉄道を守った父親は鉄道マンの誇りだと言っていた
国民学校世代で大卒大企業勤め、
退職後は年金で悠々自適
政府事業で夫婦で満洲訪問もしたそうだ
見殺しにされた開拓団を思い遣る言葉は一言も出なかった
恵まれた層はそんなもんだ
じーさんは戦地の話よくしてくれたが、盛り癖があったからなあ
もうそろそろ、軍人年金の受給者も2桁居るかくらいかな?
満州から帰国するときに女の子は丸坊主にして男の格好したって
>>307 爺さんの弟がアジア方面で撃沈されて仲間と海に浮かんで救助を待っていたが
救助されるまでに何人かがサメに襲われたと言ってたな
うちの爺さんは弾薬係で前線を駆け回ってたそう
背負ってた弾薬に火がついて慌てて捨てるも間に合わず爆発して破片を食らい負傷
そのまま負傷帰還したため生き残る
背中に細かい傷がいっぱい残ってていくつか破片も残ってたらしく火葬後に金属片が出てきた
>>289 先祖?爺ちゃんの姓は毛利。
たぶんそちらとは無関係だとおもうが。
赤紙で召集されたじいちゃんが終戦のときには軍曹だった
爺さんは歩兵連隊の中隊長だった
戦後1年近く日本に帰ってこれなかった
あまり戦争のことは話さなかったが、
陸軍の連隊って同郷の出身者で固めてたから、葬式には地元の爺さんが沢山来てびっくりした
ばあちゃんは満州引き上げで子供2人いたけど1人は置いていけと言われたけど、
一人を腹に隠して日本まで連れて帰った
そのおかげて叔父は残留孤児にならずにすんだ
>>114 日本製粉だか日清製粉だか
ああいう会社の社員も困らなかったと聞いた
虚言癖ありそうな爺さんだったから定かではない
友達の爺さんが大陸でライフル銃をバン!と撃って、
弾丸が石にキン!と当たって跳ね返り金玉に当たった、って話を聞かされた。
仲間内では「バン!キン!うっ!」
略してバンキンウ事件、として共通認識された
>>283 言えよ
おまえが誰かに語らなきゃそのまま消えるんだぞ
恨みやなんかは後生大事に継ぐようなもんじゃないが
語られた話は語り継げ
爺ちゃんは輸送船の通信士だったが案の定撃沈されたけど元気に帰ってきた
しかも三度も
>>274 ユーモアのある人は強いっていうから生きて帰ってこれたのかもしれんね。ここで話も聞けたし、帰ってきてくれて良かったよ(。´Д⊂)
昭和2年生まれの親父が関東で鉄砲作りやったとか聞いたことある
>>326 お前の爺ちゃんが船の現在位置を教えてたんだよ。
旦那さんが長い事戦地に行ってるのになぜか妊娠しちゃう奥方が結構いたとかいないとか
ある披露宴、新郎が海自の方でした。同僚上司達は制服で出席。
披露宴も御披楽喜に近づき、新郎のおじいさんの挨拶がありました。
一通りの祝いの言葉の後に、
「自分は海軍にいた。孫が艦に乗っている事を誇りに思う。
自分達の世代の不甲斐なさのせいで今の海上勤務の方達には苦労を
掛けていると思う。」
たとたどしくですが話されました。
同僚達は知らなかったらしく酔っ払っていたのが、段々背筋が伸びていき
神妙に聞き入っていました。挨拶が終わり高砂の席の一人が
「何に乗っておられたのだ」
と尋ねると、新郎は小声で
「大和です」
それを聞いた海自組一同すっ転ぶような勢いで立ち上がり、イスが倒れる
のも無視して、直立不動で敬礼を送りました。
おじいさんも見事な答礼を返されました。
私はその後は仕事になりませんでした。
ウェイトレスの女の子達は不思議そうな顔をしておりましたが。
>>300 戦前に学生がなにげなく函館山をスケッチしてたら無事憲兵に捕獲されたって誰かのエッセーで読んだわ
レイテ島への輸送船団に乗ってて
撃沈されたと聞いた
聞くたび やるせなくなる (´・ω・`) なんなん?
数学の先生だったシベリア帰りの曾祖父ちゃんの話の又聞き
「ろすけは数が数えられない」とかで並ばされてる日本人の数とか色々物資の数を数えさせられてたって
それからなんか出世?したみたいで倉庫係とかさせられて食べ物ちょろまかして生き延びたって
寒さと飢えと疲労で20代はボロボロ死んで40代以上も死んで、30代が一番多く生き残ったらしい
南洋で土人と遊んで楽しかったって言ってた
あと朝鮮人はすぐに激昂して会話ができないって言ってたな
長門の船員だった
爺ちゃんが農兵団として駆り出された時のお話。
教官「番号ー!」
A「いつ!」
B「ぬ!」
C「さん!」
D「す!」
爺ちゃん「ブフォッ!」
どうやら東北の人が混じっていたらしい。
吹き出した爺ちゃんは当然教官に殴られた。
身内や知人から聞いたわけじゃないけどじゃないけど通州事件でググれ
親父の遺品整理してたら戦時中の写真が出てきたけど、親戚バレしそうだからうぷできん
赤紙で召集されたんだけどじいちゃん経理が出来たから主計にまわされた。
定期的に試験受けさせられて落ちた人から何処に行くかわからない列車、船に乗せられたって言ってた。
その時の上官が行ったセリフが
「死にたくなかったら絶対に試験に落ちるな、空いた時間は勉強してろ」だったって。上官には恵まれたと言ってた。ちなみに落ちた仲間は殆どが戻って来なかったそうだ。
その代わり終戦になってもすぐには帰ってこれなくて開放されたのは終戦から1年半後だったそうだ。
その時には小さなトラックいっぱいの食料も貰えたらしいんだけど近所はそれをみてるから独り占めは出来なくて結局手元に残ったのは缶詰が何個かだけだったって言ってた。
階級章とGHQのサインが入った書類は実際に目にしたけど亡くなったときに何処に行ったかわからなくなった。多分叔父の家にあるとは思う。
子供の頃に祖父から聞いた話では「負けたことが悔しい」が口癖だったな
祖父の話
東南アジアに出征
空から機銃掃射を受けた
終わると前後の戦友が死んでいた
東京大空襲のとき谷中の端っこの長屋に居たらしい。
b29が来るってんで物干しに上がって眺めてたら、夕暮れの空イッパイに機影が浮かんでて、頭の上を越えて深川の方へ向かっていったらしい。
キラキラしたのが一杯降って深川の方の家の屋根辺りでパット明るくなって、同時にワーとかギャーとか聞こえて、嗚呼これが阿鼻叫喚て云うんだなって思ったって。
じーちゃんの兄貴がインパール作戦から生還した
同じ分隊に狩猟経験者がいたから食料には困らなかったらしい
中国人を捕まえて整列させたら自分の子供を差し出して子供をどうにでも
していいので自分だけは助けてくれと懇願する母親に心底嫌悪したって言ってたな
むかついたんで全員射殺したって爺ちゃんが言ってたよ
鹿児島の海沿いに住んでいたばあちゃん
長崎にキノコ雲が上がったのを家族と一緒に見たそうだ。
元一式陸攻のパイロットに飛行機の操縦を教わったことがある
仏壇に飾られてた爺さんと血が繋がってなかったのを最近知った
親戚のじいちゃんは南方戦線だったな
駆逐艦撃沈されて海に投げ出されてどっか島でサバイバルしたとか言ってたw
赤痢が一番こえーって言ってたな
シベリアで捕まったけどどうにか逃げたらしい
ばあちゃんに会いたくて
あの時じいちゃんが逃げてなければ自分もこの世にいなかったんだなあ
シベリア抑留されて生還した人に話を聞いたことがある
ずっと空ばかり見ていた、と
横を見るとつらく苦しい光景しか見えず気が滅入るから、明るくきれいな空ばかり見て、希望を保ち続けたと
明治40年生まれの爺さんは終戦の年に徴兵検査を受けたけど偏平足で不合格だった
当時は偏平足は長距離を歩けないので兵隊には向かないとされていたらしい
軍需工場に徴用されて銀河という飛行機の足回りを作っていたと言ってた
爆弾が落ちる時はヒューという音がするんだけど地面に近づくと音が消えたそうだ
>>336 うちのじいちゃんも
ソ連人は数が数えられないって言ってた。
満人は、整列できない
逆かも知れないけど、こんなこと言ってた。
明治生まれのばあさんが満鉄病院のナースで撫順に住んでた
爆発事故の患者が運び込まれたて言ってたけど、授業で習った頃には亡くなってた
身内で直接参加した人が少ないからなあ戦死者っても20万人とかそんなもんだろ
そんなに人死んでない
俺は第一次大戦、第二次大戦、最近だと蒙古襲来も体験した
いろいろな戦場を体験したけども、戦争は変わらない
ただ生き延びて家に帰りたいだけなんだ
祖父は昭和一桁生まれで学制改革最中くらいの時代に県立平塚高校を
卒業してて通知表も見せてもらったが面白いことに修身だけが最低ランクの評価で
ほかのことはみんな高評価なのよ
祖父は戦時中から日本の敗戦を予測してたらしく勝てるわけない
って主張したらこの成績になったわけ
東北のド田舎だけど、戦時中小学生だったばぁちゃんは太りすぎで学校に来た医者に怒られたらしい
畑もあるし鶏飼って卵食って、山で兎や猪も狩って食ってたから食料に困ったことなんてないて言われて小学校で聞いてる話と違いすぎて困惑した
あとは祖父は横浜大空襲も知ってるらしく祖父は厚木のほうに
いたが神奈川の県西部のほうから大量のB29爆撃機とかグラマンが
飛んで行って横浜方面から煙が上がってやられたって思ったらしい
>>361 農家は食費に困ってないからなそういった地方の農家の出の人間と
都市部の商家の人間が結婚することも多かったようだ
はっきり言って戦争体験にも格差はあって祖父の家のような
戦時中から終戦直後あたりで高等教育に行ける家の人と庶民では
全然違ったようだね
ウチの先生昔ドイツ留学してて、ビアホールで飲んでたら数人のドイツ人じーちゃんに「お前は日本人か?そうか、カイザーヒロヒトは元気か?この前は腰抜けムッソリーニのおかげで負けちまったが、次やる時は俺たちドイツと日本で頑張ろう!な?」と言われたらしい
アイツらまた懲りずにやる気か?と思ったそうな
あと昭和19年生まれのお袋が子供の頃は
町の中には大やけどの痕がある人とか手や足が無い人がよくいたけど
大人になる頃(昭和40年ごろかな)にはなぜかいなくなったと言ってたな
>>367 本当にそんな死んだなんて信じられないな強いて言えば祖父の身内が
関東ではじめての零戦パイロットとかだったさけど実戦配備の前に
訓練中の事故で殉職してしまだなと言う人はいるらしいが
あとは母方の親戚の話によると終戦直前に師範学校の学生まで
動員したので教師の数が足らず元軍人を教員となったらしいが
元軍属の教員はみんな体罰するタイプだったとか
戦後の日本の教育がそういう体罰が増えた原因が師範学校出身ではない
軍人上がりが教員を務めたせいなそうな
兵士爺さん結局聞いても詳しく教えてくれないまま逝ったわ
良スレだなあ
昭和2年生まれの祖父もこないだ死んでしまった
元気なうちに戦争のことは聞けたから良かったが
みんなの書き込むエピソードもとても貴重だ
なんでみんなそんなに戦死してる人が身内にいるのか不思議だ
まあ祖父の実家とかいかにも余人をもって変えがたい家系だから
なのかもしれないけど祖父は戦後すぐに高校を卒業してそれから
日本製鋼?とかいう企業に就職しつつ夜学に通ってたとか
祖母と母のことになるけど昭和19年頃日本男児の平均身長160cmの時代に祖母は170cmあり
日本軍の女スパイ採用され終戦直後に満州で祖母の腹の中にいた。ところがすぐに終戦して満州はロシア軍も
巻き込んで混乱、そして祖母は妊娠していてが何とか帰還船に乗り長旅の途中で産気付く
どんな方法か知らないが日本の親族に事情を説明して赤子に必要な物を持って船着き場で
待機を頼み、その後産まれた母はまんまジブリ「ほたるの墓の節子」と同じような人生を送る
だが東京の義姉がやってるスナックに拾われ19歳で親父とできた結婚、腹に中には俺がいた
幼少期から特殊な人生を送って普通の人の生き方を嫌いムチャに生きて58才で力尽きた
ちなみに母の父親は満州の日本仲間で結婚したがロシア軍に連れていかれ処刑
祖母は長年の心身への負担だろうか母が9才とき38才結核で帰らぬ人に、結果母はミナシゴに
母の戸籍には海の上なので「北緯〇×度なんちゃたという記載になってる
はっきりいって戦中戦後の状況もかなり格差があったように思うね
自分の身内から出征した話そのものをほとんど聞いてないからみんな
終戦まで国内にいたっぽいんだよね
そういや近所のタバコ屋さんの主人は片足なくて戦争で無くしたっていう
話だったな戦後そう言う人の恩給としてタバコの販売権を優先的に与えたとか
浅草の実家が丸焼けに
中野の親戚に家族6人身を寄せて
その後は遠縁の福島の家に
せわになった…と聞いた
母は疎開で福井に
文通していた兵隊さんがいたが…
戦後爺さんはGHQに雇われて通訳の仕事をしていた
その時に仲良くなった若いアメリカ人将校が帰国する時にいつも持ち歩いていたポケットナイフを記念にくれた
その将校とは死ぬまで友達として付き合って爺さんが死んだ90年代にはEメールでやり取りをしていた
新しい物が大好きで子どもみたいに好奇心の塊で何でも知ってる爺さんだった
>>374 戦死した親族が誰もいないなうちも
母方、父方
誰もおらん
祖母が原爆投下の瞬間を目撃して
祖父が終戦後に死体だらけな広島の市街地を走ってた
>>9 父方の祖父母家族と全く同じだわ
自分達でちょうど締め切られ次回乗船扱いされてがっかりしていたが、その逃した船が魚雷で撃沈され乗員乗客は全員死亡したって亡くなった祖母から聞いた
へたすりゃ満州からの引き揚げ船で一緒になってたかもしれんね
母方の伯父は通信士としてフィリピンに行ったけど
同期に「俺は一人っ子だから絶対に生還して家を継がないといけない」が口癖の人がいて
「俺は弟が二人いるから戦死しても大丈夫だなぁ」と思っていたら
自分が生き残ってその同期は戦死してしまった
伯父はその後88歳まで生きて叙勲受けて(郵便局長してた)数年前に他界したよ
その次の伯父は特攻隊員で、一度実家に帰省したことがあって
伯父は180センチ近い身長だったので白い軍服が似合って母は「かっこいいなぁ」と思っていたそう
今思えば出撃直前の休暇だったかもということだが、夏だったので終戦前だったのではとのこと
結局伯父は出撃することなく生還、95歳になった今もボケずに元気でいる
>>286 自分の先祖は後北条の家臣団の一つ富田氏の末裔これはガチな話で
室町時代からずっと大和市福田に根を下ろすガチの上級国民だぜ
>>383 うちも強いて言えば関東で初の零戦パイロットになったと言う
エリートパイロットが訓練中に死亡して莫大は恩給をもらったという
そう言う話しか聞かない
>>383 だから戦争の話とか聞くと絶対盛ってるだろって思ってしまうよね
>>19 無事に戦地より帰ってきたと言うよりは掃海船に乗っていたから、人は殺していないはず
どちらかと言うと魚雷撤去で戦友が死ぬのを見ていたって言っていた
両親は戦後生まれだが、定年退職して移住した岐阜県の高原は
満州開拓団の生き残りが開拓した土地だな
戦前は道路事情がよくなかった上に国内屈指の豪雪地帯だったので
村を出て満州にわたったわけだが、結局全てを無くして故郷のさらに奥地
水芭蕉と湿原しかない土地を開拓することになったという
東京大空襲で焼夷弾が真横に落ちてきたけど不発弾で助かったって話を聞いた
それがなけりゃ今ここにいなかった
105歳で他界した祖父は元海軍少尉で、愛宕と山城に乗ってたそうな
正八位の官位も貰ってたな
4年前に亡くなった知り合いの爺さんが、士官学校から将校になって呉の軍港から武蔵の出航を見送ったって
仲間と撮った写真を見せてもらった時、友人でも兄弟でもない、全員戦友だと言う言葉が物凄く印象に残っている
読んでると現代のDQNみたいな奴は平気で一般人殺してる感じだなぁ・・・・・
大虐殺は無かったろうけど一部では虐殺はあったんだろな
>>387 その家系を貴男で終わらせる気分はどのようなものなのか
そりゃ生き残った人の話しになる
前線に行かずにカタワや不器用な人はベラベラといかに大変だったか誇張して話し
戦地に行かないペーパー軍人はウソを語り
過酷な戦地に居た人はあまり語りたがらない
同調圧力と性欲と食欲の渇望は人格を変える
爺ちゃんが徴兵する前の検査で結核が分かって免除されたこと
母方の祖父の兄の家は長男が戦死して普通に家が絶えた
>>387 匿名掲示板で家柄自慢とか
くっそウザい老害だなオマエ
リアルでお前みたいなジジイ知ってるから余計鼻につくわ
母方の祖父は戦争の話1回もしなかったな
嫌な思い出なのかもしれない
父方の祖父はたまにしたけど、後方部隊だったみたいだった
満州からの帰国組にいた人から聞いたが、帰りは地獄のようだったと。
朝鮮人の強奪、殺人、レイプが凄まじく日本に帰り着いた人たちの仮設住宅の側には堕胎専門の医者を作っていたって。
うちの祖父母も自分の事は語りたがらなかったなあ
祖父は満州で歯科医をしていた祖父宅に仕えていた祖母と結婚した
祖母がなくなる前に「おばあちゃんが朝鮮人だったらどうする?」って聞かれた「ばあちゃんはばあちゃんだよ」って返したけど、このご時世複雑な気持ちになる
>>107 被爆は遺伝子やられるんだから二世三世でも影響出とる人は出とるぞ
世代に継がれる被害だからこそ別格に恐れられてる訳で
自分が大丈夫だから他の人も大丈夫だろという思考は危険
じいちゃんは呉に停泊してた雲龍型航空母艦三番艦の葛城に乗ってたって言ってたな
出撃の機会もなく、空爆も免れたから親が生まれて俺も生まれたわけだが
じーちゃん空襲で焼夷弾が落ちてくる中を逃げ回ったっていってた
親兄弟ばらばらになったけど後で全員無事に再会
>>409 亡くなる寸前に頑なだった老人がチラホラと語りだしたのは
南方孤立 飢餓の状態だったので 同胞を後ろから殺して
その肉を食って生き延びてた・・ とかな
やるせねえわ (´・ω・`)
瑞鶴が沈んだ時に乗船してて何時間も泳いだ話を聞いた
福岡の十五銀行蒸し焼き事件
子供の頃伯母さんから聞いてトラウマになったわ
法事になると毎回同じ話が出るので耳タコ
大陸に渡る際ひとつ前の船が沈められただの
もう終わりの方だったから旧制中学繰上卒業からどんどこ出世して最終的に軍曹だか曹長だかになっただの
引き上げで遠くの港に下ろされて郷里に戻るまでろくに連絡も出来なかったのに、駅で何故か家族が迎えに来ててびっくり!なんでも祖父の母が「今日帰ってくるから迎えに行こう」と突然言い出したというスピリチュアルなお話等々
皆、胡散臭さ
オレが当事者だったら負の面は子や孫に絶対話さない
誰も殺さないように頑張ったそうだけど、一度上官が目の前で韓国人を一人処刑しろと。
やらないと自分が殺されると思った恐怖でその人の頭を銃で打ちぬいたと。
帰ってきてからもずっとそれを悔いていて、その韓国人の名前を仏壇において死ぬまで謝り続けてた。
>>366 平成初期くらいにはまだいたよ
働けないから乞食みたいなことしなきゃいけなかった
戦争で足がなくなったという紙とともに缶横に置いて座ってた
>>424 そうそうw
日が暮れる頃に歩いて帰って行くんだよね
うちの祖父は鰻を食べなかった。
シベリア抑留されていた時に食べていた蛇を思い出すからだと。
>>409 戦争体験者でも前線で人殺したひとと
後方で雑用じゃまるで違うもんな
>>374 適当に考えても
1945年までの戦死者が軍民合わせて大雑把に300万人 当時の人口が7200万くらい
昔なので平均の子供数が3人位として孫世代だと2000万人〜程度はいることになる
4分の1程度なので結構見かけるわけだな
うちの親戚は誰も死んでないので話がないけど
広島市中区本川町(原爆ドームから北西400mくらいのところ)に自宅があったのに特に被害がないのが謎すぎる
辛い記憶だったり自分は正しかったのか思い悩む話がきっと多くて、本人は語りたがらない事が多いのだろう
自分が聞いたのは当時幼児だった父の記憶だそれも祖父母が亡くなってから。孫に話したくない事だっただろうと言う微妙な話が散見される
火事場泥棒 ○○○には気をつけろ ○されるぞ
って曾祖父ちゃんがいってたな
年的に東京空襲にあってたはず
いまでは差別表現になるからなぁ
歴史って当てにならないのかもね
爺ちゃんは母ちゃんに戦場でのことは一切話さなかったらしい
たまに戦友が遊びに来てみんなで飲んでハーモニカ吹いてたそうだ
>>430 ほんとだ
北西に被害を受けてない地域がぽっかりとあるな
身内じゃないけどベトナム人の子と付き合ってたとき
ベトコンだった父ちゃんの話聞いた
戦闘中に足負傷してアメリカ兵に見つかったけどそのまま見て見ぬ振りしてくれたんだと
だから恨みは全くないってさ
祖父は仮病で徴兵を逃れたと言い張っていたがそんなことが許されるのか
戦争の頃は食べ物がなかったと言われたけど、1年か2年
それ以上に嫌いな物を無理矢理食わされて苦労した数年間
食い物ない方がマシ
俺のおかん(昭和22年生まれ)
昭和20年8月9日ばあちゃんは小倉の工場で働いてた
当時の小倉が晴れてたら俺はいない
ちなみにばあちゃんは103歳の現在も元気だよ
>>371 だから戦争に負けたんだって子供ながらに思ったなぁ
日本は負けるべくして負けた
アメリカは物資も日本みたくないとかなかったからなぁ
シンガポールで調子こかなきゃ変わってたけど、まぁあんな軍人上がりの糞教師じゃどの道負けてたな
それと、GHQ!!何で英語を公用語にしなかったんだ馬鹿野郎!!どんなに勉強しても全く理解出来なくて他の教科にも影響でちまったじゃねーか!!
ヒアリングなんて全く聞き取れない、和訳問題なんて答え1つを当てるなんて無理無理
秋田の生まれだが母親(すでに死去)が子供のころ空襲を見たと言ってたんだが
秋田の糞田舎で米軍が空襲なんかするのか? とか思ってた
最近ふと気になって調べたら見たのは土崎空襲っぽい
「第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)8月14日夜間から翌日の8月15日にかけて、秋田県秋田市土崎港周辺を標的としたアメリカ軍によって行われた大規模空襲である。
この空襲は太平洋戦争最後の空襲であり、また、秋田県で唯一の大規模空襲であった[4]。」
多分小学校1年生の時の隣のクラスの先生が飛行機の機銃掃射から逃げてドラム缶に身を隠したみたいな事言ってたな
その先生はドラム缶のような体型をしてたから隠れられたのか甚だ疑問だけど
あと俺が生まれたときにはもう死んじゃってたじいちゃんが戦争に行って精神崩壊して帰ってきたんだと
帰ってきてからはずっと飲んで寝ての繰り返しだったらしい
どうやって生活費稼いでいたのか知らんが40代で肝臓壊して死んでしまった
>>438 大正5年6年産まれかな?
そのくらいの世代の人って1番強い気がする
日本に引き揚げる際に不逞な朝鮮人に妹が親の形見として持っていた人形を取り上げられ値打ちがないと見るや破壊された
朝鮮人は決して信用してはならないし関わり合いになるのもだめどうしても関わるなら絶対に金の話をするな
カネカネ言い出していつ強盗に及ぶか分からない生まれきっての畜生以下だ言葉も通じない絶対に自分から関わりを持とうとするな
っていう話を親戚の集まる機会でことあるごとに言って聞かせてた大叔父が昨年逝ったわ
>>344 ほとんど同じ情景の夢を子供の頃から繰り返し見てる
最後の遠くの空がパッと明るくなって叫び声が聞こえるっての読んで全身鳥肌立った
こえー・・・
>>366 そう?
俺は見たことないな
まあ年齢的に平成までいたのは間違いないだろうけど
>>344 あれ?
でも東京大空襲って真夜中じゃなかったっけ?
捕虜にしたアメリカ兵を寝かせて頭にでかい石を落として殺して笑ってたらしい
>>443 うん大正5年だったかな?
こないだちょっとしたことで母方の家系図見る機会があったんだけどこのばあちゃんの親(俺にとっちゃひいばあさん)の兄貴が天保生まれだったのは驚いた
戦争の悲惨さは語り継ぐべきと思うけど、ここの創作文では心に響かない
お爺ちゃんは学徒出兵で中国行ったらしいが、すぐ終戦になって日本に戻った。お婆ちゃんの弟は特攻で死んだ
結構いい暮らしをしてたばあちゃんは戦争なにそれ美味しいの?状態だったらしい
で、疎開してきた都会のガキが物乞いみたいにくれくれ言ってたわーと言うてた
土地持ちの農家は強かったんだろうな
呉の軍港から大和が最後の出向をした時に港に居た人達はみんな「負けるなこれ…」って思ったらしい、油が無くなって資材もほぼゼロになったらしい
敗戦直後、憲兵隊は仕返しを恐れて身を隠していたがたまに見つかってボコボコにされてるのを見かけたって。
これ読んでみ
祖父の硫黄島戦闘体験記
http://www5f.biglobe.ne.jp/~iwojima/index.html
地獄のような戦場だったのは読めば分かるけど
筆者は至って淡々と普通の日記のように書いている
達観し死ぬのを全く恐れていない
かと言って強がったり気負ってるわけでもない
ユーモラスですらある
戦前の日本人は凄いとしか言いようがない
こういう日本人が普通にいたからこそ驚異的な戦後復興ができたのだと思う
じいさんもその兄弟も戦争行ったけど戦争の話は全然しなかったわ
聞きたかったけどね
身内じゃないけど南の島に行ってた爺さんが
「色んな動物食べたけど一番美味かったのはアリクイ」
って言ってた。不味かったのは猫科らしい。
>>439 さあ。貴方が馬鹿だと思うなら貴方にはそうなんじゃないですか?
>80
むしろ、太平洋戦争末期には、
日本から奪取した、硫黄島や、
日本近海の空母機動部隊からの、
大量のP-51、F6F F4Uコルセアなど、
護衛戦闘機の大量の随伴での、
空中戦での、日本の防空戦力の消耗、低下から、
B-29爆撃機は、大量の飽和攻撃、超低空での
絨毯爆撃をするようになったぞw
東京大空襲あたりでは、もう、
B-29後部の対空機銃座以外、
全部、外して、
その分、焼夷弾を積めるだけ積んで、好き勝手に、爆撃しまくりだったw
うちのじいちゃん運良く田舎でずーっとグライダーの練習してる時に戦争終わったから不謹慎だけどめっちゃ楽しかったって言ってたわ
そのせいで語り部みたいなのに絶対呼ばれないw
YouTubeで当時の満洲開拓団の映像みてたら
当時すでに重機やクレーンが動いててコンクリート打設やってて
今とそんなに変わらなくて驚いた
満洲人は清をよく思わない人が多くて日本に親切な人多かったらしいね
当時の東京よりも大都会だわ
>>453 途中までだけど読ませて貰った
淡々と語っているけど内容が怖いな
昔の人の精神力は凄いとしか言えないですね
夏休みの宿題で戦争の話聞いてこい、ってのがあって
軍人だった祖父に聞いたが、一切話してくれなかった
婆さんいわく、こどもには聞かせられないよ、と
喜んで語り部やってる人の話は話し半分でも聞きたくない
疎開から帰ってきたら家を朝鮮人に乗っ取られてた
生き残りの女だけで追い出そうとしてもガンとして動かず、
まだギリ徴兵されてなかった中学生の親戚集めて
棒キレ振り回してやっと追い出せたって話は聞いた
>>457 韓国はいつ建国されたっけ?
戦時中に韓国人を勝手に処刑?
>>465 さあ。詳しいいきさつまでは聞かされてないよ。
敗戦後は囚人になって、カエルととか蛇を生のまま食べて生き抜いたとか。
>>465 あと、黒い犬は美味しいけど白いのはまずいとかも言ってた。ははは;
>>466 ゴメン
創作文にツッコミ入れて悪かった
呉にいた海軍の人の話や、空襲被害の話は生々しく
不謹慎かもしれないが面白かったな
元軍人の方は楽しそうに話してくれたし
語り継がれてる戦争体験の半分くらいはパヨの捏造創作らしいな
日本人を戦争アレルギーにして侵略しやすくする中韓の大計だそうだ
気の長いこって
子供の頃にいろんな戦争話を教師に吹き込まれてまるっと信じてたわ
よく考えたらあちこち矛盾のある話が多かったわけだ
1941年生まれまれの親父79とかだよ
戦争は覚えてないな
>>468 創作分だと思うならそれでいいんじゃないかな?
別に個々人で信じたい真実をみて生きていけばいいと思うよ。
あまり語りたがらない人は人肉食って生き延びた人だってさ
爺ちゃんが言ってたよ
ラバウルでトンツー兵をやっていたそうだ
戦場に着く前に、1/3程が船酔いで死んだそうだ
まるで消耗品のようだったと言っていたよ
>>453 なんか修行を極めて悟りを開いた高僧みたいだな
親父が中学生の時、特攻兵器「震洋」の訓練基地のあった長崎県の川棚って所に、
学徒動員で送られた。
敵機来襲時に半鐘を鳴らすための櫓が立っていて学徒が当番でそれに登って見張るんだけど、当番の時に敵機が来ても当番だけは逃げる事を許されず、ひたすら鐘を鳴らし続けないといけない。
運悪く親父が当番の時に敵機が来て佐世保方面に爆弾を投下して行ったらしいが、
慣性の法則で爆弾投下後も、B29と爆弾はしばらく併走してから落ちていったそうだ
長崎原爆は待避壕の中で食らったらしい。
壕の中でももの凄い風が吹いて軽く吹っ飛ばされたとのこと。
余談だが当時の川棚基地の海にはもの凄い数の巨大メバルが泳いでいて、
慢性空腹の親父達はそれを釣って食いたかったらしい。
でもそれを採る事は許されなかったとか。
特攻隊の人達も表面上は笑って行ったらしいけど、とても真似出来ない
>>473 少なくとも祖父から聞いた話で何一つ嘘は言ってないよ。
>>479 俺は信じてるけど話が通じない奴にはもう無駄だからNGしたほうが良いよ
知覧の特攻隊の出撃前の書物とかでも
おどけてる人いるもんな
その心中たるや、、
俺の爺ちゃんが戦艦大和の砲手だった
最後の出撃で大和が沈む前に急降下してきたドーントレスに飛び移りそのまま日本に帰国したらしい
俺の自慢の爺ちゃんだ
うちの爺は中国戦線に行ってたな
中国軍が野盗化して中国の村々を襲ったり殺したりしてたから
それを防ぐために村をガードしてたらしい
日本兵が中国の村を守ってたという変な構図だった
その野盗化してた中国軍というのが現在の中国共産党だ
>>481 あそこで俺が一番感銘を受けたのが
「男子としてこのような命の使い方ができる時代に生まれて最高に幸せです」
みたいな遺書
当時の日本人は命はできる限り長く維持するために使うものではなく
長さに関係なく有効に使うべきものだった
哀しくもあるが男子として共感できた
爆撃機の空襲は一応警報鳴るからまぁ良いと
怖いのは艦載機による突然の襲撃だとよ
看護婦のばあちゃんは大陸で兵隊さんと鶏〆て食って楽しかったあって言ってた
>>484 通信兵で生き残った武道の先生曰く、当時の若者は「如何に生きるべきか」ではなく「如何に死すべきか」を考えてたって言ってた
10年くらい前に死ぬまで毎年知覧に行ったり記念館に何か寄贈してたりしてたよ
>>1 広島市内じゃけど、原爆勉強は小学で飽きた
あと部落差別とか朝鮮人謝罪とか他所の世界の話のようにされたな
クラスに部落民も朝鮮人もいたっての卒業して20歳で知ったわ
>>484 個人的には、身近な人達を悲しませない為の精一杯の強がりと読めるけど…
ただ、そんな言葉を思いつくってどんだけ強いんだよと
確か、齢は二十歳前後でしたよね…
おばあちゃまから聞いたお話
長男を疎開させた事(汽車の窓から大泣き) おじいちゃまは会社に必要って事で戦争に行かなかった事
親戚の子供が毎日庭のお掃除をしに来てお駄賃あげてたんですって
その子が特攻隊に皆を守るんだって言って行かなくてもいいのに自主的に行ってしまった事
後からお仏壇の引き出しに髪の毛を置いていったのがわかったこと
その子がおばあちゃまの末娘の子供にそっくりだってしょっちゅうアタシにだけ言ってた事
(1度末娘に言ったらすごく嫌がったらしいのよね)
結局その特攻隊行った子以外はうちの親族誰も戦争で亡くなって無いのよ
上級ってすごいわね
アタシはおミソだけどさ
マジレスなら祖母の祖母
100年以上前に産まれた人から
伝わってる話
うちの村から若者が日清戦争に駆り出された
戦が終わると全員無事に帰って来たので
村で祝った
数年後こんどは日露戦争で更に多くの若者が
村から駆り出された
この時は帰らない若者が多かったそうだ
>>479
当時 特高(特別高等警察)に関わっていたのかもね(´・ω・`)
朝鮮人だろうが日本人だろうが 国に反対する者は「アカ(共産主義者)」扱いで
当時「不穏分子を処理する事が正義」の恐怖政治だったらしいから 拷問して殺害し その死因は病死扱いしてた
この手の話は「はだしのゲン」とか「龍(村上もとか)」の漫画にも載ってるくらい
結構有名だったりするよ
特高の話だと ちょうど今週号のヤングマガジン「アルキメデスの大戦」に
特高の話が載ってる 立ち読みでもいいからチェックするべし 俺の祖父母は戦前、大陸にいたんだけど
敗戦で日本に引き揚げる時、ロシア人にレイプされないように婆ちゃんは丸坊主にして男のフリをした
爺ちゃんは腕時計をロシア人に取り上げられた
日本人から取り上げた腕時計を両腕にはめて他のロシア人に自慢していた
「時計の読み方を知らないクセに」と爺ちゃんが言っていた
以前、両腕に腕時計をはめていた某スポーツ選手の名前を見る度に
この話を思い出す
祖母 鍋やミシンや代八車を供出させられてこりゃ負けると思ってたそう
祖父 大陸に出兵 当番兵?がひどく虐められていて可哀相になり、食事にふけをたんまり入れてやれと耳打ち 下痢が止まらず後送になり感謝されたそう
どういうわけか弾は逃げようとしたり人の後ろに隠れようとする人間から当たってしまうと言ってた
思い出話よりも写真を見せて貰うのが一番てっとり早い
地元から戦争へ行った人達の写真を見たら
ビックリするぐらいみんないい顔してる
そりゃそうだよ
漫画もアニメもTVゲームもない
みな親の手伝いと勉強と兄弟の世話をして育った
若者なんだからひん曲がった性格になるわけない
祖父 職業軍人なんだけど肺病を患って内地でずっと入院してた。以上。
沖縄戦体験した爺さんはヤマトの兵隊さんもアメリカーも上に命令されて逆らえなかっただけだ
方言を話すと兵隊に怒られたのも言葉が通じないからしかたなかったんだよって教えられた
戦争は悲惨だから語り継いで二度と起こしてはいけないって言ってた
でも実際は戦争の話はしなかった
終戦後イモ(さつまいも)の茎や葉っぱ食べるほどひもじかったとかソテツ食べて毒で死んだ人がいたとかの話ばっかりだったな
ばーさんは逆に一切語らない
>>497 志願も多かったから十分に有り得るね
死にたくなかっただろうに可哀想。。。ってのは
とても失礼だと思う
父方の祖父は池袋の空襲で死んだ
祖母ちゃんと父ちゃんは田舎に疎開してて助かった
帰ってきて聞いた話じゃ、近所の人たち防空壕に入ってたけど
防空壕ごと爆破されて、みんな死んだらしい
近所に住んでた同級生や、ちょっと好きだった女の子もみんな死んだってしみじみ語る
毎年3月くらいになるとこの話を始める、実は結構ボケてきてる
ちなみに池袋の北側がゴチャっとしてるのに
南側の街並みが整然としてるのは空襲で焼け野原になったから
親戚のおっさんが帰省して会うたびになんか真剣な顔して言ってきてたけどなんも覚えてない(´・ω・`)
父方母方共に戦死者がいないのでピンと来ない
遠縁の人が一人亡くなったらしいという程度
被害らしい被害は台湾に住んでた母方の家が空襲に遭って屋根にひとつ穴が開いたことくらい
うちのじいちゃんは参戦期間はわずか4ヶ月なのに
その後のシベリアに6年・・・
先年、お盆の挨拶に親戚に行った。
その家の墓参りをしたとき、ずらっと並んだ墓石のひとつが
硫黄島で戦死した人のものだと知らされた。
(田舎なので一人一人に墓石がある)
硫黄島が一気に身近になった・・・
祖母 Uボートで来日したヒトラー・ユーゲントの一団を見た。みんな美少年で凛々しかったって。
近所で有名な祭りがあって毎年楽しみにしてるけど
昔は傷痍軍人がいっぱいいてむしろ怖かったって近所のおじさんが言ってたな
うちの婆さんが言ってた
戦時中天皇陛下のことを、頭が少しおかしいらしい、と近所でささやかれてたみたいだ、戦争映画にあるような天皇陛下万歳とかそんなことは誰も言わない、ばーかばーか脳足りん(笑)と言っても別に警察にしょっぴかれることもない、映画と現実は違うと言ってた
>>513 大正天皇と話がごっちゃになってんじゃね?
数年前に死んだ少年兵だったジジイの話はよく聞かされたが大したことは言ってなかったな
爺ちゃんが復員してきた時、日焼けと煤で真っ黒になってたから
婆ちゃんは黒人が襲いに来たと思って悲鳴をあげたらしい
満州に行ってた祖父はそんなに話してくれなかった
でも大事にしてるアルバムに一緒に満州に行った人達の写真があって何月何日どこで戦死って几帳面に書かれてた
話で聞くよりもその写真がすごく切なかった
うちの実家辺りの戦時中のはなし
B29が何度も家の上を通って行ったのに
平成になっても地区内には戦前に建てた家が多数残っていた
つまりそういうこと
中学の頃の地理の教師で「俺は中国でたくさん人を殺してきた、その反省から教師になってこの悲劇をみんなに伝えている」としつこくいうヤツがいた。
若すぎてどう考えても年齢が合わずに言っていることも辻褄が合わなかったので聞いている生徒もうんざりしていた。
ある日、その教師がまたグダグダ言い始めたからクラス中で示し合わせて同時にカンペンを床に落としたら教室中に響く轟音となって、教師は顔を真っ赤にしてファビョって職員室に逃げて行った。
父親が旧制中学時代に、松根掘り勤労奉仕中に、機銃掃射されて友人の亡骸背たろうて連れて帰った言うてた。他には京橋空襲の時、砲兵工廠から駅に行かなくて命長らえたとか後で叔母から聞いたなあ。共にもう鬼籍行ってしもたけど。
そんなことはないよ、婆さん生まれが大正12年だったか、戦時中は20代ですでに結婚してた、映画と現実は違うということだ
母が伊豆諸島出身だが米軍が東京空襲のあと余った爆弾やら銃弾やらを浴びせるように落としまくって好き勝手にやられた、防空壕に入る寸前に爆死した人を見て足がすくんで動けなくなって隣のおじさんが抱いて防空壕に飛び込んでくれた
いよいよ疎開するときに日が落ちる真夜中に焼き玉エンジンで抜け出して上空を飛行機飛ぶ度々にエンジン止めてほとんど隣を潜望鏡(潜水艦)が通過した時は沈められると覚悟した、なんとか下田にたどり着いた時は涙が止まらなかったそうだ
飛行機が撃ち落とされてパラシュートで落下してるとき相手のアメ公が笑いながら羽で引っ掛けに来るのが見えるそうだ
母方は、上海事変最後まで残ったせいで財産殆ど無くして長崎引き揚げ後暮らしてて原爆投下一日前に、夜行で山陰側経由で伊丹に疎開。神戸の町は既に焼け野原だったと聞いたなあ
爺さんがソ連に捕まって生死不明だったので、
戦後しばらくは恩給的なものは何もなく婆さんは幼子抱えて苦労したらしい
死んだとハッキリわかったのは今から5年ぐらい前
シベリアに抑留されて、身長が180近くあったからナニかと使われて、そのまま帰らぬ人に。
その後に日本の田んぼの遠くでこちらを見てるのを見てもう亡くなった事をさとったと言っていた
>>478 覚醒剤打たれたからだよ、恐怖心取るために
おかげで敵艦命中率2割、残りは撃ち落されたか
勝手に海に落ちていった。バカ丸出し最低最悪の無能作戦
>>336 >>356 シベリアで数年強制労働させられてバケツ等を作らされた爺さんの弟達は
最初はノルマ通りに工場で物を作っていたが
慣れてくると前日に作った物を倉庫から持ち出して当日作った物と混ぜて
今日のノルマを作ったと誤魔化していたが日本に帰るまでバレて無かったそうだ
母親が戦後満州から帰って来た同僚から聞いた子供時代に同僚の周辺で流行ってた遊び。
露店商の店先で商品をかっぱらって逃げ、追って来た店主に振り向きざま、カミソリで斬りつける遊びが流行ってたらしい。
>>479 今の時代で言う韓国人の事だよな
戦争当時じゃマトモな人も戦地に行けばおかしくなると思うし
いくら戦争でも自分の手で殺してしまったらずっと後悔する人だっているよな
うちのある爺さんの写真
富士山をバックにして銃器を構えてる写真が一枚だけだ
中国にいたときに船が沈められたけど仲間に助けられた
沢山死んだ。
あれから戦争の話は殆どしなかった。
壮絶な体験だったからね。
20年以上前だけど、じいちゃんの葬儀に知らない人達が参列に来ていて、元部下だと聞かされた。じいちゃんが大佐(士官らしい)という階級も聞いた。生きているときは何も話してくれなかったな。
>>535 済んでたらしいよ。
これは、俺が聞いた母親の想像だけど、誰が訴える?
訴えてその子供が罰せられる?
そんなことにはならないって。
但し、その同僚が嘘をついている可能性もある。
南京の百人斬りもそうだが、そんな話が自慢話になる恐ろしさ。
じいちゃんからは地元にパンプキンが落とされたときの話はされたなあ
B-29が焼夷弾を落とす前に投下する照明弾が花火みたいで綺麗だった、と言ってた
>>16 オラも親戚の東京住みの婆様から聞いたなぁ
空襲で火傷おうと本能的に川に飛び込むんだなぁ
橋の両端は死者でいっぱい
お母さんが子供を抱えて亡くなってたのは、ずっと印象に残ってたみたいで、話を聞いてると映像が見える感じだったわ
南方で戦ってた近所の爺さん。
物資が不足し、ケツを拭く紙もない。
大きな葉っぱに指を刺し、指でケツをぬぐってから葉っぱで拭き取ったらしい。
面白おかしく語ってたわ。
母方の祖父がインパール帰りだけどそんな話需要ある?帰国は翌年の5月に佐世保。
蔵や玄関に爆弾が落ちて燃えたり
家の前流れてる川に死体が流れてきたとかそんなの
最近でも中東のタリバン兵は覚醒剤打って特攻してたみたいね
腕が飛び散ったり脳みそ飛び出ても笑いながら撃ってくるらしい
軍事情報の動画は一般人には見せないけど
現地ジャーナリストが撮影したものに映ってるんだと
覚醒剤は関東軍が満洲で作って資金源にしてたらしいけど
清の最後の皇帝がヘタレでイギリスに恫喝されて
イギリスと日本による覚醒剤蔓延を抑え込むことが出来なかった
生前、ワイのジッちゃんが良く言ってたわ
「飯はまだか?」って
小学生の時、近所の酒屋によく来る左腕のないお爺さんがいた
ある日、何で腕がないの?と聞いたら、怒ることなく優しく教えてくれた
戦争で大砲が飛んできて、仲間がみんな死に自分だけが助かった事、気が付いたら腕がなくなっていたこと、腕はなくなったけど生きのびて平和になって、本当に良かったと思っていること
最後に、だから戦争はやってはいけないんだよ、と言って帰してくれた
帰宅して母親に話したら滅茶苦茶怒られてたけど、どんな平和教育よりも深く心に刻まれている
親父
▪グラマンが頭上で機銃掃射+ロケット弾斉射
▪原爆炸裂の閃光をみた
▪盗んできた砲弾をいじくってた友達が吹き飛んだ
ホームのじいさんが10代の時に
特攻隊に任命されて
ヤケになって軍に奉仕に来た女の子に
手を出したら営倉にぶちこまれて
その間に戦争が終わったと言ってたわ
じいちゃんの学生当時の寄せ書きを見せてもらったことがある
戦中なのに戦争のことは書いてなくて
漢字の詩みたいな文とかみんなとの思い出とかがまるで文豪のような名文で
綴ってあって日本人はスマホのせいで
日本語だけじゃなく感性まで劣化したんだと思った
字が汚くなったのはPCのせい
入社当時はまだ手書き書類ばかりで、残してあるファイル開くと自分の字がえらく綺麗でびっくりするw
俺:戦後、朝鮮人による蛮行はあったか?
祖母:蛮行は見てないけど、たまに朝鮮人の行商が来ると、
親から「朝鮮人に付いていくと攫われるから気を付けな」と注意されてた。
>>548 あらやだおじいちゃん、一昨日食べたじゃない
ひいじいさんの兄弟がシベリア出兵の際に疫病で死んだとか
23歳の若さで軍医だったらしいが
親戚が玉音放送聞いたけど田舎だからラジオの入りが悪くて
よく分からなかったらしい
>>532 命中率の低さはアメリカの防御が強固だったからだぞ
ラリるほどヒロポン効かせるわけないだろ
周瑜とか孔明とかあいつら鬼畜すぎる
だって船焼くんだぜ?
>>453 昔の日記は感情はほとんど書かれず淡々としたものがほとんどだそう
理由はわからない
広島で当時の日記を現代でもわかりやすく意訳しSNSで公開してる人が言っていた
爺さんの弟にあたる人は招集されて中国に渡って上官から先ずは度胸試しだと言われて無抵抗の
中国人を殺すように言われたと言ってた、だから俺は戦後生まれのいくら肩書が立派な人が
日本はそんなに悪い事はしていないと都合のいいことを言ってても絶対に信じないよ
婆ちゃんの友達の話なんだが、一家で村会議員とか助役やってる元庄屋さんな家の長男と結婚して娘さんが産まれてすぐぐらいに旦那さん出征、戦後旦那さんが抑留されて亡くなったみたいな話になって、旦那さんの弟と結婚、弟旦那さんが家の跡継いだ。
で兄旦那さんが弟旦那さんとの結婚後一年過ぎて戻ってきたが、奥さん弟旦那さんの子妊娠中で、家督も弟旦那さんに渡ってるし自分の娘も弟に懐いてる、
で、兄旦那さんは離れた地所貰って戦友と一緒に工場やって自分の娘だった弟の娘さんになってる人の結婚式以外家に来なかったそうな
ある披露宴、新郎が海自の方でした。同僚上司達は制服で出席。
披露宴も御披楽喜に近づき、新郎のおじいさんの挨拶がありました。
一通りの祝いの言葉の後に、
「自分は海軍にいた。孫が艦に乗っている事を誇りに思う。
自分達の世代の不甲斐なさのせいで今の海上勤務の方達には苦労を
掛けていると思う。」
たとたどしくですが話されました。
同僚達は知らなかったらしく酔っ払っていたのが、段々背筋が伸びていき
神妙に聞き入っていました。挨拶が終わり高砂の席の一人が
「何に乗っておられたのだ」
と尋ねると、新郎は小声で
「大和です」
それを聞いた海自組一同すっ転ぶような勢いで立ち上がり、イスが倒れる
のも無視して、直立不動で敬礼を送りました。
おじいさんも見事な答礼を返されました。
私はその後は仕事になりませんでした。
ウェイトレスの女の子達は不思議そうな顔をしておりましたが。
うちのじいちゃんは13人兄弟の長男だったんだけど
学業成績も優秀で本来なら飛行機乗りとして召集かけられるはずが
自由奔放な次男の弟に兄貴はバカで愚鈍で何も出来ない意気地なしの出来損ないと吹聴されケンカになり
兄貴が乗るなら自分が乗った方がメリケン殺せると志願して零戦に乗ったらしい
そのおかげでじいちゃんは内地での訓練兵に回され
結局戦後まで生き延びた
次男は本当は人の悪口も言わない優しい人だったのに
長男であり家長である自分を守る為にやったんだって
夕方畑仕事から帰ってきて相撲見つつ晩酌しながらよく語ってたな
これ全部嘘みたいな作り話だけどさ
曾祖父曾祖母関係までいっても誰1人戦死してねーし、召集かかるまでに終戦した。親の周辺も戦死したのは1人しかいない。
祖父は関東のブートキャンプ的なところに入れられてたらしいけど
祖父大好きの祖父の祖父が祖父に会いたくて
家の中の現金をかき集めて、岩手からこっそり列車に乗って関東まで行ったらしい。
軍に金を寄付して祖父に合わせてもらう作戦だったらしいけど
合わせてもらえなかったらしい。
その寄付のお礼状みたいなのが今でも飾ってある。
当時の総理大臣の署名付き。
長文の割にはつまらん話ばっかりだな
もっと面白い話書けよ
ソウルが陥落して水原に遷都したから婆ちゃんもソウルから逃げる途中に爺ちゃんに助けられて結婚したらしい
終戦後、ガキだったオヤジが米兵の後をついていったらチョコくれたそうだ。それを持って帰ったらばあちゃんにぶん殴られたと。
本当に戦争の当事者だった連中は殆ど死んでるからな〜
当時10歳のやつがドヤ顔で戦争語られても萎えるわ。
俺らに子供の頃の高度経済成長時代とかバブルの時の話を語らせるようなもんだ。
>>577 ギブミーチョコレートの世代のお爺さんはアメリカの事を悪く言う人いないよなぁ
南方諸島に部隊ごと取り残されたじい様が
バカンスを楽しんでた
じいさんがインドネシア語話せる事を知ってびっくりした
「この集落は何人いる?」とか「食べ物はあるか?」とか
教師の教師が兵隊だったそうだが、前線で食い物がないとき、豚のケツをちょっと切り取って食っていたらしい。濡れた新聞紙を断面に貼っておくとすぐ復活して、また切り取って食っていた。豚も災難だわ
>>580 現役だった世代だと若くても90中盤から上だもんなあ
こうやって風化していくのかね
死んだ爺さんに聞いた事ある
満洲に行ったそうだ。
3回敵を倒したって。
薬莢や弾やサーベルを見せてもらった事ある
もう何処かに捨ててしまったみたいだけど
先年亡くなった親戚のおじさんは夜屋根に上って隣町が爆撃されるの見物してたらしい
すごくきれいだったって 戦争のさなかでも庶民はそんなもんだよな
>>580 だから年配者と話をするってことは大切なんだよ
南京にいたって日本人の話は出てこないなぁ
不思議だなぁ
ウチの婆ちゃんは山口のど田舎で農作業していた
突然空が真っ赤になり爆音が聞こえてきた
周囲の婆ちゃんたちと一緒にヒロシマまで歩いて行ったそうな
ヒロシマは川が多いんだが、原爆の熱さから逃れるためにみんな飛び込んだらしく
川は夥しい火傷して飛び込んでしんだ遺体が積み重なっていた壮絶な状況だった
婆ちゃんには、原爆が落とされても絶対に川に飛び込むな!!
と最期まで語っていた
広島では、運が良く爺ちゃんは生きていたらしく
まぁ、だからオレが生きているんだな
1985年の夏休み、宮崎のじーちゃん家でタミヤの戦艦武蔵のプラモデル作ってた時
「俺はな、ここで働いとった。でも港での整備だけやけどな」と船底の辺りを指さしてニコニコ笑いながら話してくれた
死んだじいちゃんが戦争に行ったら体力無さすぎのガリガリだったため役に立たず帰宅させられた
しかしじいちゃんは近所皆から見送られたため恥ずかしくて帰れず転々と暮らしていたみたい
数ヵ月後に家に帰り正直に話したらしいがみんなは生きて帰れたことが良かったと喜んだようだ
ただじいちゃんはその後もそのことがずっと頭にあったんだと思う
あまり町内活動も出てなかったみたいだ
その分親父と俺は地域の活動に積極的に参加してしまい市に表彰までされてしまう落ちになる
オトンが公園でヘラヘラとアホみたいに遊んでいる時に、世界の裏側ではキューバ危機が訪れていたらしい
自分の知らないところで人類が絶滅しかかってたんだよな
祖母は花火嫌だといっていたな
空襲の音と同じだといって…
先輩の先輩ぐらいまでが飛んでった少年飛行兵だったらしいおじいちゃん。
基地?に襲撃があるみたいで山かどこかの隠れられるところに逃げ、
監視役だったそうで敵の飛行機の数を何百か数えたらしい。
あと基地?に敵が飛行機で襲撃してきて、女性の軍属(と言ってた)が
目の前で亡くなったそうな・・。じいちゃんは、襲撃時、溝にズザーと隠れて
撃たれずに済んだそうだ。溝に隠れるって自分には結構すごく感じる。爆撃の方向によっては難しそう。
おばあちゃんは、たくさんの遺体を踏みながら空襲を逃げ、
防空壕にみんなで隠れたら、木の扉が火事になり、必死に水を掘って
水が出たので消すことができたそうだ。
お母さんは戦争後の貧しさの中で育ち、近所の人に醤油を借りてきてと
ばあちゃんに言われて借りに行き、タマゴもくれたよ、と戻ってきたそうだ。
ばあちゃんにバナナが食べたい、とても美味しそう、と言ったけど
ばあちゃんはとても高すぎて買えない、と言ってたそうだ。そんなにバナナ高かったんだな・・
うちの祖父は満州で憲兵してた時に配布された銃を帰国しても記念に隠して持ってた
死んでからどうなったかは知らん
嫁と長男を置いて帰国して残留孤児が数年前に親父に会いに来てたが
親父は唯一帰国後再婚した祖母との子供だったから知らんがなって言ってた
うちのじいちゃんは海軍だった。
ミッドウェー海戦にも行ったらしい。
無事帰ってきて階級は、海軍少尉だった
けどすごいの?(´・ω・`)
戦時中、朝鮮からの労務者が国道建設の作業員として来ていて海岸沿いの国道のトンネル工事をしていた。近所の女性は戦後その作業員と一緒に北朝鮮に渡ったと祖父から聞きました。
>>603 遺品整理で見つかりましたと警察に提出したんじゃね?
それだと罪に問われないらしい
親父が死んだときはコレクションの槍を警察に出したわ
爺ちゃんは満洲で銃でケツを打たれて帰国。そして終戦を迎えたというヌルイ戦争体験だった。
お坊ちゃん育ちだから、資産食い潰して屋敷も何もかも手放して貧乏生活一直線。そして創価にハマって、俺の母親がキチガイ化する。
その後、毒親となって、俺を痛めつける。
負の連鎖が始まったのであった。
学校?に飛行機が飛んできて
大勢が不思議に思い窓から顔を出した
次の瞬間、顔を出した子はほとんど死んだらしい
工場からの帰り道でも飛行機が飛んできて
皆が走りながら死に物狂いで防空壕に飛び込んだって
あとは東京から長時間徒歩できた女性が
庶民じゃとても買えないような立派な着物を持って
たった一つの芋と米一合と交換していったとか
ウチの爺さんがよく木馬って呼んでた船を追っかけてたって言ってた。
B29が山林に墜落して乗員は全員死亡していたが、子供が遺体を竹槍で突っついて『鬼畜米英』と叫んでいた。
でも散乱した機体の瓦礫・肉片の間から非常食料の缶詰・クッキー等をそっと盗んで食べたと当時の子供(祖父)が語った。
徴用工のお爺さん達が相当苦労してたってのは間違い無いよ
以下は俺が聞いた話だが、あまりに壮絶過ぎて眩暈がしたわ
キムさんは大邱の弁護士事務所で働くエリート清掃員だった
ある日「今日こそ新人の女事務員を俺のものにしてやる!」と
スタンガンにガムテにカメラにと準備万端整えて出社したのに、
彼女はその日体調不良で休みだったんだ
その日の夕方、欲求不満を抱えたまま繁華街を歩いてたら、
何十人もの客引きにしつこく付き纏われ、根負けして着いて行った
事務員をレ○プできなかった鬱憤もあってつい深酒してしまい
勢いで店をハシゴして何十本もドンペリを入れたのは憶えている
気付いたらキムさんは地元マフィアの事務所に居た
昨夜の飲み代を全額払え、払えないのなら日本の軍艦島へ行け、
さもなくばお前の秘密を全てバラすぞ、と脅された
その数年前に近所に住む幼い姉妹を誘拐してレ○プして○して
○体を山中に遺棄したいう、誰にも言えない過去を持つキムさん
事件が発覚するのを失うのを恐れて渋々従うしかなかったんだ
自分の罪から目を背けたとか逃げたとかではなくて、
他愛も無い過去の過ちのせいで韓国人全体が悪く言われるのを恐れた
そんな愛国者キム烈士の弱みを利用する日本の巧妙な罠だったのさ
「今思えば、客引きもキャバ嬢も大邱マフィアも、
全員がやけに流暢な韓国語を話す連中だった。
日本語が下手なフリまでしている奴も中には居たくらいだ。
奴らは相当に訓練を積んだ日本の工作員だったのだろう」
とキムさんは後日述懐している
俺のセフレの旦那の恩師の知り合いの内弟子の飼い犬の主治医が
ついさっき昼寝しながら創作した、未発表の実話だぞこれ
友達の爺さんが国鉄職員で戦地に行けなかったことをずっと悔やんでたらしい
俺のジジイは満州行ったのにおまえは一族揃って卑怯者だなってめっちゃ煽ってやったわ
>>608 これは俺の母親が殆ど同じ話経験してる。
着物と交換に貰ったのはイモの切れ端みたいなのだって。
うちの爺さん婆さんは満州帰り
婆さんは坊主にして汚い男装して船乗って帰ってきたらしい
ソ連兵が追ってきてるとの情報で死に物狂いだったと
逃げる途中で赤ちゃんも死なせたらしく地獄だったと言ってた
向こうでは学校の先生をしてたらしいけど平和に暮らしてた時期の話はしたがらなかった
周りの現地人が豹変したんだと思ってる
大嫌いだと言ってた
爺ちゃん
八丈島に配属されて、日本へ向かうB29を下から見てた
婆ちゃん
夜に外に出たら、東京の方の空が赤くてびっくりした
東京大空襲で家を焼かれた祖母は深川に住んでいた妹を探しに行ったけど当然見つからず
あまりにも多くの焼死体を見たせいでそれ以前の記憶をほとんどなくしたと言っていたな
うちは糞田舎だからあんまり戦争の被害はなかったらしいけど
特攻艇の震洋だっけ?あれ作ってたとこは今でもあるな
広島原爆を体験したじいさんが近所にいるんだが
白血病になることもなくピンピンしてるんだよな
はだしのゲンみたいに、爆風も光も浴びてるのに
不思議
戦時中に幼児だった伯母は
山の向こうから戦闘機が飛んでくるので
山の向こうはアメリカだと思ってたらしい
ド田舎だし地形的に複雑だったとかで空襲はなかったそうで
>>504 > 防空壕ごと爆破されて、みんな死んだらしい
2回目の東京大空襲の飛鳥山の大防空壕のことか、偶然にも換気口から焼夷弾が入って地獄絵図だったらしいな。
確か慰霊碑があったはずだがこの間行ったら見つからなかった、飛鳥山資料館の人も知らないと言っていたし王子図書館にも記録がなかった。
1回目の大空襲と違って2回目の大空襲は記録を捨てている気がする。
>>621 放射線照射は不均一なので
どこに浴びるかで決まる
致命的な部位に浴びなければ死なない
確率論
爺様は騎馬隊かでずっと内地だった何も喋らん人だったな
まあ騎馬じゃ実戦じゃ役に立たんかったろうし負い目でもあったのかもな
ソ連に9年抑留されマラリアで部下が大量に死んだ、自分は階級が高かったため血清打たれ生き延びた、死ぬ間際部下たちが病室に迎えに来た
10年くらい前、娘の夏休みの宿題で戦争の話を聞いてこいというのがあったのでじいちゃんにインタビューしょうと言って父から戦時中の話を聞いてビデオに撮った
郊外だったのでかなりのどかであまりダイナミックな話ではなかったが面白かった
数年前に亡くなった母が横やりを入れる声も入っていて私の大切な映像記録だ
>>606 へー、それなら祖母ちゃんが処分したんだろうけど
普通にゴミに捨てたのかと思ってたw
叔父さんとか誰もどうなったか知らなかったし
祖父ちゃんが健在の時は普通に玄関に飾られてて
本物だって知ってる誰かが持ってった可能性もあるけど
鍵もかけない様な人だったから
学校の帰りに戦闘機が機銃で撃ってきたと父が言ってたな。
今も家の裏の竹山に空薬莢が落ちてるはずだと。
南九州だからかド田舎の割に敵機が頻繁に飛来してきたらしい。
ほんとにつらい思いをした人はそんなに軽々しくペラペラ喋りたがらないよ
戦時下で食べ物が乏しく薬も手に入らず、母ちゃんの姉弟が二人幼くして亡くなったらしい
現代なら簡単に治るような病気だけどもともと栄養失調だからあっという間に弱った
死ぬまで何もしてやれず手をこまねくだけだったと今でも泣きながら叔母が話してる
>>12 なんで艦戦のヘルキャットが支那戦線に出てくるんだ?
>>635 戦時中はにっくきグラマンなので、米軍=グラマンの認識
(俺・下宿人学生)
今年は雪がよく降りますね
(下宿のおばあちゃん)
そうだね、2.26事件の時も多かった
この会話は昭和後半だった、お茶吹きそうだった
可笑しいのでなくリアル過ぎて
>>628 いや銃はいまでも使えるから調べられるなら調べた方がいいよ
先日も親の隠し持ってた銃で自殺した高校生いたやん
朝倉軍に追われ命からがら滋賀までなんとか逃げてきた
藤吉郎と十兵衛がいなかったらやばかった
疎開先行く途中の列車が戦闘機に襲撃されたって言ってた
身内も何もワイは長崎でピカにやられとるわ
震源地近くで周りの人はほぼ死亡した。家族は2人死んだ
じいちゃんだいぶ前に亡くなったけど、ばあちゃんがまだ存命
恩給のおかげでそこそこ良い施設で過ごしている、じいちゃんに感謝してたよ
東京大空襲の時皆は火のない所に逃げて死んでしまったが おとうは燃えてる方へ燃えてる方へ逃げて助かったそうだ
燃えるものが無くなれば鎮火する 燃えてないとこはじきにに火が回るから
あとこれな
昭和53年NHK特集「紫電改」
かつての搭乗員も遺族も当時は健在だ
ジープが来て、無理やり乗せられた。
その後は毎日アメリカ兵の相手をさせられた。
>>629 機銃掃射は父親も経験したらしい。
アメリカ人の顔が見えたって。
ものすげー怖かったって言ってた。
>>646 この間の広島の訴訟もそうだがピカ食らって助かった人ってなにげに長生きだよな
すぐ死ぬ人との違いって何なんだろうな
ピカ食らわなかったらとんでもなく長生き出来る生命力持ってたのだろうか
ソ連の侵略にビビッた韓国が日本に助けて〜って泣きついてきたから併合してやったわけだけど
その頃の韓国はまだチャングムやトンイみたいな生活して遅れてたから日本が近代化の手伝いしてあげたりして
うまくいってた
そこにアメリカが日本に原爆を落として併合も消滅してしまった
守ってくれる国が居なくなった韓国に北朝鮮が攻め込んで朝鮮戦争が勃発
日本は何も悪くない
なのに韓国が日本を恨んでるのは
アメリカが原爆を落とした事を正当化するために日本を悪者に仕立て上げたのと
原爆のせいで朝鮮戦争が起きて多数の人が死んでしまったのをごまかすために
アメリカが韓国人を洗脳した
身内ではないが、大学で国際政治学を教わった教官から
防衛省上がりの方だった
戦時中は軍の幼年学校にいて、原爆が落ちた3日後の広島に入って
後片付けをさせられ、結果的に二次被ばくした。
その時の惨状を見て、仲間内でもう日本は終わりだと、どこからか酒を持ってきて
みんなで酒を飲んだそうだ。沢山酒を飲んだ人ほど健康を保ったので
もし原子爆弾が落ちたら酒を一杯飲めと言われたな。
終戦の時、自分たちは自害するべきかって学校が騒然としたが、
頭のいい奴が、陛下がされたらそれに従おうってことになって、みんな生き延びたと
槍を渡されて突撃しろと言われて
突撃するふりして逃げ出した逃げるしかなかった
戦国時代?って思いました
>>84 血も涙も無いなw
逃してやって、上官には女は見つかりませんでしたと
報告してたら美談だったのに
クソ上官に褒められても屁の突っ張りにもならんよ
家の婆さんは高円寺から作並温泉へ強制疎開に行ったけど墜落するB29の搭乗員の顔が見えたらしい。
>>653 酒盛りしてて放射線被害が少なかったって話
3.11の時に何回か見たわ
祖父母の頃の朝鮮嫌いはガチに嫌悪してるな
戦後の死んだ婆ちゃん、爺ちゃんが帰ってくるまで衣服店をきりもりしてたけど
なんか急に周りに朝鮮人ばかり住み始めて、まぁお客さんだからと朝鮮人相手に商売してたらしいけど
礼儀は知らない、とにかく汚い、振る舞いも下品、すぐ嘘を付く、代金も払わないって散々だったらしい
女手一人の経営だから舐められてたのもあったらしく、爺ちゃん帰ってきたら朝鮮人客の態度が急変したって言ってた
だから、俺が子供の頃とかに悪いことしたら「朝鮮人みたいになるよ!」「朝鮮人のとこ連れて行くよ!」「朝鮮人みたいにきたないね!」とかそういう怒り方してた
じいちゃんはまだ若かったから姫路の工場で砲弾?を作ってたって
空襲がなったらそのすきに腹減らした若いもんは近くの畑に野菜やスイカとかを盗みに行ってたらしい
たまの休みには兵庫のど真ん中辺のクソ田舎の実家に帰って腹いっぱい米くってその夜にはまた工場に戻ってたらしい
昔の人のバイタリティってすごいね
>>654 いやそれ読んだけど食らって死なない事と長生きなことはイコールではないだろ
>>653 いやいや確かに、動けるうちに酒を飲むと血行がよくなるし利尿作用があるから、放射性部質が排泄されるな。少量被曝で被曝初期なら有効だと思う。
満洲って人によって印象が全く異なるよね
麻薬のやり過ぎで死体ごろごろしてたり日本企業の建設ラッシュだったりカオス
当時の日本って
満洲からベーリング海から南のタヒチから東南アジアまで
こんだけ手を広げて
エネルギーも食料も持たずに精神論だけでやるって
頭脳集団の大本営ってほんと凄いよねぇー
>>233 訪問診療先のおばあちゃんが出港見送ったけど、口止めされてたので今まで喋ったこと無かったわ!と言ってたな
じいちゃんが子どもの頃満州に家族で住んでたらしい。日本人は中国人を奴隷のようにして悠々自適に住んでたけど、終戦で状況が一変したって言ってた。
じいちゃん一家は中国人とか関係なく蔑ろにせずこっそりお金とかも渡したりしてたらしい。そのほうが中国人もよく働くし、ずっと満州で生きてくつもりだったから中国語をじぃちゃん達に覚えさせるために会話の練習相手としても重宝してたと言ってた。
終戦で大混乱の中、女は暴行され復讐のように殺された日本人も沢山いたんだけど、じいちゃん一家はその地域の中国人たちが総出で変装させてくれ、匿ってくれ、覚えた言葉で中国人の振りをして何年も過ごしてたって。
5年くらいして日本に戻ってきたけどじいちゃん一家はずっと手紙の交換や当時の中国人を日本に招いて観光とかしまくったらしい。
未だに当時の子孫の俺たちは仲がいいし、お互い行き来がある。
>>648 続き。
アメリカ兵の中でも、親切な人も居たわ。
特に親切だったのは、アメリカ兵としては小柄な軍曹さんで、いつもコカコーラやハーシーのチョコレートやキャメルのタバコをお土産に持って来てくれたわ。
アメリカ女性より、アジア系の女性が好きって言ってた。
名前は確かジェンキン。。。。。あれ?誰か来たわ。
>>623 2回目は4/12の城北大空襲の事かな?目標は王子の工場だけど風で流されて雑司ヶ谷まで焼けたらしい。多分豊島区の資料館に残ってるよ、
ジャワにいた祖父がインパール作戦に志願して行くことになったらしいんだけど
それを聞いた司令部付の秘書をやってた大叔父が祝と称してカニを持ってきたらしい。
で祖父はそれに当たって赤痢になりインパールに行かずに済んだとのこと。
その大叔父はレイテ前にどこからか米軍反攻の情報を聞いて
「司令部付の秘書役得すごいぞ!」って知り合いに秘書役譲ってとっとと内地に帰ったというお話。
>>105 お前この文献をスキャンしてホームページで公開すればアフィリエイトで儲かる
朽ちる前にデータ化せよ
>>659 友人の所もそうだった
駅前の土地で女手ひとつで切り盛りしてたらしく朝鮮人に奪われそうになってたらしい
その方は中々の女傑で何とか切り抜けたらしいがその一族は朝鮮人の事を蛇蝎のごとく嫌ってる
こういう事実の歴史を後世にちゃんと伝えなくては駄目だわ
戦後朝鮮人が掌返してどれだけの悪行をしてきたのか
なのに今は被害者面と言う恥知らずな事実を
死んだじいちゃんの軍歴証明書を取ってみたけど、色々知らないことが知れて良かった。
親や親戚も喜んでくれたよ
やっぱ、前線で戦ってた日本人は
民間人捕虜は男は殺しまくり、女は犯しまくりの
最高な毎日だったの??
まぁどこの国もそうなんだろうけど
母ちゃんの子供の頃の話し
昼間、零戦とB29が空戦していてB29が撃墜されて墜落したんだって
そしたら下で見ていた人たちが落ちて死んでいるアメリカ人を棒でぶっ叩いてんだって
じいちゃんは親知らずが腫れただけで兵役免除になったらしい
地主の跡取りだったから絶対なんかありそうだけど
>>313 うちの婆ちゃんが死んだ爺ちゃんの軍人恩給もらってるけど、爺ちゃんは将校で大陸に10年くらいいたからかなりいい額らしい
三大自分は間一髪で助かった話
グラマンの機銃掃射を列車で受ける
目の前のヤシの頭が吹っ飛ぶ。
輸送船が魚雷攻撃受ける
一便後だったらサメの餌だった
親戚が戦艦大和に乗っていて戦死した
ほぼ全員が述懐する謎
父方の爺さんは徴兵で軍医になって南京→ビルマと転戦
川を下って敵から逃げる時にはエリート将校はイカダの上でふんぞり返って、
爺さんはイカダの縄に必死に掴まって泳いでいたそうだ
南京で虐殺はあったの?って尋ねてみたけど、そんな話聞いたことないなぁと言っていた
母方の爺さんは訓練中に終戦
>>679 母方の大叔父は兄弟の中で一番優秀で海軍に行ったが、大和に乗って沈んだらしい
確かに謎だわ
じいさんがシベリア抑留中にロシア人看護婦は暇あればでかくするために自分の乳揉んでたって言ってた
>>677 地主の跡取りなら、その地域のまとめ役が必要だって事で免除になったのでは?
俺の爺さんは、そんな役をもらって戦争行ってなかったみたい。
>>677 うちの爺さんは親戚が手を回して病気持ちということになって兵役免除になりかけたが
自分が医者だったので「わしゃ医者や!わしは健康そのものじゃ!」って自分で診断書出して
役所にねじ込んで晴れて合格、ジャワに行くことになったらしい
うちのジーちゃんは予科練で特攻機の訓練してる時に終戦だったみたい
地方の旧制高校、今の地方国立大学出てるみたいだから当時ならそこそこの学歴なのかな?
原爆落ちた時に広島から青森まで逃げてきて住み着いたと言ってるじいさん地元に居る
その事を知ったのは戦争終わってからで本当の母親が山口に居ると知って会いに行ったとかテレビで言ってた
>>683 大和ミュージアムに問い合わせたらわかるはず
大和の戦没者名簿はさすがにネット公開はされてなさそう
>>681>>685
もしかしたら地主ってのが自分の勘違いかもしれない
お手伝いさんがいたり山を10くらい持っていて戦後GHQに畑とか取り上げられたとか聞いてたから
とにかく招集があったことは聞いた
後収容所からの引き上げの時仲間の軍医が薬とか嵩張らずに高価なものを持って帰る中
「戦争負けたんやったら鉄が高なるで」って仲間の軍刀やら持って帰ろうとしたら
刃のない指揮刀一本除いて全部没収されたとか、なんかいまいち抜けた話が多かった
>>434 川を境に被害があったりなかったりするのは人が住んでないエリアだったりなのかな
>>11 かわいそうにな、シャワー浴びさせてやんよ!
>>690 そうだなぁ、まだ祖母が存命のうちに大叔父の詳細聞いてみてもいいかなぁ
祖母は女学校で軍需品を作っていたことがあるらしい
満州の奉天、今の洛陽に住んでた婆ちゃんが、子供時分に見た光景は
馬賊に殺された日本人の赤ん坊がゴミ箱に捨てられたことだったんだと。
終戦2年前に帰国したが、日本の中都市より満州の方が都会だったとさ。
まぁ画像検索で見ても分かるが、当時の日本は外地に金掛け過ぎだわ。
特にバカチョン恨島に日本国内向けの国家予算以上の金掛けやがってよ。
だから今でもバカチョンが延々と「もっと朝貢しろ」とノボセまくってんだろ。
さっさと滅べ、バカチョン。
昭和20年8月5日深夜から6日未明の今治空襲。
瀬戸内海挟んで向こう側の新型爆弾の陰で地元でもあまり話題にならない。
父親が今治から40キロ余り離れた街から、親戚の様子見に自転車ではしったこと。
新型爆弾が落ちたらしい話を焼け野が原の中で聞いたことよく話してた。
あとは、父がランニングシャツで岸壁で釣りしてたころ、近くの工場目がけてグラマンが飛んできた。
父の頭上通過為たそうだが、撃たれたらかなわないから両手振って助かったそう。グラマンの操縦士の顔も見えたと言ってた。
国民服着てたら民間人に見えないから撃たれたかもしれない。
婆さんが女学校に通ってた時、家に若い兵士が数人住み込んで近くの航空廠勤務をしていた
そのうちの一人が婆さんに惚れ込んだらしく父親に婆さんが学校を卒業したら嫁にくれと言ってきたが、すぐに特攻隊に選ばれ知覧へ飛び立った
その離陸着後編隊を離れ家の上空を旋回したそうだ
生きては帰って来なかった
>>698 どうもよくわからんのが満州国経営資金にされてたというアヘン栽培
本当だったんかね
戦争は当然大変だったろうけど、その後もなぁ…農地改革で土地の9割以上持って行かれて、大没落
GHQが検問に来るって噂が立ち始めて、江戸時代から伝わる家宝の刀を2つに折って藪に埋めて隠したらしく、未だに見つからないんだよな
ばあちゃんに聞いた時は「農家だったから何にも苦労せんかった」って言ってたな
ただ家族で一番の働き者だったばあちゃんの言うことだから、現代の俺らなんかとは「苦労」の重みは違うかも知れん
ひいじいさん中国兵何人も射殺して勲章もらったけどなんか文句あるか?最終階級は陸軍曹長
>>545 どんな些細な話にも需要はあるよ
お前がここに書き込むことで、祖父母の体験が今後生き続けることになるよ
親戚のおばちゃんは、偶然行った隣町が空襲されて
赤ん坊背負って50キロ走って帰ってきたよ。
台湾で司令官だったらしい。もう少し戦争長引いたら生まれてたなったわ。なおまだ元気(´・ω・ `)
うちの母校の小学校も当時は陸軍関係の学校だったから
工場や軍施設と同様に空襲目標になってて、本館以外は焼け落ちてしまったそうだ
大講堂のある本館もあちこち銃痕が残っていたなぁ
自分は差別とか一切ないまま大人になったけど
大人になってから聞いた話では、父方のじいちゃんや近所の人が空襲で亡くなった後、
どこかから現れた朝鮮人が住み始めて、駅に近い良い場所をそのまま占拠したって話
そう言えば子供の頃、駅前になぜかキムチを売ってる店があったっけ
一方母方の家では、ずっと買っていた賢い大型犬が居なくなって、
近所の人からこっそり知らさせれ、少し離れた朝鮮人の住む家の庭を覗いたら
愛犬の毛皮が干してあったって言う話を聞かされて、腹が立つやら嫌悪感が湧くやら
それでも、騒いでも犬は帰ってこないし、しらを切られたあげく仕返しされたら困るからって黙ってたと
これらは差別ではなく、事実だからな
>>19 うちのじいさんは無事に帰ってきたけど
西表島の守備隊だったので一発の弾も撃たずに帰ってきたそうなので
一概にそうは言えない
今現在、戦争中じゃん
中国からウイルス攻撃を受けてるのがわからないのか?
情報戦にも負けているぞ
この状況で親中派議員が中国からの入国制限緩和を強行しようとしてるんだからな
うちのばあさんは奉公にでていた先で空襲にあった
ばあさんに好きな食べ物は?と聞くと何でも食べると言っていた
ナイトスクープ?だったか
戦争経験がありそうな一定以上のばあさんに好きな食べ物を聞くと何でも食べると答えるって言ってたが本当だった
婆さんが戦前の大連にいた。両親が工場を経営していてそこそこ裕福だったらしい
冬は凍った池でスケートをしたのが楽しかったそうだ
開戦直前に一家で大阪に移り住んで戦時中は機銃掃射に遭って一緒に逃げてた友達が目の前で死んだと言っていた
完全にボケてしまったからもう聞けないが、もっと色々聞いておけば良かった
爺さんは中国地方の山奥で川で魚を獲ったり畑仕事をしている間に戦争が終わったから、幼いきょうだいの世話が面倒だった記憶しかないと言っていた
空襲警報が鳴ると防空壕へ逃げるわけだが勇敢な爺さんは家族を先に行かせ焼夷弾が降る中近所の空き地へ行き秘蔵HDDを埋めて隠したそうだ
>>629 うちの親父がガキの頃、貨物車の近くで遊んでたら、一機だけフラッと向かってきて、機関銃掃射されたけど、列車の下に隠れて逃げたらしい
たまに面白半分なのかそういう機体がおるゆうてたな
あと、裏山の高いところに対空砲があったらしいけど、ぜんぜん敵機の高度が高すぎて当たらないのに、バリバリ対空砲撃ってて、子供ながらに日本軍はアホやと思ったらしい
>>645 勉強になります
東京も直下型地震が来たら火に囲まれて逃げることになりそうだもんな
婆さんによると遠縁の親戚に戦犯で捕まって絞首刑になった人がいるらしく、絞首刑になる前日まで書いていた手記を親族が本人の死後自費出版したらしい
中学生の頃夏休みの宿題で戦争体験の聞き取りをした時にその本を見せてもらったが当時は全然興味がなかった
大人になった今読んでみたいと思うが、どこにあるのか分からないし持ち主に聞いてもボケてるからどうしようもない
昭和天皇から頂いたタバコを爺さんが持ってたな
中学生の時に一本失敬しちゃったが
俺の爺様は満州行ってたらしいが一切戦争の話はしてくれなかった
な・・・
亡くなって納棺の時に肩から腹までの切り傷と銃痕3箇所見て頑なに語らなかった意味が何となく解った。
そんな爺様だけど河合奈保子の大ファンだったw
>>724 俺の爺さんも吸ってたな
菊の御紋が入ってる奴だろ
今考えるとタバコを下賜とか凄い時代だなw
>>645 焼夷弾って、燃え続けるから引火するんじゃないかと思うんだけど
昭和天皇自身は酒もたばこもやらなかったんだよな
明治天皇は大酒のみで糖尿病になってるが
話した事はないんだが戦死した爺さんが駆逐艦の艦長やってた
二種軍装の写真が本家に飾ってあったんだがとにかく怖そうな人と言う写真だった
なんで昔の人ってああも凛々しいというかおっかないんだろう
戦後になると朝鮮人が自分たちが一等国民だって無茶苦茶してた。警察の数が足りないから
地元の力のあるヤクザに治安維持を頼んでた。
立派で健康だったオヤジが徴兵されて、
ビッコひいて半池沼みたいなクソが残って、
そのクソに夜中チンポ差し込まれてかあちゃんは妊娠
隣の娘さんが戦死したオヤジじじゃなくてそのカタワに似てるってずっと言われてかわいそうだった
もう亡くなった爺さんは戦闘の際近くで爆発があり片耳が聴こえなくなったみたい。
補聴器がキーキー鳴ってでも無反応だったわ
うちの婆ちゃんも東京大空襲直撃したって
墨田区に住んでたらしいけど起きたら辺り一面真っ赤
上昇気流で炎の竜巻みたいなのができて木のリヤカーが飛んでたって
火の粉やら粉塵やらで目が開けられないから母親のお乳を目薬代わりにして凌いだらしい
他の人も言ってるようにみんなと逆方向、燃えた方に逃げて家族10人くらい?みんな助かったとのこと
焼け跡では子供の周りを大人が囲って死体をあまり見せん様に
B29が飛んできたら死んだフリしたそうな
本土帰還陣時に多くの日本人女子が朝鮮半島で朝鮮人にレイプされた
うちのじいちゃんは、神風特攻に行く輸送機の中で終戦を聞いたらしい
行ってたら俺はこの世に居ないな
友人Y君の家の裏山に防空壕として使われた場所がありY君はそこにヒバゴンが住み着いていると言ってきかなかった
ガキの頃は近くに防空壕がいっぱい残っててよく友達と探検しに行ってたけど
80年代初頭には危ないってんで全部埋められちゃったわ
>>664 どういう人と巡り合うかで、印象は全然違うだろうね
ひいばーちゃんはビルマに行った長男の戦死報告と一緒に渡された骨の代わりの小石を体の中(おそらくマンコ)に入れたそうだ
明治生まれの母方の爺さんは南方出兵で病気に罹って帰国して生き延びた享年100歳
その弟は陸軍歩兵伍長だったが戦死
部屋には明治以降歴代の天皇陛下の御真影が飾ってあった
俺の父と母は戦前生まれで黒塗りした教科書を子供の頃に見せてもらったような記憶がある
B29が怖かったってのは聞いたな
朝鮮人は信用できないってのも言ってた
今からでも生きてる内に父母にいろいろ聞いておいた方がいいかなとは思うわ
>>712 いつの時代も朝鮮人はそういうもの
未来永劫敵国だし
ぼくのじいちゃんは9歳の時に日本兵にころされました
母は三人姉妹だが、本当は四人だったらしい。
祖母は第一子を連れ、東京で空襲から逃げて岐阜に疎開したが、
食べるものがなく、母乳が出なくなり赤ちゃんは亡くなったって言ってた。
伯母か伯父か分からないけど、辛い。
母がたは10人兄弟だけど上三人は亡くなってて
長男は満州からもどらんかったそうな
戦争中、全く空襲なかった県だが偵察なのか上空をB29が飛行してる姿は見られたらしい
駐屯してた第9師団も沖縄戦直前に台湾に移動して全く無傷
先の大戦では戦災ほとんどない県となった
大本教の出口王仁三郎が、
「京都と金沢は空襲なしや」と予言してた通りになった
>>80 高井戸の高射砲は一万米まで届いたからB29も高井戸上空は避けたらしいよ
田舎だから空襲は無かったけど、三河地震って言う大地震があって、
今の震度6強から7ぐらいの揺れで、家の一階がぺっちゃんこになったそうだ
地域によっては住んでる住民全員が亡くなった所もあったそうで、
戦争で男が出征して居なかったから、片付けや救助に向かうんだけど、
助かる人はほとんどいなくて、火葬場が足りないから、田んぼに遺体を並べて燃やしたって言ってた
沖縄だけどとりあえずおばあちゃんは生きることができてよかったくらいしか話さなかったな
南(ひめゆり方面)に逃げてたら死んでただろう、何もわからず北に行った偶然だけで生き残れたと。
父親はまあ戦後10年くらいしての生まれで、当時の余裕のない生活してた昔話を今では親戚とかと笑いながら話してるよ
防空壕を近く5000キロぐらいまで掘って作れば空襲平気じゃね?
食べるものがなくて芋のつるまで食ってた
色弱で赤紙きたけど徴兵されなかった
戦後超インフレが起こって現金が紙くず同然になった
結構親戚とかって戦争体験者多いよね。
近所の親戚のおじいさんはインパール作戦行って命からがら生き延びてたなあ。よく冗談で「わしは人食い人種じゃ」とおどかせて笑ってたけど、今思うと、壮絶な過去があったんだろうな。
そのおじいさんは「わしの若い青春は全部戦争で無くなってしまった」っていうのが口癖で大人になってそのおじいさんが従軍してた歳とかに自分がなって、その切なさがわかったわ
ヒゲのおじさんが体験談語ってたな
内容忘れたけど、嫌だなー、怖いなーって言ってた
>>532 命中率2割って驚異的に高精度なんだが
で、ヒロポンなら当時は合法な薬物だった
今のリゲインとかと同じ扱い
日本の最高の頭脳を持った軍事専門家たちが考えた作戦だからね
日本人はすぐ責任のなすりつけ合いになるから
非常時は誰もトップになりたがらなくて牽制し合ってたという
山本五十六さんはそういう立ち位置だったから
途中で弱気になって中途半端になっちゃったね
辻といい天皇を盾に恫喝したり過激な意見はやはり組織では強い
現在の中国共産党内部はそうなんだろう
弱気な発言で出世することはあり得ないし常に覇権で国は動く
マルハンパチョンコロナカス社長とその親族は
戦後どさまぎで違法在住してるバ癌チョンゴキブリ
空襲0の県は無い
比較的被害が軽かったのは京都と北海道で最後まで残ってた県庁所在地は富山だけど代わりに徳島と青森が焦土になったな
徳島は大阪に食料供給する後方拠点青森は北海道から運んできた石炭の集積地だったので大空襲で壊滅した
広島のキノコ雲を遠くから見てたって話と、撃ち合いの中すぐ後ろで直前まで話してた人がいきなり被弾して即死して怖かった話は小学生の頃聞いて今も覚えてる。あと教えてくれなかったけど、兄弟の1人はレイテ島にて戦死って墓に彫ってある。
>>770 石川県は本当にない
機銃掃射もない
能登半島の七尾湾に機雷落とされたぐらい
@ビルマでいの一番に敵陣に突っ込んだら、鼻に銃弾が当たって、直ぐに病院送り。
結果として、そのおかげで生きて帰ってこれた。
Aフィリピンの近くの海上で船を沈められて、まる2日小さい木片にしがみついて必死に立ち泳ぎし続けて、通りかかった商船に救助された。
100人のうち助かったのは3人。
能登半島から富山の街が赤く燃えてるのが見えたらしいが、
石川県も県庁所在地の金沢も全く無傷
石川県の人口は焼けだされた富山、福井からの流入人口で終戦後、数万人規模で増加した
>>678 うちの爺ちゃんはどうも軍歴が長かったからかな
かなりの金額があったみたい
爺ちゃんと同居したときに兄弟間でえらい揉め事になった
まぁ爺ちゃんが孫のいるところで余生を過ごしたいって言ったから、うちの家になったのだが
>>776 富山市はカーチスルメイの昇進祝いで戦略上全く必要がなかったのに空襲されて壊滅したからな
青森大空襲で初投入された新型M74六角焼夷弾で市街地の99%を焼失している
YouTubeで戦争の話してる爺さんがいるんだが面白いぞ
デンジャラス爺さんとかいったかな
亡くなった祖父が今で言うNHKだった。満州に赴任していた。ソ連が攻めて来た時に最初に日本に引き揚げが出来たのがマスコミだったらしい。
NHKの責任者だった祖父は満州の高級官僚の家族も連れてってあげて大変感謝されたらしいが、戦後政治家や大物官僚や財界人になった奴が多く置いて帰れば良かったと言っていた。
ちなみに祖父は森繁久彌とかと親しかった。東條の事はぼろ糞に言ってたが石原莞爾の事は尊敬していた。
母方の祖父は軍人で話を聞いてみたかったが、ついに聞けないまま亡くなった。
低能糞土人の欧米白人キリスト教諸国連合どもが国連を使って英語・キリスト紀元・グレゴリオ暦を世界に強要していることが全ての元凶やからな
さっさとアメリカ滅亡して国連解体して世界支配と日本占領をやめて英語・キリスト紀元・グレゴリオ暦の押し付けを終わらせろ
人種差別反対の日本を
人種差別賛成の欧米白人キリスト教諸国連合が
核兵器2発使い、日本全土を大空爆し、日本人を大虐殺し、
占領時には日本人男性は射殺されまくり、日本人女性はレイプされまくり
そのようにして叩き潰したのが第二次世界大戦
そして人種差別賛成の欧米白人キリスト教諸国連合が今の国連として
日本を敵国指定し続けているのだから、反日の源泉が国連であることは明白
戦争に関わってない戦後生まれの日本人も敵のままだと指定し続けているのが国連
そして常任理事国のみ核武装を許可した上で地球を分割統治しているのが戦後体制
その国連が維持している戦後体制では、核武装をした欧米白人キリスト教諸国連合が、
キリスト教倫理・キリスト紀元・グレゴリオ暦・英語などの使用を世界に強要しているから、
イスラムなどが反発するのも当たり前
このように、特定の宗教に準拠した規格は他の宗教との軋轢を生み争いの元となることは
欧米白人キリスト教諸国連合による世界支配で証明済み
世界平和を実現するためには、宗教に寄らない新たなる新基準の策定が必要不可欠であり
同時に非キリスト教国がキリスト教倫理・キリスト紀元・グレゴリオ暦・英語などを用いることも止めなければならない
そして、特定の国を敵指定し、特定の国のみ核武装を許すという、差別を土台にした世界支配を止めて
全宗教・全国家を平等に扱う真に公正公平な地球統治機構を創設することが、世界平和に必要不可欠である
それを阻止して世界平和を乱し続けてきた低能糞土人の欧米白人キリスト教諸国連合どもを滅ぼすしかない
差別をする側を絶滅させない限り差別は無くならないということは70年で証明済みだからな
さっさと絶滅しろ低能糞土人の欧米白人キリスト教諸国連合ども
低能糞土人の欧米白人キリスト教諸国連合どもが国連を使って英語・キリスト紀元・グレゴリオ暦を世界に強要していることが全ての元凶やからな
さっさとアメリカ滅亡して国連解体して世界支配と日本占領をやめて英語・キリスト紀元・グレゴリオ暦の押し付けを終わらせろ
欧米白人キリスト教諸国連合どもが低能糞土人で
日本人が世界最高民族だという現実を正しく認識しろ
自分たちの方が猿に近いという現実を受け入れられずに
黄人を猿呼ばわりしてる低能糞土人の欧米白人キリスト教諸国連合どもが
日本占領していることが日本衰退の元凶
世界支配していることが世界荒廃の元凶
さっさと絶滅しろクズども
頭蓋骨比較
猿人→原人→旧人→新人の流れで頭蓋骨を比較すると
その延長として黒人→白人→黄人の順で脳容量増大=顔が平面化
知能指数比較
黄人>白人>黒人
頭の良い国ランキング
世界IQランキング最新版
頭蓋骨比較と知能指数比較の両面によって
脳容量と知能指数が
黄人>白人>黒人
の順に比例していることが判明している
つまり
人類進化:猿人→原人→旧人→黒人→白人→黄人
知能指数:猿人<原人<旧人<黒人<白人<黄人
脳の容量:猿人<原人<旧人<黒人<白人<黄人
顔平面度:猿人<原人<旧人<黒人<白人<黄人
>>712 上野に住んでた親戚も朝鮮人に土地占拠されたって言ってたな。今も御徒町とか朝鮮人街あるけどそこらへんだろうね。
>>777 母方の祖父は職業軍人で戦後そう言う軍人達は鉄鋼メーカーとかに優先的に就職できたらしいので、軍人恩給と鉄鋼メーカーの年金でかなり裕福そうではあった。タクシーの運転手には常に万札で釣りは要らないと言う状態だった。
ガキの俺は定年したらそんくらい貰えるんだろうな位勘違いしてた。
今なら全然あり得ないよなぁ。
シベリア抑留から帰ってきたじいちゃん
周りの仲間はバタバタ死んでいったと言ってた
腕に銃弾が残ってる話をされる度にビクビクした
室蘭の艦砲射撃が終わったころ外に出て様子をみたら塀の上に吹き飛ばされた人の生首があったとかおばあちゃんが言ってたな
>>79 お祖母さんの兄が大和で戦死した
兄は結婚していて嫁さんは最近までご存命だったけど、夫婦一緒の時間より未亡人としての時間が圧倒的に長いから話聞いてて悲しくなった
祖母は東京で暮らしていたとき、食料に困らないからという理由で友達から市場を手伝おうと誘われたらしい。女子生徒だったせいか市場の人からリュック一杯にバナナチップスやらドライフルーツをたくさんつめてもらったらしい。
広尾の空襲で逃げた時は、隣を走っていたおっちゃんが片手を吹き飛ばされたのに気付かずに逃げていたらしく、おじちゃん早く病院に行った方がいいよと声かけたり、必死に逃げ回ていたらしい。
>>497 俺もそう思う
生き神様として崇められ大変な名誉だったし
命を捨てて国を救うというこれ以上の大仕事は無いからな
希望もなく何のために生きているのか分からない今の多くの日本人より幸せを感じていたと思う
書道の先生から戦死した兵のチンポを 焼いて食ったらソーセージの味がして旨かったというネタ
北海道のひいばあちゃんの何かは忘れたがロシアで戦死して墓もそこにあるとか言ってたな
祖父は満洲で馬乗の伍長で戦闘らしい戦闘を行わず本土に帰ってきた
帰国した経緯は一切わからない。
伍長はそこまで階級高く無いのに何故無事に帰ってこれたのだろうか?
>>699 もちろん断ち切る。結婚とか、する気はない。一族の血を根絶やしにする。
爺さんが南京大虐殺のニュースを見て「そんな人数殺せる武器も無かったし命令も受けた覚えがない」って言ってた。
>>789 実際戦死者は恩給とかあったし貧しい農家の後継でもない家の人とかは
実家に貢献するチャンスでもあるからな
大戦末期までは家長の立場にある人や既婚者はあまり積極的に徴兵せず
独身者とかを中心に集めたらしいしある意味今の原発作業員に近いね
戦争なんて悲惨な事誰もしたくないししてもいけない
歴史上どの国も酷い事をしてるし罪を抱えてる
日本だけを悪者みたいに仕向けて捏造従軍慰安婦問題を責める幼稚な国は恥を覚えたほうがいい
あとは特攻隊などの志願兵は朝鮮とか台湾とか内地の人でない人も
結構いたようだねこれは高校野球とかの県外人と同じような心理かもね
こういうことに参加することで日本人という実感があるというか
>>794 けっこう前の中国の反日デモの映像見ててあんな野蛮な人達をそんなに大勢も殺せるわけねーだろと確信持てたw
満州の奥地で貨物列車に便乗して移動中の爺さんの小隊
突如現れた敵戦闘機の空襲を受ける
すると列車は停止し機関車だけ切り離し身軽になった機関車だけ全速力でトンネルへ避難
あとでバックして戻って来た機関士を袋叩きに
戦争体験とか誰も知らない大昔の話よりも
お前ら自身が今のコロナ体験を後世に語りつぐ準備しとけよ
祖父の家はいわゆる豪農庄屋さんで大きい家だったので
食い物もらいに たくさんの人が来たらしい
歩くこともできない目玉が飛び出た欠食児童が大八車に乗せられてきた光景は 今でも忘れられない
と言ってた
じいちゃんがすごい戦果あげてたって話聞いてたは。小学生ながら、学校教育との差にびっくり。
>>19 うちのじいちゃんは敵の集団や建物内に手榴弾投げてたので殺っちゃってはいる。御守りで首に薬莢ぶら下げてるからいつかはもらう予定
いつまで100年前の戦争の亡霊にしがみつかれないといけないの。
いつまで戦争の記憶は永遠に忘れませんなんてこどもに言わせないといけないの。
広島にやってきたオバマこそが日本から雇用を奪って中国を大国、覇権主義化させた張本人。
いつまで日本を自分たち自身で縛りつけるの。
うちの爺さんが10人いたらアメリカに勝てたらしい。
>>287 変な仮面被ったヤツの部下で白い悪魔を見たって?
成仏しろよ
戦争体験は殆ど虚飾されてる。今で言うところの嘘松。
真に受ける馬鹿はネトウヨに育つ。
なんでいまの年寄がこれほどまでに生に執着するのか。
医療費を湯水のように浪費し、体中チューブだらけになっても生きようとするのか。
それは戦争で生きたくてっも生きられない、死にたくないといいながら死んでいった人たちがたくさんいたから。
だからその人たちに報いるためにも決して生きることをあきらめない。
とは言うんだけど、それがただのその当時の盲信でしかないというのは、
うちの田舎の戦争被害なんてまったくなかった年寄が、
そういって医療費を浪費しているのを見るとわかる。
いまの年寄のわがまま放題が国を滅ぼす。
経済大国をつくったのはオレたちなんて言葉をいつまででも真に受けてるとほんとに国が滅びる。
そしてその張本人はわがまま放題の年寄ではなく、
年寄りにわがまま放題させているその次の世代のやつらこそもっとも罪を受けるべきか。
なぜなら、その次の世代は黙ってれば、つぎは自分たちがわがまま放題する算段だから。
直接的なことじゃないけど
火垂るの墓の作者が大島渚をマイクでボコボコにしてて引いた思い出w
今じゃテレビであんな動画流せないんだろうな
西南戦争が始まった時大久保利通は鹿児島だけではなく山形にも派兵する用意をしていた
旧薩摩藩と旧庄内藩は長崎で商売をしていた庄内藩の豪商を通じて繋がっており戊辰戦争でも長州藩相手に連戦連勝だったが薩摩藩の指揮官が西郷だと知ると戦いを止める程西郷を信用していた
そのため庄内侵攻派の大久保、木戸と穏健派の西郷が不仲だったのは有名で西郷が挙兵したら旧庄内藩も蜂起するだろうと大久保は読んでいた
しかし庄内藩は挙兵しなかった
生き残り西郷の意思を後世に伝えるのが使命だと集まった藩士に言い聞かせたという
その後死の行軍と呼ばれたインパール作戦で指揮官牟田口の指示を無視して独断で撤退し1万人以上の日本兵を救った佐藤中将は山形県出身
彼は西郷の生まれ変わりだったのかもしれない
山の中だったから、若者が徴兵されたり監視が厳しくなったりした以外は特に何ともなかったそうな
大半の村人が自給自足の生活をしていたから食糧も物資も困るほどには減らなかったと
戦後の占領期でも大して暮らしは変わらんかったらしい
うちとこも田舎だったから飢えるほどじゃなかったと親父は言ってたな
百姓は強いわな
遭遇したけど、お互い発砲もせずジリジリ後退していった
敬礼を忘れて試験が受けられなかった
中国戦線
父方の祖父は特殊潜航艇乗り
母方の祖父はシベリア抑留
2人とも戦争の話はしたがらなかったな、、、
満州帰りのおっちゃんから大陸経由と半島経由の引き揚げで半島経由は地獄だったと聞いた
シベリア抑留はノコギリで凍傷になった部分を骨ごと切り落としたって話が強烈やな
仲間の日本人軍医がロシア兵にモルヒネをくれって頼むんだけど捕虜にそんな高価な物はやれないって言われて隠し持ってた貴重な麻酔を使って処置してくれたっていう神戸住みの義足着けてるじいさんの話
>>368 >>666 書きます。
義理「蒸し暑い朝じゃって、斜面の畑にも風が全く感じんかったわの。
爆音の後、雲が真っ直ぐに上空に上がっていったんじゃ。
気がついたら母親が僕の上に覆いかぶさっててのぉ。
危ない!危ない!叫んでるんじゃわ。」
義理「何が危ないんじゃ?母ちゃん。何も無いじゃろ」
近所の人「こっちに来んさい!はよぅ!こっちじゃぁ!」
義理「防空壕も無いから家に帰ったんじゃて。
その数時間後、ここからが大変じゃったわ」
>>782 白人より賢いんなら正面からアメリカに勝つ方法でも考えてみろ
建具屋の祖父は木でハリボテの戦闘機作って並べてたって言ってた
爺さん南方落下傘部隊の数少ない生き残り、戦後60年以上経て初めて靖国に参拝
一時間以上直立したままだったわ
離れて見てるだけでなんか胸が苦しくなった
辻 政信のような怪物参謀を生み出し、国運を狂わせ体面を損ねるような
重大な失敗を繰り返し、度々人格を疑われるような振る舞いを
しても中央に返り咲かせた陸軍。
このような経歴、祖国荒廃の一因となった人物を支援した者が
少なからずおり聴衆を感心させ、何度も当選させてしまった事実・・・
我々日本人の資質にかかわる問題だと思う。
と町内にいた 犬肉大好きな在日がいってたよ
戦争が始まろうと終わろうと何時まで経っても消耗戦なんだよな
>>68 で?
そのよりどりみどりから選りすぐりの話を書かなきゃ
無価値
>>554 むかし毎年旅行に行ってたけど
長崎平和公園→次の年は広島原爆ドーム→その次の年は知覧
ちょっと凹んだ
空襲の火の海を逃げ惑った経験もない小童が離婚だ浮気だ毒親だ程度のことで修羅場だなんだの家庭板に書き込んでるの見ると笑ろてまうわ
このスレを見ていると元慰安婦の体験談なんて屁みたいなもんだな
>>834 配給された札持って検疫所の隣のお部屋に行くらしい
地元は原爆の模擬弾が落とされて何人も亡くなってたな
爆心地の近くに井戸があったけど
爆弾で怪我をした人が水を求めて凄かったと言ってた
>>784 そうなんだ
うちの爺ちゃんは小さいながら工場を建て社長だったらしい(私が物心ついた時は隠居していたから)
機雷を壊す部隊だったから、手先は器用だったのかな?
>>189 それを書き込んでる目の前の端末で検索してください
米の配給やってた米屋のデコスケが未だにうちが配給してやってたと威張ってて腹立つ
田舎の農家だったんで余裕だったって言ってた。
逆に終戦後の占領下で、戦闘機からの威嚇射撃とかのほうが
怖かったらしい。
後方部隊の従軍獣医で馬の世話してたから戦闘は経験してないが赤痢で死にそうになったらしい
ばあちゃんが大事に持ってたもの
陶器製の手榴弾信管抜き
風船爆弾の風船の端切れ
竹槍訓練の木人形
配給の乾パンのカラ
死んだ後市に全部寄贈したが
謎の暗号表もあった
あれ実は凄い価値があったのかも・・・
仕事で知り合ったおばあちゃんはサイパンから魚雷避けながら奇跡的にサントス丸で本土に戻れたと言ってた、その際にサントス丸の中で女の人を兵隊さんが襲ってきたらしい。死に直面すると本能が剥き出しになる
空襲で遠くの街が焼けるのを見て男子がお祭り騒ぎ
それを見ていきどおる女子
>>664 満州利権をアメリカと分け合うのが正解だったんだろうな
その代わり南方の利権獲得に協力してもらう感じで
シベリアに連れてかれて真冬に黒パンと塩湯だけで木こりやらされて
最初の1年で30人いた部隊がじいちゃん一人に。
同じ様な残り物だけ集めた部隊が作られて、増えたり減ったりしながら
ちょっとずつ西に移送されて最後はカスピ海の見える街でダモイになった。
その間なんと9年!
最後の方は柵も見張りも無くなって普通の労働者と変わらなかったらしい
そんなじいちゃんの子孫もまた過酷な環境に適応できる異能者であった
じいさんの弟は、陸軍士官学校出て、満州に行っていた。
終戦で本土から「武装解除して帰国せよ。」との命令が来るも納得できず、有志で隣の基地まで300km移動して再起を呼びかけるも司令官に説得され泣く泣く基地に戻り、
帰国の準備をしていたらソ連侵攻の報を受け、基地司令から「最低限の護身用武器(日本刀と拳銃)を持ち、日本へ帰る民間人の後衛に付け。」との命令で満州を大移動。
いよいよ、ソ連軍に包囲され、投降したが、ソ連兵は学もなく「日本刀には魔法が宿る」と信じており日本刀だけは最後まで持たせてくれたと言っていた。
シベリアで3年抑留され、この時、瀬島龍三にかわいがってもらったそうだ、シベリアでは、かつての部下が毎晩「いかに共産主義が素晴らしいか」を講義しにくるのが、見ていて辛かったと言っていた。
帰国後は夜間大学に入り直して、司法試験を受けて法曹界で働いた。左派の多い業界にありながら「靖国の会会長」などを務めていた。
「ソ連が満州でやったことは絶対に許さない。何歳になっても、日本がソ連とやりあうことがあれば、絶対に行く。」と言っていた。ソ連崩壊は敗戦と同じくらいショックだったとも言っていた。
>>851 父の叔父がシベリア抑留者で、父が叔父から聞いた話なんだけど。生の玉ねぎを一つ渡されるらしい。それを食べると体がカッカして熱くなり寒さを乗り越えられたらしい。躊躇なく生玉ねぎを食べられるような人が生き残ったんだって。
>>787 母方の実家の仏壇の位牌は戦死した祖父さん32歳
ばあちゃん84歳でなんか切なくなるわ
俺の親父は、内地に居ると危ないと終戦の年の六月に、長男の兄貴に呼ばれて満州に渡ったそうだ。
>>850 うん。
近所の人「市内が地獄になってるみたいじゃて。爆弾が落ちてきたんじゃと」
義理父「母ちゃん、〇〇(子ども4人)が市内にいるじゃろ?行ってくる。家は頼んだ。」
義理「芋を栽培しとったから蒸した芋をぎょうさん持って歩いて市内に向かったんじゃわ。
父が出かけた数時間後、」
近所の人「市内は駄目じゃ。ほんまの地獄じゃて。水がない。水をくれ!
そればっかりで地獄のような暑さじゃ。行ったらだめじゃ!」
義理「2日ったても父は帰って来なかったわ。(行ってる途中で死んだんじゃけど。)
兄弟が総出で市内に探しに行くってことになってのぉ。」
今は亡きじいちゃん、満州で大暴れ
大陸打通作戦で最初から最後まで最前線で戦い抜いて無事生還
母方のじいちゃんは船坂ニキと一緒にアンガウルで戦って捕虜となって無事生還
一方のワイ、無能陰キャ
朝鮮からの引き揚げ船が出航する釜山までの列車を、アメリカ軍が護衛してくれたらしい
なんでも朝鮮人が日本人の荷物を盗もうと列車を襲ってくるからだとか
引き揚げ船にはコレラやマラリアに罹ってシラミだらけの
傷病兵とも見紛う兵隊さんがいっぱい乗って帰ってきた。
空港では汚れ一つない真白な制服の士官が降りてきた。
軍令部の人たちは別格扱い。
>>861 うちの田舎の隣の島の人が満州が出来たての頃賊に襲われた時に
探しに来た軍人に日本人ここにありって言って義人扱いされたらしい
爺ちゃんが亡くなって数十年後に皇居内で警護をしていたという話を聞いた
カーチャン('A`)は学童疎開先の塩山で食べ物なくて飢餓状態だったらしい
アフリカの子みたいにお腹だけぽこんって出てたのよ
って言ってたなあ
じーさんが戦争経験者だったが
あまり話したがらなかったな
>>867 近衛師団てのかね、父方の祖母の家は名家で近衛兵を出したことが自慢だったげな
祖父の方は真逆つうか妾出だったからいろいろ揉めたそうで
シベリア送りの10年はきつかったと
後は俺の事を見て「シベリアで一緒だったポン友にそっくり」って言われた
そのポン友は更に5年かかって帰って来てたらしく、平成に入ってから偶然にも東京で有ったと
何か、厚生労働省の関連団体のお偉いさんやってるって
>>805 じいちゃん、重い物を背負って生きて来たんだな
もっとおじいちゃんにいろいろ聞いておけば良かった
お酒好きなおじいちゃんが満州で「チャンチュウ」ちゅう酒が美味かったのう!っていつも言ってた
どんなお酒なのか今となっては聞けない
今もあるのかも分からない
満州、台湾、釜山などに赴任していました
父方は戦時中は朝鮮にいて引き上げの時に父の弟は圧死したと聞いた。
母方祖父は太平洋戦争の時は国鉄職員だったので徴兵されてなかったと思いこんでたら昨年親戚が祖父兄弟が親戚の父親宛てに出した手紙が出てきたと見せてくれたんだけど、丁度南京事件位の時期に兵隊で行ってたのを知った。
当時の軍事紙幣?なのもあって色々衝撃を受けた。
>>399 シカトされてて草 実社会でもそうなんだろうな
チョンだけは信用するな優しくするな裏切られるぞ見かけたら近寄るな
>>869 同じく
なのに子供のおれは聞きたがりで困らせてたわ
じいちゃん人生で死にそうになったのが3回あったけど戦争中は1回
帰って来てから2回
戦後もなかなか大変だったんだなぁ
>>94 パイロット訓練を受けた人の多くが、戦後、JALで機長として活躍したんだよね。123便の機長も軍上がりだったし。
テレビで農家の長男だったからJALに行かずに田舎へ帰って農家やって後悔してるとかいう人が出てた。
>>855 最初の年に余りにも死なせすぎたせいかソ連にも余裕が
出てきたせいか分からないけど年を経る毎に飯はマシになり
仕事もシベリアから中央アジアに移ったから木こりから逃れて
家建てたり道路舗装したりイモ掘ったりパン焼いたり色々
やったってさ。兵隊に取られる前は漁師で網の繕いができたから
最後にいた街ではこっそりバイトしてノルマの倍ぐらい缶詰とか
タバコ貰ったし女にもモテたって言ってた
年々、被爆者や戦争体験者たちの話は内容がでかくなるばかり
戦争中、日本は韓国から9000万人強制連行し
韓国の豊富な資源や農作物を略奪した
大和も零戦も強制連行した韓国人が設計した
日本人が知らない隠された歴史
豆な
>>880 適応力が凄くて、たぶんどんな環境でもやっていける人だね。ひょっとしたらこちらの親戚とも会っていたかもしれないね。たくましいわ
一方、戦中の話を盛って話すのがいるのも事実でなぁ。嘘が見極められないと話聞けない
うちのひいひいじいちゃんは太平洋戦争時は前線に行っていたらしい
地雷で片足と指を吹っ飛ばされて帰って来たんだと
戦後の方はよく聞くけど戦中の話はしてくれない
父からの又聞きだけどシベリア抑留者がロシア兵から刑を受けた時は木に縛られたらしい
朝になると死んでしまってお辞儀をした格好になるからそれをナントカ(忘れちゃった)刑って言ってた
ナントカの部分が思い出せない
食べるものがない時は人を食べたとか、靴を焼いて食べたみたいなことは聞いた
>>882 してないんだよなあ、寧ろ一番安全な場所。
じいちゃんは、日中戦争で乗ってた船がやられて海に投げ出されたんだと。
で、軍服や武器は天皇からお借りしてるものだから捨てられなくて海に沈んでいった人が沢山いる中
じいちゃんは躊躇なく捨てて岸まで泳いだらしい。
じいちゃんよく武勇伝で語ってたけど話はそこまでだった。
じいちゃんが生きてるうちに聞けばよかったな。
フルチンで上陸してからどうしたのか。
>>47 南京大虐殺はどこまで事実か知らんが。第一次世界大戦で、英国軍は、陸軍に徴兵された人の4割は実戦で弾を一発も撃たないで死んでいったらしい。部隊によるだろうけど。普通の人はそんな感じだと思う。
>>453 今の若者と高齢化社会見てると日本は終わりだと思う。日はまた昇らない。
爺さんラオスまでいったけど、帰ってくるまで1年くらいかかったらしい。
戦友はどんどん死んでくし、つらかったろうな。
>>895 バンドオブブラザーズみて
第一話 空挺師団の猛訓練
第二話 空輸中に対空砲で撃たれて何しないうちに戦死
って流れがみてて気の毒すぎる
爺さんは艦に乗ってたけど兎に角イジメがすごかったって
8月9日、ばっちゃと親父が満員のチンチン電車に乗れず、
稲佐橋を歩いてたら爆風で呉服屋だか反物屋の店内に振っ飛ばされたと聞く
乗れなかった電車に乗れていたら確実に死んでたらしい
毎年参列してる祈念式典、今年の参列はどうしようかな
>>19 祖父母の代までサハリンにいてじいちゃんロシア語もペラペラだったから通信官?だったみたいで戦後ひきあげ農家になりプライドズタズタで酒乱になり人が離れていき事故で死んだという地獄の話を聞いたわ
満洲人
とても優しかった
ソ連兵からかくまってくれた
日本人に食糧を要求してきた
ソ連兵が攻めてくると寝返って日本人を殺した
↑↑
満洲人はなんでこんなに評価が別れるの?
>>903 頼るつてのない引き揚げ者が押し込められる山間の開拓地みたいなとこかな?
うちの祖父母も樺太からの引き上げ組で青森の山中の森に住まわされて苦労したみたい
>>882 9000万て日本の当時の総人口より多いだろ
>>904 五族共和
多民族国家だろ
単に満州人でくくれないよ
>>904 それまでの本人の態度がそうさせたんでしょ。
>>371 無能な職業軍人のせいで大勢の日本人が戦争の犠牲になり
戦後もそいつらの体罰教育の犠牲になっているのか
無能なのはそれを許した当時日本に生きてた有権者全員ですよ
それは今もそう
選挙の棄権=政策に賛成なの
>>911 川藤の高校時代の野球部監督がまさにそれ
夏休み、実家に帰っていた川藤が
前日の嵐で国鉄が不通なので高校に戻れなくなったことを
監督に電話したら「歩いて帰ってこい」と言われて
仕方なく朝3時に実家を出発してお昼頃についた
結局、その日の午後からの練習に出たのは川藤一人で
他のヤツは死ぬほどしごかれたそうな
>>916 その監督
川藤がめっちゃ愛おしくてシゴキまくったんだろなw
最近じいちゃんの兄さんの遺留品がアメリカから返還されたわ
フィリピンで戦死した際の所持品で、国旗に武運長久と近所の人の名が寄書きされてた
>>872 じいちゃん曰く、食料現地調達した時に敵戦闘機が機関銃撃ってきた事があったそうで。偶々近くに身を隠せる茂みがあったから助かったが、逃げ遅れた同僚は腕、足、胴体を撃たれて死んだそうだ。その時の同僚の姿は頭にずっと残ってるってさ
じいちゃんが満州に行った時のアルバムみたいな物がある。
おそらく兵隊で行った人達に後から配られたのかな?
行進や飯時とかの写真が多い。
>>912 ああそうそれだありがとう。凄惨だよね…
>>230 もしかしてその爺さんの怪我って首から顎にかけて銃で撃たれたとかじゃない?
うちの爺さんと数人は死んだふりして隠れてて生き延びたって聞いて軽蔑したわ
それ以外の戦友はみんな突撃して死んだらしい
>>926 爺さん死んでたらアンタこの世におらんのやで?
家の近所にB-29が落ちて、みんなで石を投げてやったわって、昔の職場のババアが話してた。
大昔ケンモキッズやったワイは近所に住む飛行機のりのじいちゃんの話を聞いた事があった
雷電は後ろからみるとおにぎりだかおむすびだかに
みえたのでそのまんまで呼んでた、とか一式陸攻は
胴体がまるで葉巻なのでそう呼んでたとかビミョーに勇ましくないエピソードばかり聞いたなw
昭和18年に召集されて零戦とか乗ってたそうな
内地の防空飛行隊?サンマル某とかに配属されてた
らしく南方へは逝ってないので助かったとも逝ってた
でも戦争が続いてたら特攻隊に行かされてたかもな、とも逝ってた
敵機を何機撃墜したの?とか聞いたら誤魔化すように沢山落とした、とか逝ってたけど子供心でもこれ以上追求はしないでおこうと思った事だけはケンモジになった今でも鮮明に覚えているw
爺さんが支那事変で脚撃たれて帰ってきたとかそれぐらいだな
父親からは、農家だったので食べる事に関しては問題無かったと聞かされてる
婆ちゃんの男兄弟が水兵で、
レイテ湾の話を婆ちゃんから聞いた
水平線から物凄い数の敵機が雲の様に湧き出てきて
乗っていた巡洋艦?だかが沈み、海に飛び込み
重油を沢山飲んでしまったらしい
その駆逐艦も沈み、
しばらく海を漂って、
救助の駆逐艦に助けられたらしい
爺ちゃんがいた国は反陽子爆弾一発で勝敗がついたそうだ。
爺ちゃんが鉄道工兵で、
遺品整理してたら
ノモンハンの時の工兵隊VSソ連軽戦車隊の
戦闘絵図が出てきた、
爆薬使って肉薄攻撃した図
結構貴重だと思うが
じーさんは戦争に行かず名古屋の三菱で働いてた
零戦でも作ってたか
>>859 まとめて書けよ
勿体ぶって小出しにしてウザすぎる
しかも文章ヘタで面白くないし
伯父が戦死してる
お婆ちゃんは超嘆いて大変だったそうだ
>>19 うちの爺さんは輜重兵で兵舎建てたりトイレやキッチン作ったりしてたらしい。
鉄砲持ったのは出発前の訓練でおしまい。
>>859 続き気になります
義理父さん亡くなったんですね…
>>331 村の男が軒並み戦地に行き、オトコ日照りが続いた女性たちがなんでか校長に手懐けられて妊娠出産。戻った夫たちが校長に似た子供たちがそれぞれいた事に驚いたらしい。
それも20近くの世帯で起こったって死んだじいさんが言っていた。
>>712 うちの母親も買ってた犬を朝鮮人に食われた
赤肉で美味かった言われたらしいわ
東十条な。
多いんだわ、今でも朝鮮人が
満州はロシア軍のレイプは日常、女を連れ去って奴隷にしてたと
当時現場にいた今は亡き祖母から聞いた
もうすぐこのスレ終わっちゃうね。
貴重な話が聞けたし、こういう体験談を聞けるのもだんだん少なくなってくるし、たまにはこういうスレ作って欲しいな。
自分の携帯からは何故かスレ立て出来ないし...
色んな話、勉強になりました。
ありがとうございました!
>>942 状況が理解できないんだけど
ペットの犬が朝鮮人に殺されて食われて
さらに美味かったと言われたの?
お袋さんは黙ってたの?
>>946 戦中、戦後は飼い犬の盗難がけっこうあったってよ
俺の婆さんもチョンに犬盗られて食われたって言ってた
文句言おうもんなら暴力で返すからなあいつらは
>>946 5〜6歳の小さい子供の頃のおふくろに
狂暴な朝鮮人の大人集団相手に何ができるのか・・・
そのころ、じいちゃんは戦地行ってるし
ばあちゃんはどうしてたか知らんが
2つ上のお兄ちゃんと怒って大泣きしたらしい
だから、うちの母親は強烈に朝鮮人が大っ嫌いだったわ
俺がガキの頃から何回も犬見るたびにこの話聞かされたからな。
って、まだ生きてるがなww
嘘つきで犬食いチョン潰してやりたいな。
俺の職場にもチョンオヤジが一匹居るけど、嘘つきだし、仕事はサボるし、ちょっと気に食わない事があると、上司にでも食ってかかる癖が悪いバカチョン。
こっちからケンカを売る訳にもいかないから、向こうからふっかけてくるのを待ってる。
絶対にチョンには負けない!!
首を斬り落とす時は血が吹き出るので、斬ると同時に一歩下がる。
帰りの船で現金を渡されたが、国の為、当然の務めを果たしたまでなので、受け取らなかった。
剣道のおじいちゃん先生が言ってたな。
団塊世代の親父は、こんな戦中派が上司だったんだから大変だっただろうな。
いまどきのパワハラなんて当時と比べれば大したことないかも。
>>947 暴力で来るなら、より激しい暴力で対応すればいい
関東大震災の時に日本人が自警団を作って朝鮮人の犯罪を抑えたように
何で泣き寝入りを当然の様に言ってるのか
オーストラリアの東京にコンゴの原潜から放たれた原爆が落ちたときは悲惨だった
除染に駆り出された労働者目掛けて二発目の核が落ちて降伏したよ
>>952 はあ?
俺の子供は成人してるわ
バカじゃねえのこいつ
何故戦争になったの?って聞いたら
そんな雰囲気だったからと言う答え
その時厨ニの子供はスポックになろうと誓ったのであったw
部隊長が「今日は寿司!」といって晩飯が寿司になった
ところが寿司飯にしては柔らかかったので部隊全員分の米を炊き直したとのこと
場所はニューブリテン島
部隊によっては終戦まで食糧に困ることはなかった
>>950 突然教育内容が180度変わったから世代間のギャップは凄かっただろうな
基本的には同じような教育を受けたはずのアラフィフの俺とアラサーの奴でもかなり感覚が違うし
1975年 小学校2年くらいの時
クラスで新しい友達ができたので 学校から俺の家の帰り道の途中にそいつの家に上がった
奥から のそっと老人が出て挨拶してきたんだけど
左目の片目がなかった まぶたごと無くなっていて 左目がクリッと陥没した状態
だけど病人じゃなく 快活なしゃべり方で挨拶されたんだわ
俺はびっくりしたけど 相手が快活な口調だったので 思わず「目は どうされたんですか?」と聞いてしまった
相手は「ああ 戦争でな・・・」と言った
翌日だったか 後日 友達の話になり「彼の家には左目のないおじいちゃんがいる」と言ったら
「そんな人はいない ウソつくな」と怒られて そのまま友達になれなかった
やはり 負傷した老人の事は ふれられたくなかったんだろうな スマン (´・ω・`) 馬鹿
俺としては 写真よりも 本物の生々しい傷跡の人を見て 「戦争」を少し実感できた
>>904 普段のその人の人望、現地人の教育や民度の差、単なるうん、色々あるんでしょうな
>>391 あれは日本人が読むべき本よね
史実ではないが上手く書けてる
ブッコフで立ち読みして泣いたわ(´;ω;`)
30年くらい前にはロシアの悪口しか言ってなかった婆ちゃんが晩年である10年前には
「ロシア人は紳士だったよ。朝鮮人は酷かったけどそれに比べたらロシア人なんて本当に紳士だった」
って言い出したときにはロシア人の批判は言えても朝鮮系は悪く言いづらい世の中だったんだなとは思った記憶
ガキの頃、史跡などではない放置状態の防空壕跡地にはいったら
入口がわからなくなり出られなくなりそうになり怖い思いをした
夏場は厚さがこもってヤバい
○○のある密林で古代王朝の財宝をみつけてね
それを本国へ輸送する予定だったんだけど・・・輸送するための潜水艦が中々来なくてね
戦場も激化して仕方ないから地中に埋めて隠したんだよね
でも埋めた部隊が全滅しちゃってどこに埋めたか分からないのよ・・・
そう、これが遺骨回収の真相さ・・・信じるか信じないかはお前次第m9(´・ω・`)
爺様が「中国人は信用するな。朝鮮人は相手にするな」と言ってたのが、ガキの頃は差別主義者だと思ってスゲー嫌だった。
今ではその意味がよーく分かる。
「中国女は色が濃い」と言ってたのを肌の色の事だと思ってたが、
セックスの事だったのもおっさんになってから理解したわ。
深夜のドキュメンタリー番組で韓国人が犬〆て鍋で煮て食うとこまでやってたよ
日本も牛や鶏を食べるがそれは決められた場所で最新機械の針で1瞬で苦痛を感じなくなる
80代の母から聞いた話
近所のおっちゃんA 「おー、戦争終わったぞ」
近所のおっちゃんB 「勝ったんこぉ?」
>>906 日本人ですら4000万人くらいなのにな。
しらねぇと思って随分誇張して吹聴するのがあちらさんの人々
>>19 俺が子供の頃、おじいちゃん「満州で首をはねたが足は動いていた」って話が怖かった。田舎に遊びに行く時、庭にいたカモが次の日午後いなくて聞いたら「新鮮なうちに食え醤油味だから旨いぞ」って。早朝にカモ鳴いていた声の原因が分かりそれも怖かった。
>1
俺は、ユーゴスラビア連邦崩壊戦争、
いわゆる10日戦争、
スロベニア独立戦争の体験者だが、
何か、いつの間にか戦争になってて、
いつの間にか終わった奇妙な戦争だった。
当時、
内定が決まって単位も余裕であったので中欧旅行しました。
イタリアのトリエステからバルカンを抜けてアテネまで行く予定でした。
当時の、日本のニュースでは、
旧ユーゴスラビア連邦 クロアチアの、
スプリットの造船所で、
ストライキや、クロアチア首都ザグレブで、デモなどやっていたが、
まさか、独立戦争になるとは思っていなかった。
トリエステから、ユーゴスラビア連邦、スロベニアの首都、
リュブリヤナに列車で行き、
駅で、
クロアチア首都 ザグレブ経由、
ユーゴスラビア連邦首都、
ベオグラード行きの切符を買って飯食ってたら、戦争勃発。
持っていたディナールはその場で紙屑。
かろうじて使える、
セルビア人の店で缶詰と酒を購入。
翌朝、脱出しようと思ったら、
空路も、イタリア行きオーストリア行きの国際列車は、すべて停止された。
クロアチア国境も閉鎖されたので
缶詰生活でした。
なんだかんだで、スロベニアが独立戦争に勝って、
敗北して撤退する両手を上げて、
トラックの荷台に整列した
ユーゴスラビア連邦軍の兵隊さんに、
石や瓶をスロベニア人と一緒に投げた。
現地の人が、お腹壊して相談に来たから
薬をあげたらお礼に針の秘伝を教えてくれたってじいさんは言ってた
母は学徒動員で川西航空機で飛行機作ってた
オカンの作った飛行機に乗ってた兵隊さんかわいそう
前に知り合いのおじいさんが
静岡のお寺の裏山で防空壕ほってたら、B29がいっぱい飛んでいくのが見えて
きっとあれが東京大空襲だったんだろうといってた
>>979 特攻してたらお前は産まれてなかったんだな
もう亡くなったが日本画家の先生と両親と親戚の8人で奈良のお水取りに行った時に
たまたま日本画家の先生と2人っきりになってしまい、ビルマで食う物なくて死人喰った話を淡々と聞かされて本当にまいった
おかげで初奈良は最悪な印象しかなくそれ以来奈良には行っていない
うちの爺さんは戦闘に参加したのは香港攻略のときだけ
その後は何とかって敵にスルーされた島で畑仕事してたと言ってた
>>471 以外と
うろ覚えでB29とか街に戦車が走ってて怖かったとか覚えてるくらいの年齢だよ。
ジオン公国の卑劣な作戦で多くのコロニー市民が殺された
じーさんが戦艦大和の乗組員だった。
あまり話したがらず
孫の間では何故か、コックだった、とされていたんだけど
よくよくきいたら大砲の弾道計算する目の役の人だった。
重要性はよく分からんし、下っ端だとは思うけど。
うちのじいちゃんは満州で工兵をしてたらしい、職業軍人の下士官で、しかも戦争後半は内地勤務で悲惨な話は殆どきかなかった
>>888 親父の兄貴は満州で逃げ遅れてシベリアに抑留されたが、腕の良い鍛冶屋(主に鍬とか鋤を作る)だったので、
物凄く大事にされて高待遇だったそうだ。
>>944 毎年この時期になると立ててる
パートスレの要望あるなら立てるけど
>>987 それ偉いの?
主砲じゃなくて副砲の担当だったみたいだよ。
戦友会ともあんまり関わりを持たなかったみたいで
正直全然分からないんだよね。
死ぬ間際に思うところがあったらしく、
地元の公民館で1回だけ戦争体験話をした。
全4回の予定だったけど、1回だけで死んじゃったんよね。
うちの爺さん盧溝橋にいたぞwww
持ってた刀かっこよかった
>>599 冷戦時代は俺らが知らない間に人類存亡の危機が何度か起きてんただよな
レーダー監視してる奴が定期連絡怠ったせいで核戦争寸前まで行ったとか
昭和33年のツアリーボンバの衝撃派も地球を3周したらしいし
>>911 無能なのは職業軍人の一部だけじゃないけどね
その無能な職業軍人と組んで戦争を起こした無能な政治家の責任でもある
鳩山一郎のことだ
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