内モンゴル人民革命党粛清事件 - Wikipedia
1966年に開始された文化大革命で内モンゴルへの中央からの介入がより強化され、
7月12日、ケ小平は内モンゴル自治区主席であったウランフを呼び出し[2]、
「内外モンゴル統一を企む民族分裂主義者」
「現代の王公となって独立王国を築こうとしている」などと攻撃して失脚させた。
内モンゴルでは内人党分子とされたモンゴル人が弾圧された。
こうした混乱は続き1969年には内モンゴル自治区に軍政施行、
内モンゴル生産建設兵団が組織的に送り込まれ、
1970年には内モンゴル自治区は廃止され周辺各省により分割された。
1966年から1976年にかけて中国政府は内モンゴル自治区(南モンゴル)、
新疆ウイグル自治区(東トルキスタン)、青海省(チベット)、
甘粛省、東北三省(満洲)に先住していたモンゴル人に対して
「分裂主義者」「地域国粋主義者」などの罪名のもとで70万から80万人を投獄し、
5万人から十数万人を殺害した[1][3][4]。
これは当時の内モンゴル自治区の人口の6割以上を占める[4]。
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