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日峰山頂の神社から見下ろす紀伊水道の小松島湾。舒明天皇もこの風景を見たのだろうか=井上英介撮影
![【衝撃】邪馬台国、畿内でも九州でもなく『四国』にあった。古代徳島文明が注目を集める [237216734]->画像>6枚](https://cdn.mainichi.jp/vol1/2022/09/26/20220926ddlk36070359000p/9.jpg)
日峰山頂から見下ろす徳島平野。海原を眺め、後ろを向けば国原も見渡せる=井上英介撮影
![【衝撃】邪馬台国、畿内でも九州でもなく『四国』にあった。古代徳島文明が注目を集める [237216734]->画像>6枚](https://cdn.mainichi.jp/vol1/2022/09/26/20220926ddlk36070360000p/9.jpg)
邪馬台国は徳島にあった。壬申の乱は徳島で起きた。3世紀から8世紀初めの前期藤原京までヤマト王権は徳島にあった……そう考えるしかない状況証拠を列挙。学校で習った通説が揺らぐ困惑、阿波説への拒否感がないまぜになり激しい知的興奮を覚えました。
ならば、冒頭に紹介した万葉集の「国見の歌」はどこで詠まれたのか。徳島、小松島両市の境の日峰山(ひのみねさん)(192メートル)だと書かれています。この山の徳島市側には「香具山」を思わせる「籠(かご)」「籠山(かごやま)」という地名があるのです。私は著者の藤井さんに連絡を取り、一緒に車で登りました。
彼は徳島県庁を12年前に定年退職して古代史研究に熱中。全国各地を訪ね歩いています。「私は奈良の香具山に2度登った。当たり前だが海など見えない。古代史家も国文学者も誰ひとり、この疑問に答えません」。道中、熱に浮かされたように語り続けました。
山頂に小さな神社があり、そこからの風景に私はあっと息をのみました。海原も国原も一望できます。「舒明天皇はこの場所に立って詠んだのです」(藤井さん)
先述の西山谷2号墳については、考古学者の石野博信氏が徳島新聞への寄稿で「4世紀大和政権の葬法が3世紀の徳島にあるとは何ごとか、と学会は騒然とした」と書きました。「学者が大挙して押しかけ大騒ぎしたのに今は無視されている。畿内説に都合が悪いからだ」。藤井さんは阿波説が顧みられない現状を悔しがります。
新聞記者はファクト(事実)に忠実であれ、と駆け出し時代からたたき込まれます。彼が足で調べ上げた数々の「通説に不都合な事実」は無視できません。
「ヤマト王権はここにあったに違いない」。私に阿波説の真偽は判断できませんが、日峰山の頂で胸にストンと落ちるものがありました。【徳島支局長・井上英介】
https://mainichi.jp/articles/20220926/ddl/k36/070/278000c?inb=ra